カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-11-30 目を覚ましていること

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

福音朗読 マルコによる福音 13章33-37節〈そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〉「 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 十

 今日の福音書は「目を覚ましていなさい」ということです。この福音書そのものの「目を覚ましていなさい」というのはイエス様の再臨ですね。イエス様がいつ世の終りに来られるか分からないので、その準備のためにいつも「目を覚ましていなさい」と今日の福音書ではイエス様がおっしゃっているわけです。わたしたちはプラス待降節に入ったのでイエス様の誕生を「目を覚ましていなさい」それは再臨にしろ、イエス様の誕生にしろ、イエス様が神様が、いつわたしたちのところに来られるか分からないから、目を覚ましていなさいという、今日の福音では三回も「目を覚ましていなさい」と書いてあるんです。
これは物理的な意味ではなくて、夜はちゃんと寝ないと思いますけれども、この「目を覚ましていなさい」ということは、わたしたちの心の状態というか霊的な状態です。それでわたしたちは「目を覚ましていなさい」ということが必要である。目を覚ましているということは目を開けて、神様がいつわたしたちに来られるのか。場合によっては耳も澄まして神様が何を呼びかけているのか。よく注意してみる、よく注意して聞く、物理的なことではなくて、心の状態、霊的な状態の中で、神様がわたしたちのところに訪れようとされていることを、気がついていくということです。突然神様からの救いが、なかなか直接目にみえるかたちで来るわけではないので、イエス様の訪れをわたしたちは心の中でしっかりと受けとめていかなければならないです。
では目を覚ましているというのは、具体的にはどういうことかということです。それはいろんなことがありますが、たとえば、以前に一人のイエズス会の神父様とわたしと、二人で暮らしていたんです。その方は年配の方で、彼は典型的な甘党で、甘いものが大好きでした。わたしは辛党で辛いものが大好きで、いただき物もけんかになりませんでした。彼は甘党過ぎて、朝食の時からケーキにお砂糖をかけて食べているんですよ。ちょっとまずいのではないかと思っていたら、彼は白内障の検査で糖尿病だと分かりました。彼は落ち込まずに、自分がそういう状態だから、自分の生き方を変えなければと思って、しかもお医者さんが苦手なので、病院へ行かずに薬も全く飲まないで、食事療法と運動療法の本を読んで研究し実践して、しかもいろんな工夫をしたので1,2年かかりましたが、ほぼ正常な数値に戻したんです。だから彼は言うんです。自分は糖尿病になって良かった。自分の生活態度や生き方を全く変えるチャンスになったから、それをお恵みとして受けとめているというんですね。一緒に暮らしていたから、どれほどの努力と、どれほどの意志によって、コントロールするかと、もちろん大変は大変ですけれども。
それは一つの目覚めている態度ですね。目を覚ましているということは、一つの出来事が起きたときに、その出来事の中にどういう神の呼びかけがあって、どのように生きていったらいいのかという、前向きにそこに神の呼びかけを聞いて、神の働きを感じて、自分の生き方を積極的に変えたり、歩んでいこうとする、まさしく目覚めているタイプだと思います。
普通の人だったら、糖尿病だったら人生が終りのように、これでもう一生甘いものが食べられないと思い、薬を飲みながら奥さんに隠れたところでお酒を呑んだり、甘いものを食べたりして、なんで自分がこんな不幸になったのかと感じる人も当然いるかもしれない。
でも目が覚めているということは、わたしたちが起こる出来事の中に、神の働きがどこにあるのか、呼びかけがどこにあるのか、それをしっかり聞いて、そして自分がどのようにしていくのか、ということを探しながら、彼だってすぐに数値が下がったわけではなく、あれを食べてみたり、これを食べてみなかったりですね。
ただその神父様にいつも言うのは、人に勧めないようにと。みんなはそんなに意志が強くないからと。神父様が他の人にあったら、薬を飲まないで治りますからとか言っていたので、神父様に、それは人によって違うので言わない方がいいと言いました。
わたしたちは目を覚ましているとはそういうことですよね。いろんな出来事があります。うれしい出来事も、つらい出来事も。その一つ一つに神の働きや呼びかけがある。どう自分に神様が語りかけているのか。彼が糖尿病の克服を、治るわけではないですから、数値を安定させる目標においたところに、神様の救いが彼に訪れたと言えると思うんです。そのために目覚めている必要性がわたしたちにはいつもあるんです。わたしたちが日々の生活の中で目を覚まして歩んでいく、そのように心がけたいと思います。
当然これはいろんなことに当てはまりますから、たとえばもうすぐ総選が迫っていますから、それも一つの呼びかけだと思います。わたしたちがどのように投票をするのか、やはり神様の呼びかけを聞いた上で、どのようにするか、一人一人の決断です。よくよく考えて投票しなければならないと思います。当然神父がこの政党に投票しなさいというのはあり得ないから、みなさん一人一人が責任を持って決めなければならないと思います。それも目を覚ましている態度の一つだと思います。
教皇フランシスコが、使徒的勧告「福音の喜び」というのを出されたんです。これは素晴らしい本で大切なところがいっぱいあるんですが、一つはこうあるんです。「福音の喜び」という本ですけれども、220番に彼はこう言っています。「わたしたち単なる住民であってはならない」住民というのはスペイン語でhabitante、ただ住んでいる人になってはダメなんです。ただぼんやりして、目が覚めていない感じで、ただぼんやり住んでいる住民はダメなんだと、そうではなくて日本語では責任ある市民と書いてあるんですけれども、スペイン語ではciudadanoというんです。英語ではcitizenですけれど、つまり責任ある市民として生きなさいと、パパ様が勧めています。単に住民としてそこに住んでいる、ただ無自覚に住んでいるのではなくて、市民として、国民としての責任を果たすような生き方をしなさいといいます。「責任ある市民であるというのは得なのです。そして政治生活への参与は道徳的な義務です。」政治的なことに関わることは、道徳的な義務である。パパ様がはっきりと言っておられるんです。それも目覚めていることの大切な事だと思います。だからわたしたちはそういう選挙をする、それはクリスチャンとして、自分として、どういうのが一番いいのかそれも一つの例だと思います。それもわたしたちもしっかりと考えて祈って、投票しなければならないと思います。どこに投票するかは当然自由です。だからみなさん一人一人のことなんですけれども。
わたしたちが目を覚まして生きるということは、日々のこともそうだし、今の社会とか経済とか、政治とかの動きの中でも、自分がこの世の中で一番いいと思うことをしっかり選択して、生きていく義務、それら全てがあるということですから、わたしたち一人一人がこの待降節にあたって目を覚まして生きていくのがクリスチャンとしての義務である。恵みであり、それを意識しながら歩んでいけるように、あらためてこのミサでお祈りしたいと思います十

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第一朗読 イザヤの預言 63章16b-17節.19b.64章2b-7節 

 主よ、あなたはわたしたちの父です。
 「わたしたちの贖い主」
 これは永遠の昔からあなたの御名です。
 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを
 あなたの道から迷い出させ
 わたしたちの心をかたくなにして
 あなたを畏れないようにされるのですか。
 立ち帰ってください、あなたの僕たちのために
 あなたの嗣業である部族のために。
 どうか、天を裂いて降ってください。
 御前に山々が揺れ動くように。

 〈あなたが〉降られれば
 あなたの御前に山々は揺れ動く。
 あなたを待つ者に計らってくださる方は
 神よ、あなたのほかにはありません。
 昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も
 目に見た者もありません。
 喜んで正しいことを行い
 あなたの道に従って、あなたを心に留める者を
 あなたは迎えてくださいます。
 あなたは憤られました
 わたしたちが罪を犯したからです。
 しかし、あなたの御業によって
 わたしたちはとこしえに救われます。

 わたしたちは皆、汚れた者となり
 正しい業もすべて汚れた着物のようになった。
 わたしたちは皆、枯れ葉のようになり
 わたしたちの悪は風のように
 わたしたちを運び去った。
 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり
 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。
 あなたはわたしたちから御顔を隠し
 わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
 しかし、主よ、あなたは我らの父。
 わたしたちは粘土、あなたは陶工
 わたしたちは皆、あなたの御手の業。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 1章3-9節

 〈皆さん、〉わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。十

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                       2014 年 11 月 30 日(日)
                       待降節 第 1 主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記