カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-04-24 互いに愛し合いなさい

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

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ヨハネによる福音 13章31-33a.34-35節   さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」十

 今日の福音書は、ヨハネの13章、イエス様の十字架に架かる前のお説教の一部分、しかも非常に有名なところが朗読されました。イエス様はわたしたちに一つの掟を与えられた。新しい掟を与えると。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という、互いに愛し合うという掟をわたしたちに与えられました。そして、わたしたちはクリスチャンとしてこの掟を日々生きていくように呼ばれているということ、あるいは、究極的には、ただこれだけを生きたらいいというふうに言えるかもしれない。わたしたちが互いに愛し合うというのは、どういうことを大切にして何がポイントなのかということも考えてみてもいいかもしれないと思います。例えば、最近見た映画で、まだ上映中なんですけれど、ロブスターという映画を見たんですね。多分この中でだれも見ていないと思いますけれど。SFのようなファンタジーのような御伽話のような映画なんですけれど。その社会、人間の社会なんですけれど、その社会は夫婦として互いに愛し合っている人しか生きていけないという社会なんですね。独身の人は生きていけないという法則があってですね、だから夫婦で互いに愛し合う人しか生きていけないんですね。独身者はホテルに行かなければならなくて、40日間かなんかの間にパートナーを見つけなければならないんですね。究極のお見合い、昔テレビでお見合い番組とかなんかがありましたが、ともかく40何日間でパートナーを見つけなければならない。パートナーを見つけられなかった人は、動物になっちゃうというね。で、最初から申請して、つまり、夫婦として互いに愛し合わない人は、その社会では生きていく価値がないということで、動物になっちゃうんですね。で、主人公はどういう動物になりますかといったらロブスターがいいと言ったので、映画のタイトルはロブスターというのですけれど。それで、ホテルの人は、それはいいと。犬とか猫になりたがる人が多いので、世の中に犬とか猫とかあふれちゃってます。ともかく、ただ一つのルールがあって、夫婦になるために共通点がなければだめなんですね。映画の中で共通点が何か一つなんでもいいからなきゃならない。ホテルの支配人の人は歌が上手なんですね。だから、パートナーも歌が上手で、つまり何かがかぶってないと、だめなんですね。例えば、ギターがひけるのだったら、両方ギターがひけるとか。つまり共通項があったらパートナーになる資格があるのですけれど、でも共通項が見つからないとパートナーになれないと。そういうある意味風刺風の映画だと思うのですが。で、いろいろあって、本人はもうそこが嫌でですね、うまくパートナー見つけられなくて逃げちゃうんですね。で、逃げちゃって今度は森に入ったら森には一人でしか生きていけないグループがあって、そこは結婚も何もしたらだめなんです。で、主人公は、逆に一人で生きていくことがルールになっている社会で好きな人ができちゃって、そこも暮らせなくなって逃げなければならないということなんですね。ちなみに、その主人公の人とパートナーの人は近眼であると。両方とも近眼であるということが共通項で、それでパートナーになれる。でも、最終的にパートナーが失明してしまうのですね。失明してしまうと主人公は選択を迫られるわけです。失明しないとパートナーとして暮らせないのです。だから、失明して一緒にパートナーとして暮らすか、失明がいやだったらシングルにならなければならないという、最終的にそういう選択を迫られることになっちゃうのですが。
互いに愛し合うということは、たしかに、似た者同士だから互いに愛し合えるとかですね、完全に一致しなくても、趣味が似ているとか、価値観が同じだから互いに愛し合うということも確かにあるし、たしかに全く違っている人とは互いに愛し合うことが難しいかもしれないです。でも、わたしたちクリスチャンにとって、互いに愛し合うということで、絶対ではないけれど、一つ大切なことは、一体何なのか。それを考えたときに、わたしとしてはこの1週間、10日くらいですかね、熊本の震災のことで頭が一杯で、そういうことばかり考えているとか祈っているような。でも、わたしは思ったんですけど、互いに愛し合うということの一つの始まりは、苦しみや痛みがあるというかですね。苦しんでいるものがある、あるいは苦しんでいる人があるというところから、互いに愛し合うということが始まるのではないかと思うのですね。
やはり地震があったときに自然災害ということを目の当たりにするわけですけれども、思うのですけれども、その中にわたしの中に起こってくる気持ちの一つは、わたしたちは根本的に災害を前にして、あるいは、その前に、わたしたちは大自然を大切にしているのか。つまり、イエス様が互いに愛し合うということは、人間同士だけではなしにですね、この周りの自然環境も愛し合うように呼びかけられているのではないかということを逆に強く感じるような点もあります。というのは、災害であって、もちろん被害を受けた人にものすごく大きな悲しみや苦しみがあるのは、間違いないですけれど、それ以前に、わたしたち人間によってですね、なんか自然がものすごく痛みつけられているというかですね、人間の勝手きままによってですね、どれだけ自然が痛みつけられているのかということを、わたしたちは忘れがちではないかという気がします。で、去年、パパ様がですね、エコロジーについての教書を、教令を出されて、残念ながらまだ日本語訳はでてないですが、わたしたちが一つ互いに愛し合うということの中には、やはり大自然とどのように調和して生きていくのかということをわたしたちはやはり真剣に考えなければならないということは入っているものなんですね。
で、この聖堂でミサに与る限り、12枚のステンドグラスはですね、大自然のことを忘れないようにと言って、わざわざ、海とか星とかですね、雨とか火とか、わたしたちが大自然とともに歩んでいくように、それを思い起こすように、わざわざこの大聖堂には大自然の12枚のステンドグラスがはめられているわけですね。これは単なる飾りではなくて、わたしたちに問いかけが絶えずあるものではないかなと思います。そして、それとともに、大きな苦しみのあるところには、やはり何かそれを乗り越えようとする力がなぜか湧いてくる。
例えば先週の終わり位で3日位前のことですが、一人の教会学校のリーダーが、熊本の災害支援のボランティアに行きたいとわたしに言ってですね、それでもって、教会は何かしませんかというから、そしたらそれをしたらいいかなと思って、この3日位でですね、ボランティアを派遣することを、ゴールデンウィークにですけれど、約1週間後ですが、派遣することに多分なると思います。でも、それも人間の心のなかにあるんですよね。やはり互いに愛し合いたいという気持ちが。苦しんでいる人がいたら。何かをしたいと思ってですね、動き出す心がわたしたちの中にはやはり眠っているんだと思うんですね。だから、どういう形になるかわからないですけれど、この若者を被災地にですね、ボランティアとして派遣していくことを恒常的に計画して、特に夏休みとか行ける人多分多いと思うので、それをやっていきたいと今思っているところなのですが。
やはり、この苦しみやつらさがあるときに、なぜか人間の心の中に互いに愛し合いたいという気持ちが湧いてくるんですよね。苦しみに打ちひしがれてもうだめだというか絶望的になる面もあるけれども、でもそれと同時に、だからこそ互いに愛し合おうとする気持ちが人間の心の中から湧いてきて、それを実行する人々もやはりいるわけですね。だからこそ、わたしたちは、苦しみやつらさを乗り越えていくことができる。だからこそわたしたちに互いに愛し合う恵みが、掟が与えられているのではないかと思います。もちろん大きな災害もあれば、皆さんの中の小さな苦しみや何か問題もあるかもしれないですけれど、それらすべては、互いに愛し合うきっかけになる、間違えなく。それを通してわたしたちはイエス様の掟、あるいはイエス様の望みを実現していくように一人ひとりが呼ばれていると思いますね。たとえそれが大きなことでなくても。だから互いに愛し合うということは、わたしたちにとって、唯一でありいちばん大切な掟なんだと思います。互いに愛し合うことによって苦しみを乗り越えていく何かが必ず生まれてくるからですね。だから、イエス様は十字架の前にこの掟を言っているわけですけれど、それを超えた復活の恵みの中でこそ、この掟は本当の意味を持ってくるのだと思います。わたしたちが互いに愛し合って行けるようにこの1週間自分の中で、まあ、体制が整ったら、正式に若者のボランティア正式に募集を始めるかもしれないですけれど、まあ、いろんな形でわたしたちは愛し合うことができると思います。もちろん最初に言ったように似た者同士だから愛し合うということもありますが、苦しんでいるからこそわたしたちが愛し合っていける、で、その恵みが与えられている、この恵みをわたしたちは本当に感謝して、そして、わたしたちの生活で実現していけるように、このミサでお祈りを捧げましょう。十                         Dictation by Hiroshi K.

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 第一朗読 使徒言行録 14:21b-27

 (その日、パウロとバルナバは,デルべから)リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。

 第二朗読 ヨハネの黙示録 21:1-5a

 わたし(ヨハネ)は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言(った。)

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