カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-11-27 人の子は思いがけない時に来る

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会於

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 マタイによる福音 24章37-44節  そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」十                                  待降節の第一主日は、毎年だいたい、世の終わりの危機的な状況の朗読が入ります。今日の朗読は、ノアの時と同じように、洪水のような危機的な状況が来る。前後では地震が起こったり、戦争が起こったり、天候に狂いが生じたり、世の終わりが近づいたらくる。そういう時にこそ、わたしたちが世の終わりに振り回されないよう、しっかり目を覚まして用意しなさいということを、わたしたちに告げられています。
目を覚ましているということは、具体的にどういうことを、心がければいいのか。それは祈りであったり神様を意識したり、生活を整えたりということなど、様々な意味など当てはまりますが、一つはわたしたちも信仰の軸をしっかり定めて、ぶれないようにして生きていく。それが目を覚まして行くという、一つの意味ではないかと思います。
今日の第一朗読ですが、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」といっておられます。主の山に登るというのは、霊的な意味で考えるべき事でしょうけれど、わたしたちの信仰生活の目標というのは、どこに向かってわたしたちが歩んで、どのような山を登ろうとしているのか、その道をどのように歩もうとしているのか、それをわたしたちはしっかりと、意識していく必要性があると思います。
自分の目標なり、登るべき山がはっきりしているならば、日常生活の様々な困難があっても、難しい問題があってもどんなことがあっても、わたしたちがもし方向性を失わなければ、その山に向かって登っていくことができるわけです。そのような自分にとっての信仰の山は一体何か、どのような山を登ろうとしているのか、それをしっかりと一人一人が意識することが、大事ではないかと思います。
11月号の教会報で発表しましたが、教会として、どの山を登っていくかということを、はっきり決めたんですね。「ミッション2030」という形で、2030年までこの教会全体として、歩んでいく道を定めたんです。それはまさしく山を決めて、どういう道を歩んでいくのか、それはまだこれから探しに行くのですが、教会として15年間はその道を歩んでいくと、そっちの方向性で行くとはっきり決めたんです。それは「私たち聖イグナチオ教会は、祈りにもとづく使徒的共同体を生きていきます。 現代の社会は、命の軽視や孤独、過度の競争原理や格差、環境破壊など、未来に希望を見いだしにくい反福音的なものに脅かされています。それに対して、私たちは自分たちの殻に閉じこもることなく、いつくしみの扉を開いていきます。」 私たちは、同伴者イエス・キリストと心を合わせて、貧しい人や弱い人の声を聴き、皆でともに手をたずさえて(日本人も外国人も、老いも若きも)、福音の喜びを分かち合っていく使命を生きていきます。」それはこの教会がこれから15年かかって、登っていこうとする主の山、一つのはっきりしたビジョンということですね。これに向かってわたしたちは歩んでいくと決定したわけです。もちろん一人一人がどのような山を登るのか、また一人一人自分の中に問いかけて、一歩一歩、歩んでいくことが必要なことと思います。
わたしはどっちかというとアウトドア人間ではないですが、中学生の時に一度だけ山登りをしたことがあって、その時に思いました。山というのはまっすぐ登れない。緑とか林とかありますから、頂上が良く見えないんですね。だいたい蛇行している道を少しづつ登っていくので、どれぐらい登ったのか、なかなかわからないけれども、ある時ずっと登っていると、突然辿りつくというか。だから目標をはっきり定めていても、日頃分かっているわけではないですけれども、そちらの方に向かっているならば、一歩一歩、歩みながら、山に辿りつくというわけですね。しかも、峰が連なっていないと、最初の山しか見えず、一つの山を登り終わったら、次の山がようやく見える。最初から全部の山が見えているわけではなく、今、見えている山しかわからない。その山の頂上に行くと、上に行けば行くほど、山が開けてやっと次の山が見える。そのもっと高い山に登らなければ見えないんですね。次の山の頂上までいくと、次の頂上まで行く。わたしたちは今、手前にある山しか登れない。経験的にもそうだと思いますけれど、そんなに未来のことの計画を人は立てられない。今手前にある山しか登れないのですけれど、その山を登るならば、自然と次の課題がある、次の目標が見えてくる。しかも、一つの山に登って次の山に登るのは、本当に悔しいんですけれど、一回降りないとダメなんですね。直線で登れず、一回降りていく。山登りがあれば、一回必ず山下りがある。一見無駄なようなこともしないと、逆の方向だといことをしないと、次の山に登れないんですね。なんでもかんでも上手くいくわけではなくて、登ったり下ったり、登ったり下ったりをしながら登っていく。わたしたちは無駄であるようなこととか、なんでこんな事とか、それを登るために必要な事が多々あるわけですね。
わたしたちは信仰の山を登っていくわけですけれども、きっとそれぞれに課題があるでしょう。教会としての山登りの目標を決めましたから、教会全体としてそれに向かっていく。ゆっくりこれからみんなで力を合わせながら歩んでいきますけれども、一人一人自分の山がありますね。それをしっかり意識して、歩んでいけるように恵みを願いましょう。それは急にパッと出来るものではなく、何でも時間がかかってゆっくりだと思いますけれど、信仰の歩みもそうです。ある日突然、神様の恵みがわたしたちを包んでくださったり、突然新たな光が見えたり、そういうこともありますが、だからこそわたしたちは、自分の歩む道を探しながら、見据えながら、歩んでいけるようにこのミサでお祈りしましょう十

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 第一朗読 イザヤの預言2・1-5

 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙13・11-14a

 皆さん、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。十

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