カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-11-02 つながるいのち

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音章 6章37-40節〈そのとき、イエスは人々に言われた。〉「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」十

 今日は11月2日死者の日にあたっていて、この11月全体を死者の月として過ごすという習慣があります。この死者を思いおこす、あるいは人間の死そのものを思いおこす、あるいは黙想するのにこの11月というのは何かふさわしい気がします。
この秋になってきて、だんだん緑がなくなってくる、この季節に死というもの、終わりというものを、黙想することは確かに意味があるのではないかと思います。
人間だれでも死に向かって歩んでいる。死というのはいろんない意味で滅びでありおとろえであり何かがなくなっていくこと、それにつながっていくと思います。
わたしは50代の半ばぐらいですけれど、段々老いてくるのは感じます。髪の毛の抜け方が前よりも増えてきたり、目は完全に老眼だし、歯もそろそろ入れ歯を入れなければならないような、耳を遠くなってきたようなみたいな感じで、体の老化は避けられない、歳をとればとるほど死に向かっている、わたしたちは滅んでいくものであるというのを、しっかりと受け止めなければならないことであろうと思います。
それと同時に聖書の箇所、どこをとってもそうでしょうけれども、聖書の中で死が滅びであるかとと言うと、そのようには書いていないわけです。今日の福音書でもそう出うがその死のことを言うとすぐに復活と永遠の命ということをイエス様はいつも強調されていて、死が単なる滅びになるということは実は聖書の中ではほとんど書いていない。現実は滅んでいくわけですけれども、必然的な命はおいて、病気になったり衰えていくのですけれども、イエス様の命はそうではない。永遠の命として復活とつながっていくそういう命をわたしたちに示しているわけです。でもそういう滅んでいかないいのちというは一体どういう命であるかということですけれども、それは、わたしが一つ思うことは命というのはつながりの中でこそ命であるというか、そういうものではないかと思うんです。それを最初に考えたのは、青森に森のイスキヤというのがあって、佐藤初音さんというカトリック信者でだいぶ交霊にならましたけれども、かなり有名というか素晴らしい方がおられて、佐藤初音さんに何回も会っていろいろ話もさせてもらっていますけれども、みなさんの中でお会いになった方もおられるでしょうし、ひと昔前地球交響曲第2シンフォニーだったかに出ておられ、それで割と多くの人に
知られるようになったんですが、佐藤初音さんは何をされているかというと、おいしい料理を作って苦しんでいる人や悲しんでいる人を癒すというそういう食事作りの天才的な感じの人なんですけれども、料理は普通なんですけれども有名なのはおにぎりで、わたしも何回か食べましたが、それはもう絶品なおにぎりなんです。
彼女の料理するものっていうものはみんな生きものですから、命と関係あるわけですけれども、たとえばおつけものをつけるとしたら、夜寝ていても、乗せた漬物石が、もう少し軽いものに変えてくれと言われた気がして、石を変えておいしい漬物をつくるんです。ごはんを炊くにしても目盛で計ったことが一度もないというんです。お米を見てそれにふさわしいお水を入れる。炊いて一番いい感じのお水を入れるんでメモリとか計ったことが一度もない。心が食べものとつながっているわけですね。だから素晴らしいおいしい料理ができてその料理が苦しんでいる人や悩んでいる人を癒していく食べものになるんですけれども、それは彼女の命がいきものとすでにつながっているからと思います。
命というのはつながりの中にある、それが命の一番大切な本質ではないかと思います。
もちろん食べものと植物と、自然とつながっている命だし、当然わたしたちは人間とつんがっているわけですね。家族とつながっていきていける、ともだちとつながって生きていける、職場の人とわたしたちが生きている命はやっぱりつながりのなかでこそ、命が生きているわけです。
今日は死者の日ですけれども、わたしたちが死者のためになぜ祈るかというと、死んだ方とつながっているからです。わたしたちの命が。だから死んだ人ももしつながっていれば祈ることも何にもないですけれども、わたしたちは亡くなった人たちのためにお祈りをささげるのはまさしく死んだ人とわたしたちの命がつながっているからわたしたちは今も亡くなった人のために祈りをささげているわけです。そしてわたしたちももちろん一番大切なつながりは何かというと、わたしたちの命は神様につながっている。神様につながる命こそ永遠の命という表現をしていいのではないかと思います。
わたしたちのこの世の命は、とぎれとぎれで病気したりおいっていったら亡くなっていくような、でも永遠の命というのは神様と固く結ばれた、命の完成した姿です。そこに永遠の命と復活の恵みということがある。
わたしたちはその命というのがつながりの中にあるのを思い起こしてそのつながりを大切にすることが、結局は命を大切にすることにつながっていくんではないかと思います。
今日の第二朗読のパウロのローマ人への手紙。結局は神様の愛のつながり なんです。こう言っているんです。「誰がキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」つまりわたしたちの命がキリストの愛にピッタリつながれているからです。引き離すものはなにもない。艱難とか苦しみとか迫害とか飢えとかそのようなものは、神の愛のつながりを切ることは全くない。それはわたしたちの永遠の命につながる、そのつながりがあるからです。そして後半もこういうんですね。まず最初に死も、わたしたちが滅びと考えている死も、わたしたちの考えている愛から引き離すことができない。わたしたちの命は神の愛にぴったりとつながれているから、それはパウロが確信しているわけです。
だから死も天使も支配するものも現在のものも未来のものもどんなものも神の愛からわたしたちを引き離せない。命を言うのはつながりだからです。そのつながりを切ることは誰もできない。何ものもできない。
わたしたちは神の愛とそして人々の愛もそうですけれども、そのつながりの中にある。そこで命というものは
本当の輝きを放つ。死も病気も苦しみもつながりが切れないです。そこにわたしたちの永遠の命の一番大事なことが、あるのではないかと思います。だからこそわたしたちはこの11月の死者の滅びと共に、滅びていかない永遠のものを黙想する。本当のつながりは何かです。わたしたちの命にとって 死やも生きている人々も家族もこの世の社会で苦しんでいる人々ともつながっています。
イラクやイランでパレスティナで苦しんでいる人々と共につながっていると思います。わたしたちは世界中の人とつながっている。その命をわたしたちが本当に大切に本当のつながりを掴めていける、そのような生き方こそ、わたしたちに求められているのではないか。そのような本当の命を大切にしそれを生きていけるように、特にこの1週間、祈りながら意識しながら過ごしていけるようにこのミサをささげたいと思います。十

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第一朗読 知恵の書 3章1-6・9節

神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、
自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。
るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として
受け入れられた。
 主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。

第二朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b-35・37-39節

〈皆さん、〉もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです十

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                     2014 年 11 月 2 日(日)
                      死者の日からのミサ A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記