カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-05-02 あなたは実をむすんでいますか

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於 

ヨハネによる福音書 15章1-8節〈そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〉「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる十

 今日の福音書は、イエス様が自分自身と弟子たちの関係をたとえています。イエス様自身は自分の事を、ぶどうの木であるとおっしゃって、弟子たちは枝であると、たとえで語っています。イエス様のたとえというのは、当時の二千年前のパレスチナ地方でどこにでもある復活を信じるものを使って話されたのです。
そこらじゅうにあったぶどうの木や羊や羊飼いなどのごくごく日常の、みんなが知っているものを使ってたとえてお話をされたんです。ただ二千年たったわたしたち日本人にとっては、ぶどうの木とか枝とかあまり見ないので、少し説明が必要かもしれない。祭壇のみなさんから見て右側にあるぶどうの木のステンドグラスもあります。
イエス様はぶどうの木と言っている、ぶどうの木というのは一体どういうものなのか。わたしたちのイメージでいうと、山梨のぶどう棚が広がっている風景とかですが、乾燥地域のパレスチナ地方は、ああやってあんまり枝や房をつらないんです。日本はなんであれだけつるかというと、日本は湿気が多く傷みやすいので、ぶどうの房をつるすわけです。
今でもパレスチナ地方にはありますが、ぶどうの木というのはあんまり高くなくて、枝といってもほとんど地を這う感じになるんです。地面の上を這うような、かぼちゃのつるのような、ぶどうの木とその枝だったんです。イエス様がわたしはぶどうの木であるというのは、ものすごく謙遜なんです。いい木ではなくて、あんまり大したことはなく、べったりと地を這うような感じないんです。見た目は大したことがなく実を結び、ぶどうの木が貴重なものではあるんです。その話を外国人の神父様に言ったら、フランスのリオンでは今でもつらない、枝を自然に這わせると、地面の熱で美味しくなるからです。雨が降らないからつるす必要がなく、乾燥地帯だったんです。ぶどうの木の枝である元々のイメージは地を這うように、わたしたちの枝が這ってのびているようなものです。
スペイン人の神父様が言っていました。ぶどうの枝というのは、何の役にもたたないそうです。たとえば薪にしようとしても火力があんまりない。肥料にしようとしても栄養もない。繊維をとって何かしようとしても、何にもできない。だから枝というのは実を結ばなければ、ここに書いてある通りに野焼きするしかないんです。
わたしたちが枝であるという事は、枝として価値が全くない。まさしく幹につながれて実を結ばない限り、ぶどうの枝というのは何にもないんです。何の意味もないけれども、枝としては実を結ぶから、ぶどうの枝は非常に貴重なものだということなんです。
しかももし枝が一本もなくて幹だけだったら、ぶどうはあんまり実をつけることはできない。つるみたいな枝がたくさんあるから、実を結ぶ事ができる。そのような枝が、わたしたちの存在だというんです。わたしたちがどのような枝なのか、想像してみてもいいかもしれない。
一本の木から驚くぐらい枝をはるんです。この聖堂ぐらい1本の幹からたくさんの枝をはるのが普通です。こういうところでぶどうの木のたとえ話を読むと、祭壇がイエス様でこれが幹なんです。そして一人一人に枝が広がって、実を結ぶように主が望んでおられる。そしてみなさんの枝の一本一本がどこへ行くかというと、みなさんの日常生活だったり家庭であったり職場であったり、あるいは社会の貧しく苦しんでいるところにみなさんの枝が伸びて、そこでみなさんが実を結ぶかどうかを主が楽しみにしておられる。
イエス様から恵みをいただいて、栄養をいただいて、その栄養で枝が伸びて、わたしたちが関わっているところで、実を結ぶように、主は望んでおられるわけです。
みなさんはイエス様につながって、生活の中で、働きの場で、どのような実を結ぶように呼ばれているか。あるいはどのような実を結んでいるのか、結びたいと思っているのか。それを考えてみましょう。実を結ばない枝は切り倒されると書いてあります。切り倒されたらみなさん困りますから。イエス様につながっていて、みなさんのいるところで実を結ばなければならない。それがイエス様の望みであるという事を願っていかなければならないだろうと思います。
神様から栄養をいただくだけではだめなんです。神様から心の糧をいただいて、それをみなさんで実を結んでいく、それをよくよく考えてみたらいいと思います。
イスラエルには二つの湖があって、一つはガリラヤ湖、もう一つは死海があります。ガリラヤ湖の方はイエス様の時代も今の時代も魚が獲れます。そこから生命の源が獲れるんです。ガリラヤ湖の水があるから、イスラエルでは農業がすごく発達していて、野菜もいっぱい採れる。でも死海のほうはヨルダン川の終着点なんです。死海は水が流れてくるだけで、蒸発してしまって、どこにもその水が流れていかないんです。水が流れていくだけで、どこにも流れていかないんで、その湖がどうなったかといったら、塩で生命は何にもいない死の海なんです。全く生きた水ではないんです。生きた湖ではないんです。
わたしたち一人一人はガリラヤ湖として生きていくか、死海として生きていくか。ガリラヤ湖はヨルダン川の水が流れて、そこに入ってまたヨルダン川の水が流れている。恵みを受けながら恵みを分ち合っているものは、いきいきとして実りが結ばれるんです。でも死海の方はただ、恵みを受けているだけで、なんにも分ち合わない。ただ恵みを受けているだけの湖は死んでしまうんです。
みなさんは神様からいただいた恵みを、分ち合っているでしょうか。神様からいただいた恵みを、人々に分ち合う中でしか、実りもないし命もない。神の恵みを受けっぱなしであったなら、そのお恵みは死んでしまう。死海になってしまいます。死の海になってしまう。
みなさん一人一人がガリラヤ湖として生きているか、死海として生きているか、問わなければならない。みなさんが枝として、イエス様につながっていて、実を結んでいるか、結んでいないか。実を結ばない枝は、切り取られるか、枯れてしまうか、ただそれだけです。
いただいている恵みを感謝しながら、それをいつもどこかで生かすように、分ち合うようにつとめましょう。小さな実でもいいですから、小さなかたちでも、わたしたちのいる場で小さな恵みを、イエス様の恵みを生かすように努めていけるように、わたしたちがイエス様から糧をいただいて、この一週間の日々の生活の中で、ごく小さな形で、実りを結ぶことができるように、このミサでお祈りをささげましょう十

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第一朗読 使徒言行録 9章26-31節

〈その日、〉サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

第二朗読 ヨハネの手紙 第一 3章18-24節

 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります十

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                      2015 年 5 月 2 日(日)
                       復活節 第 5 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記