カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-10-10 いやしのミサ

 英神父 ミサ説教                       ニコラ・バレハウス聖堂ミサ於 

ルカによる福音 11章29-32節  そのとき、群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」十

 今日の第一朗読で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」とあります。自由といっても、肉体的自由というよりは、本当の心の中に与えられている、わたしたちの様々なとらわれから開放してくださる、神様の力をえた自由。その自由を、わたしたちは生きていくことができるということです。それをわたしたちは思い起こしたいと思います。
わたしが本当に自由だと思う人の一人が、コルベ神父様で、8月に記念日があり、アウシュビッツの強制収容所で命を落とした方です。この世の中で一番不自由なところは、強制収容所だったと思うんですね。人間的に普通のレベルで考えたら。お金もない、食べるものもない、強制的に労働させられて、次々と殺されていくわけですから。コルベ神父様は心が全く自由だったので、この世にいるのと同じように、神様に捧げて、収容所の中で生きておられた。最終的には自分の命を身代りにささげた。なぜできるかというと、心が自由だったからですね。
彼は結核で、常に微熱があって、病気を背負って、全然健康な人ではなかった。でも病気とか、まわりの環境とかに全くしばられていない、神様のみ旨を生きるということだけを、大事にしていたわけです。何の問題もなく、病気であり、迫害であり、全部受けとめていかれた。
わたしたちは環境に左右されますから、体の調子が悪いよりは良いほうがいい、不自由よりは、自由なほうがいいと思う。でも本当のところはそこにポイントをおかないところに、わたしたちの神様がくださる自由な恵みが与えられているということです。その自由さがあるというところに、自分の立ち位置を置くことが、自由の一歩だと思います。神様が本当に望んでいることを行っていくことに、わたしたちの本当の自由の源がある。
今日のルカの福音書ですけれど、群衆の数が増えてきて、奇跡的なしるしをもとめた。イエス様は「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」ヨナのしるしは何かというと、ニネベに行って、三日後に滅びるからと言ったら、ニネベの人は、外国人が街頭演説のように説いてまわっていたのに、悔い改めた。本当の滅びから救われた。
いやしのミサで言うのもなんですが、病気が治る、治らないというのが問題じゃないんですね。今の病気が治っても、また別の病気になるかもしれない。一番ポイントは、しるしというものが与えられているということは、悔い改めのためなんです。しるしというのが、神の恵みであったり、良いことであったり、悪いことであったり、どのようなしるしが与えられるかは、様々ですが、そのしるしを受けて自分の生き方を悔い改めて、変えていくところに、自由への道がある。本当の開放への道がある。
ニネベの人々は、ヨナの人がきて、外国人が突然来て、生き方を変えたから、本当の滅びから救われた。わたしたちが一番、恐れなければならないのは、魂の滅びでしょう。地獄につながってしまうような、生き方こそ、実は一番、恐れなければならない。今が良いか悪いかはともかく、考えなければならない。悔い改めて、神様の生き方に、自分の心を合わせていくように変えることだと思います。
ニネベの人がヨナのことを、危ない奴が来たと、笑ってすませていたら、三日後に町全体が滅んでいたわけです。それを考えると、大した悔い改めだと思います。
病気でもそういうことはあるわけで、暴飲暴食をして、胃潰瘍になった人もいる。胃潰瘍の手術で治しても、生き方変えてなければ、三年後にまた胃潰瘍になると思います。統計では癌は生活習慣と深い関係があるわけですよね。あるアンケート調査で、大きな癌の手術をして、癌が治っても、生活習慣を変えていないひとが、だいたい7割。生き方を変えた人が3割くらい。一番大事なことはなにか、癌の手術をして癌を治すことよりも、生き方をこの際、変える方が、本当はもっと大事だという。
何をどうやって変えるかは、人によって自由だけれど、病気そのものは、明らかにしるしだと思います。何かがうまくいってないから、病気になるわけですけれど、しるしだと考えた時に、自分の価値観とか、ものの考え方とか、自分の生き方を、ちょっと見直すチャンスだと思いますね。病気が治って、前と同じように生きいたら、また三年後に同じように病気になるわけです。
病気が治るというしるしですよね。そこからどう自分の生き方を変えて、神様のみ旨にかなう生き方に歩んでいこうとすることが、自由への道だと思います。
奴隷とはなにかというと、何も変えない、ということです。牢ごくにいるまま何も変えないから、ずっと縛られたまま。病気であろうとなかろうと。本当の滅びが待っている可能性があるわけですから。健康だから万歳ということはあり得ないんですよ。健康のままやりたいことやって、地獄に落ちちゃうこともあるんですよ。
むしろ病気であるから、出来ないから、かえって恵みにつながる可能性も十分ある。本当の神様の自由につながることは当然ありますから。だからわたしたちがいやしを願うといったときに、根本的に自分の何を変えたらいいか、ということですね。どのようなことを大切にすればいいのか。どのような悪い習慣から、自分のとらわれから、世間的な常識をおいて、新たな生き方に変えていこうかとする。それがわたしたちに与えられている本当のお恵みだと思います。
神様はわたしたちにたえず様々なしるしや、チャレンジだったり、慰めだったり、助けだったり、それはわたしたちがより自由であったり、呼びかけをきいて、わたしたちが小さなとらわれをおいて、より自由に、より解放された道を歩んでいく。それがわたしたちの歩む道だと思います。
わたしたちはこのミサでいやしを願いながら、本当の救い、本当の自由の道を、わたしたちが歩んでいけるように、神様に願いたいと思います十

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   第一朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 4・22-24、26-27、31-5・1

 皆さん、アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません十

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