カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-12-03 目覚めて生きる

英神父 ミサ説教                        聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 13章33-37節 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 十

  待降節の第一の主日は、今日の福音のような「目を覚ましていなさい」というメッセージが語られることが多いです。終末、世の終わりということを意識した、そのような福音の箇所で目を覚まして待っていなさいというのは、一つは主の来臨と言いますか、世の終わりに主が来られるのを待っていなさいという意味もあるし、イエス様が誕生される。それを目を覚まして待っていましょう、というふうにも言えるだろうと思います。もちろん目を覚ますというのは物理的な意味で捉えるのは難しいと思いますが、夜はちゃんと寝なければならないですし、もちろん物理的に目を覚ましていなさいということよりも、信仰の上で目を覚ましている。あるいは霊的に目を覚ましているということだと思います。一つは眠っていることと対比で言われているわけですけれども、何が眠っている、あるいは何が目を覚ましていることなのかということ。それは自分自身に問いかけてみたらいいと思います。目を覚まして何を待つというか見るというか聞くというか。イエズス会のある先輩のブラザーは、彼が一度こう言っていて、自分自身の生き方に疑問を持って苦しんでいることがあって、でも彼はブラザーの召し出しは祈ることが使命だと悟った。ひと昔前のブラザーというのは家の中の仕事というか、雑用のようなことをすることが多かったんです。彼も庭仕事とか色んなことをやっていた。でも彼のお祈りは何かというと、たとえば庭仕事をしながら草を抜くことがある。単に草を抜くのではなくて、草の向こう側に神様をみながら草を抜く。単に草を抜いているのではなくて、草を抜くこと自体に神様を見ている。あるいは料理をするにしても掃除をしているにしても、ただそれをするのではなくて、神様を神の恵みを見ながら自分は働いていると、それが自分の使命だということを語ってくださった方がいた。目覚めているというのはそういうことではないかと思います。わたしたちは仕事をしたり休憩したりごはんを食べたりするわけですけれども、その一つ一つに神様が見えるわけではないです。あるいは神の恵みを意識しながら、日々の生活を送るかどうか。それが目を覚ましているという大切なことではないかと思います。そのような心があるならば、わたしたちも一つ一つのことを通して、神様に感謝をささげていく。今日一日の、一つ一つの小さなささいな働きの中に、神の恵みの働きを見い出しながら、感謝の気持ちで、あるいは神の恵みの内にわたしたちが果たしていく。つまり何に目を覚ましていくのか、何に目覚めていくのか。神の働きと神の恵みに、わたしたちは目覚めているということだと思います。もちろんそれは感じにくいのですけれども、アヴィラのテレジアが言うんですけれども、鍋のふたの裏にも神様はおられると。鍋のふたの裏にも神様がいるから、心を込めて料理をしなさいとおっしゃっていたんです。では逆に眠っているというのは何か。眠ってしまうというのは、この日常生活に流されてしまう生き方。特にこの12月は気をつけなければならない。つまり忙しさの中で何をしているのか分からない。次から次へと用事をこなしていると、忙しいけれど眠っている。何に眠っているかというと、神の恵みと神の働きに気付かなければ、わたしたちは霊的に眠っていると思います。忙しさに流されたり捕らわれてしまうならば、それはやはり霊的に寝てしまっている。神の恵みに気付かないまま、ただ忙しく生きていくならば、それは確かにもったいないと思います。神様の働きや恵みに感謝しながら、わたしたちは歩んで行くならば、有意義な毎日というか、イエス様の誕生を待ち望む心の準備が出来るのではと思います。もちろん何が本当に目を覚ましていることなのか。わたしたちは本当に目を覚ましてるのは、この主人が帰ってくるという話ですけれども、それが世の終りとまで言わなくても、わたしたちの人生の最後の頃を察していると言えるでしょう。教区の神父様から聞いた話で昔の話ですが、その事件そのものは知らなかったんですが、外国からたくさんの宣教師たちが来て、一人の宣教師が殺人事件にあったそうです。その加害者は精神疾患のある方だったみたいで、結局無罪になって罪を問われなかった。その加害者の家族の方々が、ものすごい自責の念にかられて苦しみの中におかれた。その時に宣教師の上長、管区長のような方が、加害者の家族と会われて何と言ったかというと、わたしたち宣教師は何のために日本に来ているのか。それは日本に死ぬために来たんだ。わたしたちは日本に骨を埋めに来たんだと。だから亡くなった彼は早い死だったかもしれないけれども、日本で死ぬというわたしたちの目的を果たしたので、あなたがたには何の恨みもないし、彼が死んだことをわたしたちは受けとめているということ、管区長は話されたんですね。それを通して加害者の家族の方々は神の赦しを頂いたようでものすごく慰められた。結局、加害者の家族の方々が全員カトリック信者になって、その後に教会にすごく貢献することになったんです。同じ神父としてその管区長の心がけが素晴らしいと思いました。死ぬために自分たちは日本に来たんだから、死んだんだから、本望をとげたんだから何の問題もない。それは究極に目覚めていることだと思います。いつ死んでもいいということですね。自分がいつ死に絶えても、それはかまわないという、それが究極に目覚めていることだと思います。どうせわたしたちは死ぬんですから、遅い早いの違いだけですけれども、でもそれを意識していけるならば、生きているという事自身が、毎日の貴重なものであるし、それがいつ終ってもいいという覚悟があるならば、本当の意味でわたしたちは目覚めているんではないかと思います。いつ主が来られても、いつ自分の命がとられても、いつ自分が天国に行ってもいいと思える毎日を送っているということですから。自分自身は司祭としては、そういう覚悟で生きていきたいという気持ちは強いですけれども。でも今生きているということ、そして死ぬということ。その両方を心から受けとめていく時に、わたしたちは本当に目覚めて生きていくことができるのではないか。つまり毎日、悔いのない日々を送ることが出来るのではないかと思います。それは神の恵みの中にある、命であるということをはっきりと意識した時に、わたしたちの命は本当の意味で目が覚めて、目覚めて生きられると思います。12月で忙しいけれども、クリスマスを準備するという毎日を、一日一日を目覚めて生きていくことが出来るように、神様に祈りをささげていきましょう十

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第一朗読 イザヤ書 63章16b-17、19b節、64章2b-7節
主よ、あなたはわたしたちの父です。
「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させわたしたちの心をかたくなにしてあなたを畏れないようにされるのですか。
立ち帰ってください、あなたの僕たちのために
あなたの嗣業である部族のために。
どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
(あなたが)降られれば
あなたの御前に山々は揺れ動く。
あなたを待つ者に計らってくださる方は
神よ、あなたのほかにはありません。
昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目に見た者もありません。
喜んで正しいことを行い
あなたの道に従って、あなたを心に留める者を
あなたは迎えてくださいます。
あなたは憤られましたわたしたちが罪を犯したからです。
しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。
わたしたちは皆、汚れた者となり
正しい業もすべて汚れた着物のようになった。
わたしたちは皆、枯れ葉のようになり
わたしたちの悪は風のようにわたしたちを運び去った。
あなたの御名を呼ぶ者はなくなり
奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。
あなたはわたしたちから御顔を隠し
わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
しかし、主よ、あなたは我らの父。
わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業。

第二朗読 コリントの信徒への手紙第一 1章3-9節
 (皆さん、)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです十

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2017 年 12 月 3 日(日)18時ミサ
待降節 第1主日〈紫〉B年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 助任司祭 ミサ説教記