カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-03-13 入門講座 29 倫理神学

英神父 入門講座 29 倫理神学 

わたしはあなたの主なる神である。

1わたしのほかに神があってはならない。
2あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4あなたの父母を敬え。
5殺してはならない。
6姦淫してはならない。
7盗んではならない。
8隣人に関して偽証してはならない。
9隣人の妻を欲してはならない。
10隣人の財産を欲してはならない。

 今日はクリスチャンとしてどう生きていくかという倫理についてお話したいと思います。どの宗教でもそうですが、ある意味一番大切なことの一つは、わたしたちはどう生きていくかということです。クリスチャンとして、あるいはカトリックとして、どのように生きていくことが一番大切なのはということです。大きな原則は分かる必要性はあると思います。現代は混沌としているところがあって、様々な問題とか複雑な調整がありまして難しいお話ではあります。最近日本のカトリック司教団で「いのちへのまなざし」という本を出しました。倫理のことですけれども、特に現代の様々な問題をどう倫理的に考えて、わたしたちはどう行動すればいいのかということの、一つの指針になるのでこれはお勧めします。2001年に出たんですけれども、15年たつと社会の問題はとても変わっているので、増補新版で出ています。カトリックの原則はちゃんと示しながら、でも問題は状況というのは人によって様々なので、そんなに白黒つけられないことも多いです。その中でわたしたちがどうするか。人間の限界もあるし現代の様々な混沌としたものもある中で、わたしたちがどう選択するか、何を大切に何を選んでいくかというんですが、原則が分かった上でどう選んで何を選んで何を選ばないのかという主体的な決断を、神を前にして自分はどのように具体的に何を選ぶのかというお話をしなければならないということです。特に大きな問題を抱えている時はです。ある指針や方向性はあるんですけれども、最終的には自分はどう生きていくかということが問われるわけです。軽々に人を裁かない方がいいという。一人一人抱えている状況は様々で、様々なことことを考慮していろいろあるわけでです。たとえば司祭としてその人の細かい事を聞いた上でこうしたらというのはありますが、普通は人に喋ることではないですが、倫理の問題は人を裁くために使わないほうがいいと思います。律法学者のようにこれだけ正しくてこれは駄目とか、あまり考えない方がいいと思います。イエス様だったら今何をどう受けとめてアドバイスをするとか、そのような視点で考えてもらったらいいと思います。今日はマタイ福音書22章34節 「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」ファリサイ派とか律法の専門家とか、聖書の中では悪役として出てくるわけですけれども、掟にかなり捕われていて、イエス様は旧約聖書の様々な掟に反する行動をとっています。それは愛の生き方を大切にすることによって、表面的には掟に反するようなことをしているようなことが多かったので、それでどの掟が重要でしょうかと言うと、二つの掟をおっしゃるわけです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということで、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてということで、マルコでは力を尽くしてということも入っています。神様を心から愛するような生き方をする。二番目が同じように重要であって、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。倫理とか道徳とかを考えた時に、愛するということに尽きてくるわけです。40節「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」旧約聖書の教えですが、掟そのものに合っているか合っていないかのところに行くのではなくて、根本的な愛を生きているかどうかということ、そこからわたしたちは必ず問いかけなければなりません。わたしたちは神様と隣人を愛することですから、すごく徹底した言葉遣いなわけです。だから大切にするよりはもっと強い意味が入っている言葉かもしれない。どういう風に訳すかと言うと問われることですが、少なくとも神を愛するということと、隣人を愛することに今は焦点があるということです。この二つの原則にした上で、旧訳聖書の十戒というところを説明したいと思います。この出エジプト記というタイトルが語ってあるように、今から三千五百年前になりますが、イスラエルの民はエジプトで奴隷状態だったです。そこからモーセがリーダーに選ばれて神様の指導の元、エジプトを脱出することができるということが出エジプト記に書いてあります。エジプトを脱出して奇跡的に海を渡って、その後、今のエジプトにあるシナイ山のところでモーセがその山に登って、そして神様から十戒を受ける、十の掟を受ける。つまり神様から救われたものとして、逆に神様の方が十の掟を守りなさい、ということをモーセを通してイスラエルの民に告げる。 この十の掟がいわば律法とか予言者の言葉のベースになっています。当然クリスチャンもユダヤ教の伝統の上にのっているので、この十戒は有効だということです。これが破棄されているわけではありません。この十戒を通して説明したいと思います。第一「わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。」キリスト教とユダヤ教は一心教ですから、その神様だけを拝むということと、他の神々は拝まないという、いわゆる偶像礼拝禁止ということです。これはユダヤ教でもそうだしキリスト教でも当てはまってると思います。わたしたちが拝む神様は、天地の創造主であって、いわば唯一のこの世界の超える創造主、全能の神様であるので、神様を拝めばそれでいいわけで、他の神々をで拝む必要性が全くないからです。そこにわたしたちのフォーカスを当てて、基本的に他の神様には礼拝しない。他の神々や仏様に礼拝しないというのが、クリスチャンの生き方の根本的な態度です。それと同時に日本のように様々な伝統的な宗教がある中で生きていく上では、やはり例に反するようなことはしない方がいいでしょうと思われます。だから原則はこうであって、その状況の中でわたしたちがどうしていくかという時に、考えを巡らさなければならない一つになると思われます。例えば仏教のお葬式に出て焼香をするかしないか。しないのはおかしいですね。神様を拝む、仏様を拝むことではなくて、亡くなった方に対しての礼義に対することですから、細いことはキリシタン時代には揉めていて、現代も賢明な態度が必要なことの一つであろうと思われます。だから切支丹時代のを読んでいると、お燈明に火を灯していいかどうかという質問があって、礼拝行為としてはいけないけれども、ご主人様の命令だったら、召使いの務めとして果たすべきである。という細かいものはあります。自分で進んでお神輿を担ぐのはやめましょうとか。なかなか微妙な問題ではあります。案外微妙な日本で暮らす上では問題ではあります。偶像礼拝にはならないように、でも礼儀をあまり欠くのも、そのあたりの線引きを考えなければならないものではあります。でも本当のところは偶像礼拝は、神様でないものを神として拝むところだと思います。やはり神でないもの、つまりお金を拝むような生き方とか、地位とかこの世的なものに執着するような生き方自身がもっと偶像礼拝だと思います。結局偶像礼拝という基本は人間の欲望とかそれを満たすために神様を拝むというのはいけないということのほうが、もっと大事なことではないかと思います。 ユダヤ人達が旧約聖書で偶像礼拝に落ちたのがバール神ですけれども、これは収穫の神様、豊穣の神様なんです。この神様に拝んだら収穫がいっぱい採れますよという、どこかに現世御利益的なものが結びついている所に、人間の気持ちが行きやすい理由で、そういうことを戒めているのがこの掟の根本的なことです。だから占いとか占星術とかニューエージ系も認めていません。現世御利益的なものなので、占いをしてもらうのは同じ理由で、そういうことを否定しているということです。だから唯一の神様だけを礼拝して、他の神でないものに捕われないようにするということが大事なことだと思います。時々人間を神様にしてしまうこともありますが偶像礼拝です。皆さん方世代はないと思いますが、アイドル・タレント。アイドルとは偶像と言う意味ですから、そういうのも駄目だということです。人間を神様にしてしまうのは違うということです。二番目「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」これは日本人にもあるセンスですけれども、ユダヤ教と神道とかは日本人の考えに似ているところが多いんですけれども、この名前というのはユダヤ教もそうですが、本質を表すものである以上、位の高い人の名前というのは恐れ多いものであって、口にしたら駄目だというのが日本の文化もそうです。位の高い方の名前は呼ばない。社長も名前を呼びません。尊い方の名前は呼ばないというのが、日本人の伝統的なものでもあります。特にユダヤ人にとっては神様の名前は尊いものであるから、人間は呼んではならないという考え方があります。神の名前はアルファベットで4文字、Yhvh この名前は神聖なものだから、人間は呼ばないということになって、唯一唱えていいのはヨム・キプル、大贖罪の日で、当番の大祭司が聖所に入ってその時だけ呼んでいい名前で、年に一回大祭司が唱えるだけで、発音も実は分からない。ヘブライ語は子音しか書かない。母音がないんです。これがどう読むかも分からないと言われていて、カトリックはヤーウェ、プロテスタントはヤハウェ、そう呼んだかも実は分からない。以前はカトリックもヤハウェと呼んでいたんですけれども、ベネディクト16世がユダヤ人があまり 読んでいない名前を呼ぶのは良くないということで、なるべく唱えないようにしましょうということで、今はカトリックは唱えないという方向性です。だから主と呼びます。ヘブライ語でアドナイと言いますが、神の名を呼ばないという方向性で、ユダヤ教に波長を合わせるようなことで来ています。むしろある人々は神様の名前を呼んだ方が良いではないかという意見もあります。イエス様の名前を呼んでもいいんだから、父なる神が駄目だと言うんだから、それはちょっとどうかと思います。実際に名前を呼んでダメだということは本当はわたしなりの解釈は、神様を利用しないということです。神の名前で戦争をしたり、神の名前でお金儲けのために使ったり、神の名前を悪用して自分の利益になることばかり求めようとすることが問題だと思います。だから唱えるか唱えないかと言うことに捕われなほうが良いのではないかと思います。例えばマタイ6章7節「 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」長く祈ったり、言葉数が多ければというのは、神の名前を唱えていることだと思います。そのことによって自分の願いを神様に叶えてもらうとうし過ぎることは問題だということです。神様の名前という事を自分の目的のために使わないという事です。3.「主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。」カトリック的に主の教えと書いてありますが、もともとは安息日に仕事をしないようにという日だということです。ユダヤ教では創世記の最初に神様はこの世界を造られた時に、日曜日から初めて、日曜日は週の初めの日で、金曜日までで世界の創造は終わります。最終日が安息日ということで、神様が休まれたということです。だからわたしたちも休みましょうということです。土曜日がユダヤ人の安息日です。金曜日の夜から日没が始まって、土曜日の日没までです。安息日が土曜日だったのが、だんだんクリスチャンが世界中に増えてきて、日曜日に礼拝をするので世界標準として日曜日は休みの日、安息日ということで世界中に広まっています。日曜日はなるべく労働をしない。ミサに行く日としてわたしたちは定められているということです。安息日の意味は何なのか、二つあると思います。一つは健康的になる一つのポイントだと思います。日曜日に仕事の方もいるから、日曜日以外に休みを設けたほうがいいです。例えばイエズス会は土日は働いている日ですが、伝統的にはイエズス会の休日は、昔は木曜日と決まっていたんです。昔は神学校も木曜日の授業がありません。時代が変わってわたしの休みは水曜日ですが、神父様同士で曜日を変えて休まなければならないですが、木曜日、わたしの時代は特になくなりつつありますしたけれども、伝統的に授業もないんです。神学生は木曜日は勉強してはならないという決まりがありました。その日一日は1ページも勉強してはならないという規則がありました。イエズス会の神学生は勉強しすぎの人が多いんです。もう一つの規則は、2時間以上連続して勉強してはいけないということがあります。2時間勉強したら休みを取らなければならない。あまり勉強しすぎで打ち込みすぎてしまう人が多かったんです。一日勉強しないというほうが逆に健康的です。それは意味があると思います。もう一つ何かと言ったら、当然神様の日です。神様のことを思い起こす日を作る。日頃忙しいから神様のことを思い出さないから、安息日、日曜日にミサに出たりして、神様のことを思い起こす日として大切にすべきだと思います。だからわたしたちにとって日曜日ですから、人によってお仕事とか色々ありますけれども、別の日でも振替てもいいんですが、でもやはり心と体の休息は、神様に心を向ける日として、そういう日があった方が人間らしいと言うか、信仰者としてもいいと思います。一日休まなければならないもうひとつの理由は、人間の欲望を抑制するためだと思います。つまり毎日働いた方がお金は儲かると思いますが、24時間年中無休営業の方が、長ければ長いほど儲けは出るわけです。だからその考え方が間違っています。働き過ぎたりして、人間の欲望を儲け過ぎ、お金をどんどん儲ければいいという考え方に、歯止めがかかっているということです。休むということは一番の根本は、人間の欲望を制限するということにつながっています。そして神様の価値観に自分自身を戻すという意味があると思います。神様との関係を回復することが大事ですけれども、ユダヤ人の安息日に泊まって分わかったんですけれども、何をしているのか。礼拝もやってると思いますし、特別な食事ですけれども、何をしてもいけないんです。 他にすることがないので、夫婦や家族でお話をするんです。安息日のもうひとつの意味は、家族のつながりの回復です。現代人は忙しいから会わないこととか、平日はそうだから、日曜日ぐらいは家族で過ごす。お互いをお話をしたりするような、つながりをしっかり確認するということで、そのために休みの日はあります。皆労働しないんだから、家族と過ごすことができるという意味が大きいと思います。見ていて本当に美しかったです。夫婦やカップルでベンチに座って、軽く散歩しながらお話したり、子供達は子供達で遊んでいる。若い人たちで集まったりしている。主の日を心に留め、聖なるものにするという、神様との関係や家族との関係を回復するような、日頃の労働を控えることはあります。4.「あなたの父母を敬え。」ここから4番以下が隣人愛です。隣人を愛するというところにつながるわけです。あなたの父母を敬え、ということですが、これも現代的には大事なことだと思います。話の続きになりますが、現代的にいうならば、やはり家族のつながりを大事にすることになると思います。これだけの高齢化社会になると、家族のつながりというのは、どこまでも運命共同体的なところがありますから、そういうつながりを大切にするという意味も、この中に含まれているように思います。昔のような大家族制度とか家父長制には戻れませんが、今の現実はほとんど核家族になっています。老人とか一人暮らしが多いし、施設に預けなければならないことも多いと思います。それでも父母を敬えということをしっかり受け止めながら、今の現状の中でどのようにして、家族が暮らしていけばいいのかということを、しっかり考えていくことだと思います。キリスト教的にもそうですね。どのように家族を大事にするかは、家庭によっても違うし、様々だと思います。5.「殺してはならない」ということです。これは大事になります。キリスト教の倫理の根本的なことは何かと言ったら、この逆で命を大切にする、生命尊重の立場が基本的なことにあると思います。命は神様から頂いたものだから、人間が勝手に命を粗末にしてはならないということが基本だと思います。自分の命にしても周りの命にしてもです。この箇所は色々な議論が出てくるんですが、戦争は現代的に言うならば、認めない方向性に意識としては行っていると思います。もちろん戦争はやっていますが。これも神学的に長い論争議論があって、原則は正当防衛は認めるというのがカトリックの倫理の基本です。国のレベルでもということですが。正当防衛の戦争は認められる。個人でもそうです。命が奪われそうになったり、暴力を受けた時に、抵抗したり正当防衛とすることは認められるのと同じように、国レベルでも正当防衛の戦争は認められるということです。その立場が主流であるということです。ただその代わり正当防衛というのは、いくらでも拡大解釈ができるので、それで結局はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教会どこでも戦争はやっているという現実は認めなければなりません。ただ例外的に 絶対平和主義を唱えるグループもあります。そして原則論として、自死は認められませんが、以前は厳しくて、他人の命を奪ってはいけないように、自分の命も奪ってはならない、神様から与えられているものを粗末にしてはいけない。過去の教会法は厳しかったです。でも今は精神状態が正常な状態で自死を選ぶ人はいない。つまり精神状態が追い詰められている心の病気の状態なんです。厳密な意味では罪ではないと考えるのが普通です。つまり病人だということですから、その人々や家族を邪険に扱うことはしないというのが今の方向性になっています。もう一つ言うなら、積極的な安楽死は認めない立場です。日本の法律でも認められていないですが、ただ過剰な延命措置を拒んでもいいということです。どこからどこまでが安楽死で、どこまでが延命措置なのかというのは、当事者になった方はご存知でしょうけども簡単ではない。本人の意思は確かめられない、家族は決めていいのかとか、医者もなかなか難しい。後から医者が訴えられる可能性もあります。現実問題これをどうするか。それは愛だと、積極的な安楽死は認められないけれども、無意味に長く延命措置をとる必要性はない。あと死刑制度ですが、カトリック教会ははっきりしていて反対です。先進諸国でも死刑制度をやっているのは日本とアメリカぐらいで、殺人を犯した人でも他人が命を奪う権利はないのではというところです。倫理というのは時代によっては意識が発展していくということです。今は死刑制度は認めない。人工妊娠中絶は認めない。お腹にいる胎児も人間だと考えるので認めない立場です。これだけ生命科学が発達して、どこからどこまでが人間と言えるのかというのは難しい議論になります。死の問題も難しいです。いわゆる脳死の問題とか、死の領域とか難しいですけれども、臓器移植は基本的に認めています。ということは脳死も認めているということです。脳死判定も難しい問題があるし、慎重な態度ではあると思います。それと殺すなかれということの最もベーシックなことは何かと言ったら、健康に気を付けるということだと思います。つまり喫煙は緩慢な自殺行為だと言われていました。つまり自分の体に悪いことをするということは命を大切にしないということにつながっています。あるいは他者に対する思いやりということも、殺すなということに関わっていることの一つだと思います。 例えばマタイ5章21節 「『あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」ここは典型的なイエス様の教えです。単に人を殺すということではなくて、兄弟に腹を立てたり、愚か者とか言うこと自身も駄目だということですから、もっと徹底した愛を生きるということを、イエス様がわたしたちに望んでいるのは確かです。なかなか難しいことですけれども、だから赦しと和解を大切にしなさいということにつながります。言葉の問題まで入るということです。言葉の暴力までドメスティック・バイオレンスとかだめですが、言葉のことまで気をつけろという。イエス様の立場は急進的な掟というよりは、いかに自分が愛を生きているかということを問うていると言えると思います。そして姦淫してはならないということで、当たり前ですけれども、性的そのものを否定しているわけではなく、ただキリスト教は過度な禁欲主義ではないけれども、快楽をそのまま認める立場をとらないということです。適切なコントロールが必要であるという立場を保持していると思います。特に大切にしているのは、夫婦の一対一の人格的な関わりが基本だということです。人格的な関わりの表現として、性的なものが認められるような考え方です。だから人格と切り離された快楽だけの性というのは当然認めていません。夫婦以外の肉体関係は信頼関係を壊したり、人格的な関わりを著しく傷つけるので当然認めません。いろいろ議論はあるけれども、夫婦の一体的な交わりを生涯、貫くものであり、離婚を認めない立場です。これもさまざまな事があるので一概には言えません。特に現代に注意されているのは、幼児や少年に対する性的虐待です。この問題には非常に敏感になりました。これは第6に反していると思います。子供を性の対象にするということは赦されないです。今は一番そうした事に力を入れています。同性愛や性同一性障害、いわゆるGLBTで、新しい「いのちのまなざし」についてその事について少し言及されています。基本は何かと言ったら、人間本来の傾向性そのものは罪ではないということです。そのように造られている以上、自分の傾向性が分かった上で、他者の人格的な交わりをどう築いていくかということが最も大切なことです。誰でも同じですが、快楽だけを追求することはおかしい。やはり人格的な交わりを大事にするような関わりをどう生きていくのというのが、誰にとっても課題であるというのは間違いないと思います。7.「盗んではならない。」盗むということは、罪であるということですけれども、盗みが罪であるということは、逆に言えば知的所有権が与えられているということです。自分のものにする、所有するということが認められているから、盗みがダメだということです。でも本来的にもっと言うならば、被造物は全て神様のものなので、自分のものとか他人のものとかいうのは、人間が勝手にやっていることであるとも思います。全ては神様のもので、勝手に人間が国境に線引をしたりしているだけなので、あまり絶対化するのはよくないことだと思います。何かで読んだんですが、余分な富を持つのは罪である。なぜかというと貧しい人がいるからです。つまり食べ物にも困っている人とか、着る物、住む所にも困ってる人が、今も昔もいながら、余分なものを所有しているのは、それは罪だと。それは分かち合うべきものであって、自分が保持すべきものではないというのが、一番過激な考えです。ある意味あたっているということもあります。だから法律を犯していなくて蓄財したら何が悪いのかと、言えるかもしれないけれども、全ては神様のものだとしたら、ある人があるたくさんの蓄積することは、やはり神様の御旨に反しているところがあるだろうと思われます。今のフランシス教皇は厳しいことをよく言っています。南米からでしょうけれど、金持ちは不正に蓄財した金でいくら教会に寄付しても、それは善行にならないとおっしゃっています。むしろ善行を積めとおっしゃっている。お金持ちにとても厳しい意見を言っています。何のために献金するかというと賄賂です。コネクション作りでお金を出して、自分に都合のいいことのために寄付をする。だから盗まないということも大事なことですが、自分に与えられているものをどれだけ公平に、御旨に適っていることに使えるかということにかかっていると思います。もうひとつ問題はというと、パパ様がおっしゃっていますが、わたしたちは大自然からも盗んでは駄目だということです。人間の勝手な欲望のために大自然のものを勝手に取ってきて使うというのは盗みに入ると思います。やはり全ては神様のものなんだから、調和とバランスを考えてエコロジーを考えて、わたしたちは生きなければならない。これも盗みのことに深く関わっている。8.「隣人に関して偽証してはならない。」神様は真実であって、神様が嘘をつくことはありえない。わたしたちも嘘のない生き方をするのが基本です。偽証だけではないんです。口も注意で、嘘や悪口、陰口、批判、お世辞、へつらい、おべっかとか全部駄目だということです。愛に基づいた真実を生きていく、真実を語るというのは大事です。今の問題で言うならばオルタナティブファクト、もう一つの事実というのは、駄目だと言うのです。それは本当じゃないのに真実のようにネットで流すような行為はこの8番に反しているということです。やはり真実に適ったことだけを語るべきだし、その嘘の意見に振り回されないようにするために、現代は大事なことではないかと思います。嘘の情報とかに振り回されること自身も、わたしたちは気を付けなければならない。何が真実なのか、何が事実なのかをしっかり見て、それに適った生き方をするということです。9.「隣人の妻を欲してはならない。」10.「隣人の財産を欲してはならない。」を合わせて言うならば所有欲です。ついつい人のものが欲しくなってしまう、わたしたちの中の罪です。旧約聖書で言ったら最初の人類がアダムとエヴァで、子供がカインとアベルで、カインがアベルを殺す、兄弟殺しをするということです。嫉妬心からで、相手の持っているものが相手に準備されて、自分のものが用意されないというところからくるものですけれども、やはり人と比較するということ自身が、隣の芝生は青いというのに振り回されてしまうと、やはり問題であるということです。そして黄金律、マタイ7章12節「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」愛の態度が根本にあるので、いろんなことをざっと言いましたけど、基本は愛に適っている生き方から、皆さんが困難とかある中でも、なるべくより良い選択を心がけるように、厳密の罪とか弱さとか、制限とかあるけれども、その中で出来る限り愛を行っていきたいということです。基本はやはりイエス様の愛をどう生きていくかということです。今日お話したのは倫理神学という分野になりまして、これだけで一年間授業ができるぐらい細かい問題で、つまりものすごく難しいんです。「いのちのまなざし」ぐらいが一応今の問題について、教会の態度を語っているので、これはよくできていると思います。原則は必要なんです。原則だけで人を裁いてはだめなんです。その中でわたしたちの苦しみとかを受け止めながら、どうしていくかということを、求めていくようなことが大事だと思います十

 

2017年 3 月13 日(月)
 第 29回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記