カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-06-22 いのちはわかち合うもの

英神父 ミサ説教               キリストの聖体  聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 6章51-58節〈そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〉わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」十

   今日の祝日はキリストのご聖体をお祝いする祝日にあたっています。そして聖書朗読もヨハネの6章、イエス様自身が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲」みなさいという言い方をされています。そして信者の人は聖体拝領できるわけですけれども。
わたしが初めてミサに与かったのは、中学か高校生の時だったと思いますが、家は普通の仏教で両親は熱心な仏教徒だったんですけれど、高校生の時に初めてミサに与かって、かなり前のほうに座っていたんですけれども、最初だから何をやっているのかよくわからないんです。何かいろいろな事をやっていて、一番驚いたのはミサが最後のほうになってきたら、神父様がみんなの見ている前でパンを食べたり、ワインをみんなの前で飲んでいて、ショックを受けたような印象が残っています。なぜならお寺さんに行った時に食べたり飲んだりするのは終わった後なわけですよね。お経を唱えたり礼拝する時は礼拝して、終わってから食べるならともかく、礼拝の最中に、しかも神父様がみんなの前で食べたり飲んだりしているのは、日本人としてはおかしいというか、場にそぐわないというか、食べたり飲んだりするのは神聖な場所ではないところで食べるんだったらともかく、一番大事なところで食べたり飲んだりしているのを見てショックを受けた記憶がはっきりとあるんですけれども、考えたら不思議な習慣のような気もします。
仏教だったら人間のほうが仏様にお供え物をするわけです。人間が神様に食べていただく、キリスト教は逆になっているわけですね。どっちが食べて、どっちが食べられるかと言ったら自然界の法則ははっきりしていて、強い者が弱いものを食べるんです。動物が植物を食べたり、強い動物は弱い動物を食べるんです。人間は動物よりも強いから、動物や植物を食べていて、弱いものは食べられるんです。強いほうが、弱いものの命を奪って、生きているわけです。
日曜日のテレビ番組で、動物が動物を食べる捕食のシーンがよく出てきて、進化論で強いものが生き残るという考え方のお話で、それは事実なんですね。別に好きか嫌いかともかく、強いものは弱いものを食べて生きているんです。だから神様と人間だったら、明らかに人間のほうが神様にいけにえをささげなければならない。人間のほうが弱いのだから、これをどうぞ食べてくださいと言わなければならないんです。
でもわたしたちのミサは全くさかさまだということですね。全知全能の神様が食べられる存在になって、わたしたちはそれを食べることができるわけですね。全くのお恵みの世界にわたしたちは毎回のミサに招かれている。イエス様はミサの度に毎回食べられる存在なんですね。これがどれぐらいのお恵みなのか。恐ろしいぐらいな気もしますけれど。わざわざそれをご聖体というかたちで制定して、そのようにお恵みをくださるということを決めてくださったから、わたしたちはミサに与かる時に、ただごちそうをいただくだけに集まっているわけですから。
このお恵みの凄さというのはとんでもないというふうに思います。献金も捧げられるけれど、人間が捧げるのではなく圧倒的に神様がわたしたちにミサは捧げられているわけだから、だからわたしたちの礼拝の最後にイエス様の体をいただくというお恵みをわたしたちは毎回いただくということですね。
恐れ多いお恵みだと思います。ミサに来れば必ず与かれるわけで、このお恵みの大きさはわたしたちに計り知れない神のお恵みだというふうに思います。それは当然わたしたちはイエス様の体をいただくことによって、わたしたちがイエス様の生き方により近づいていくためです。
今日の福音書の中では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」イエス様の内にいる。あるいはイエス様によって生きるために、わたしたちは恵みを毎回100%のお恵みをいただいているわけです。でもそれは何のためか。イエス様の命を生きていくために、イエス様が与えている。ではその命は与えられているイエスの命は何のためかというと、それはイエス様と同じように人々に命を分ち合うためです。弱い者から命を奪いとるのではなくて、むしろ自分の持っている命を人々に分ち合うために、わたしたちは神から命を与えられている。だからミサでご聖体をいただいて、命をいただくというのはこの一週間人々の命を分ち合うために、このミサにみなさんは呼ばれているわけです。神様からいただいた命は自分のためではないということです。神様からいただいたからこそ、わたしたちはそれを人々に分ち合っていく恵みと使命が与えられている。
よくよく考えると命というのは分ち合いの中でしか、成り立たない自分のためにだけとっといても、奪うためだけにあるならば、その命は意味がないということなんです。この命の恵みをわたしたちはこのミサでしっかり味わっていきたいと思います。
わたしの好きなたとえ話なんですが、イスラエルには2つの湖があって、ガリラヤ湖と死海があって、ガリラヤ湖は上のほうでヨルダン川が流れ出すんです。だから今でもペトロの魚が食べられて、イスラエル地方の農業の灌漑のために使われている命の水なんです。でも下のほうの死海というのは、死の海と書くんですけれども、ヨルダン川が流れ込むだけで、どこにも流れ出さない。恵みを受けて、どこにもその命を分ち合わない、死海は死の海なんです。恵みをいただくだけで、それを使わないとその恵みはただ腐るだけだという。ガリラヤ湖に恵みをいただいて恵みを分ち合う湖だけが本当の命を受けている。だからわたしたちは受けたものを分ち合うことでしか本当の命にならない。受けるばっかりであるならば、その命はなくなってしまう。無駄に消えてしまうだけのはかない恵みにすぎない。だからわたしたちはイエス様の命を日々の生活の中で生きていかなければならない。それは命を分ち合っていく、わたしたちの時間とかエネルギーとか愛の心を人々のために分ち合うことによって、わたしたちは本当の意味においてキリストによって生きるものになれるんだろうと思います。わたしたちがイエス様の体をいただくことによって、それを本当に分ち合うことによってイエス様の命が無駄にならないように、イエス様の命がより多くの人に分ち合っていけるように、お祈りしたいとおもいます十

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第一朗読 申命記 8章2-3・14b-16a節

〈モーセは民に言った。〉あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 10章16-17節

〈皆さん、〉わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。十

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                      2014 年 6 月 22 日(日)
                        キリストの聖体 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記