カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-07-22 安息日

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 6章30-34節 (そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた十

 今日の福音書は、マルコの6章のイエス様と使徒たち、そして群衆との一つのエピソードが書かれています。十二人の使徒たちが派遣されて帰ってきて、自分たちが行ったことや教えたことをイエス様に報告された。一つの区切りがあったのでしょう。 「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」とイエス様が命じられたわけです 。「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった。」ほど忙しかった。だからイエス様が人里離れたところで 「しばらく休むがよい」とおっしゃっています。この教えは大事なことだと思っていますけれども、特に今日のことで言うならばこの暑さですから、こんなに暑い中で働くべきではないと思います。外で働かなければならない方もおられるでしょうけれども、忙しさやあまりに疲れた時に「 休むがよい」とイエス様はおっしゃっている。それをしっかり受け止めなければならないと思います。それはイエス様だけではなしに、旧約聖書からモーゼの十戒の中に週に一回彼らは土曜日ですが、安息日を設けて何の仕事もしないようにと命じているわけです。真面目なユダヤ人は 、もちろん安息日論争でしばしば対立もしましたが、 週に一度文字通りに何もしてはいけない、それを守ることは、神の御心に適っていることではないかと思います。わたしたちが必要な休みをとって、忙しく働きすぎないようにするということは、心身の健康から見ても大事なことではないか。結局、働きすぎでダウンして一年も二年も休んでしまうことを考えたら、適切な休みをとって、気持ちをリフレッシュして仕事をする方がずっといいと思います。わたしも個人的には週に一回はなるべく仕事をしないで、何にもしないで休むように心がけるようにしています。イエス様はお休みなさいとおっしゃっている以上、休むことの大切さを心に刻む必要性があるし、それを実践していく必要性があると思います。休むだけでもいいと思いますが、旧約聖書の安息日の掟をよく読んでいると、ただ単に休みということを言っているだけではないと思います。 安息日の一番厳しい掟はレジャーもダメだし、アウトドアのスポーツをすることもダメで、ほとんど何もできない。では何をするかと言うと、この「人里離れ」と書いてありますけれども、これは日常生活の思い煩いとか捕われから離れて、神様に心を向けるということを、それが最も大切なことだと思います。だから皆さんがこうやって日曜日にミサに参加するということが、一番大切で、しばらく休むということの最も根本的な意味ではないかと思います。もちろんただ休むことも必要だと思いますが、更にバラバラになっているわたしたちの心、日常生活にあれこれ捕われているような心を、神様に向けて整えるということです。日常生活の忙しさの中に入ってしまうと、神様のことを忘れてしまいます。仕事とか家族のこととか、やらなければならないこととか、色々なことに流されてしまうことはあるわけで、 だからこそわたしたちは休みの時間をとって神様の懐に帰るような、神様の恵みをもう一度味わい直すということが、本当に大切なことではないかと思います。わたしたちが立ち返るべきところは、神様の心に立ち返るということです。そこからまた霊的にリフレッシュして、霊的な力をいただいて、またこの一週間を 過すことができる、そのようなことを繰り返すことが大事なことではないかと思います。でも残念ながら彼らは休めなかった。人里離れたところに行ったんですが多くの群衆が 「すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」ので彼らは休めなかった。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」残念ながら今回は休憩ができなかったんですけれども、でも大勢の群衆も、魂の安らぎが必要だったわけです。心が飢えていて乾いていたので、 どうしても切迫して心が乾いた弟子たちのいるところへ行かなければならない。イエス様は 「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」これこそ休みの日に受け取らなければならない。つまりイエス様の憐れみの心をしっかりと受け止めて、イエス様の教えをわたしたちの心に刻む、それを心がけたいと思います。 イエス様はわたしたちの日頃の乾きや飢えとか、あるいは飼い主のいない羊のような、自分の中心が分からなくなって、あまりの忙しさに巻き込まれて、あるいは問題を解決する方法が分からなくて考え込んでしまう。いろんな形でわたしたちは方向性を見失ったり捕われたり、単なる忙しさの中に巻き込まれたり、あるいは社会の中の世俗的な流れに巻き込まれたり、今はこの暑さに体も心もやられたり。様々なことがありますが、イエス様はそれを深く憐れんでくださっているということです。わたしたちが神様の心に、祈りの心に立ち返るということは、イエス様の深い憐れみの心に立ち返るということです。皆さんの苦しみや辛さをイエス様がどれほど受けとめておられるか。日頃の忙しさや煩いとか人間関係の問題とか、人によっては体の調子が悪いとか、心の調子が崩れているとか、それをイエス様は全部分かって、深く憐れんで受け止めておられるわけです。このイエス様の憐れみの心を、自分の心におさめることが、神様と交わることの最も大切なことだと思います。お祈りというのはただ単に機械的にすればいいというものではなくて、祈りの時間にこそ、わたしたちは神様の心と深く触れ合うことができるわけです。主の憐れみの心を自分の心の中に受け止めるということです。今日は皆さんはミサにあずかってますから、当然主の憐れみの心の一番の確たる御聖体を、自分の体の中にいただくという、大きなお恵みがあるわけです。二千年前にイエス様はイスラエルで生きておられて、十字架にかかって復活した後 、イエス様の肉声を聞くこともできないし、直接触れることもできないですけれども、でも今日もこのミサを通して、御聖体というパンの形をしたイエス様を、自分の体の中に入れることができるという、大きなお恵みをいただいているわけです。それはわざわざイエス様の御聖体として現存してくださって、記念として行えと、約束してくださったから、わたしたちはそれを手にいただいて、自分自身の体の中に食べ物として吸収することができる。そのお恵みをいただいているわけです。これほど大きなお恵みをミサにあずかる度に頂ける。それを改めて思い起こしましょう。それをさらにイエス様は教え始められた。皆さんにも今日、イエス様は語っておられると思います。イエス様がわたしたちに必要なメッセージを語っていらっしゃる。励ましの言葉だったり慰めの言葉だったり、もちろん肉声では聞こえないかもしれないけれども、皆さん一人一人に必要なメッセージを、主は今日も語ってくださるわけです。それをわたしたちはしっかり聞いていくという心を大切にしましょう。御言葉を通して、人によってはこの説教を通して、このミサの福音の言葉を通して、先ほど言った御聖体を通して、主は憐れみの心から、わたしたちに必要な力と、必要なメッセージを今日も与えてくださっています。それは一人一人に語ってくださっている。憐れみの心からわたしたちが飼い主のいない羊のようになっている時に、飼い主のようにこっちを歩めばいいとか、こういう心掛けて歩めばいいとか、そのような実際的な態度も主は与えてくださっていて、 それを今日も聞きたいと思います。そのために自分の人里離れた、つまり日常生活をちょっと置いたところで、このミサの間で神様に心を開くことが大事だと思います。あるいはこのミサの後、沈黙で祈る。あるいはミサが終わった後、帰り道にイエス様が語ってくださるかもしれない。今自分に必要な教えを教えてくださるわけです。それを心に刻みたいと思います。 わたしも日本人の典型ですけれども、仕事しすぎの方に傾きがちで、でもイエス様は休みなさいと語ってくださる。特に直接わたしに語ってくださる言葉の多いことは、今、ここを大事にしろ、とイエス様はわたしに度々語ってくださいます。仕事だらけで、やることが多すぎて、何からやったらいいか分からないというのもしょっちゅうなんですけれども、優先順位もつかなくて、とにかく近い仕事からやらなければならない。それでもイエス様は度々語ってくださいます。今、ここの一つ一つを大事にする、とイエス様が語ってくださることが多いです。 休みの日に何もしないで、休んでいる時は休んでいるという事を受け止める。あるいは食事をする時には食事をすることを受け止めて、今やっている一つ一つを大事にするようにと、度々イエス様は語ってくださっているように思います。特に今年の1月ぐらいから、神父様方がダウンされて、あまりに混乱して、この半年ぐらいは忙しかったのですが、その中で主が言われるのは、今の一つ一つを大事にしなさい。全体的に心配すると訳が分からなくなる。今やっている一つ一つを丁寧に、一つ一つしかできないですから、今一つを片付けて、次の一つをと主がいつもわたしに語っている気がします。実際に一つ一つをやっていくことで、一つ一つを片付けられる。すぐ片付かないこともありますけれども、やはり主が守り導いてくださっているという気持ちは、自分の中になくならないです。主が憐れみの心を持って自分自身を見つめてくださっていることは疑いようがないです。だから主に信頼して今すべきことを祈りの中で神に心を開いて、 今、大切にすることは何かを聴きながら、一歩一歩、歩んでいく、それの積み重ねではないかと思います。この暑さにも振り回されないで、主の語りかけ、呼びかけを聞きながら、それを誠実にわたしたち一人一人が答えられるように、明日からまた一週間が始まりますけれども、そういう気持ちで一人一人に語りかけられる主の言葉に信頼して、歩んでいるようにお祈りいたしましょう十

  

第一朗読  エレミヤ書 23章1-6節
 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。

 「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。

 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。

 見よ、このような日が来る、と主は言われる。

わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。

王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。

彼の代にユダは救われ

イスラエルは安らかに住む。

彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 2章13-18節
 (皆さん、)あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです十

 

2018 年 7  月 22 日(日)18時ミサ
 年間第 16 主日〈緑〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記

 

ロヨラの聖イグナチオの取り次ぎを願う9日間の祈り

7月22日~7月30日

 父である神よ、

▲あなたは、ロヨラの聖イグナチオを

御子イエスとの交わりにお招きになりました。

主イエスの愛に燃えた聖イグナチオは、

あなたの大いなる栄光を求める熱意を多くの人に伝え、

あまねく世界の人々にあなたに仕える道を示しました。

私たちも聖イグナチオの模範に従って、すべてのことにおいて、

愛して仕えるものになりますように。

また彼の取り次ぎによって、

次の恵みもお与えくださいますように。

 (ここで求めたい願いを黙して祈る)

主の祈り・アベマリアの祈り・栄唱

 聖イグナチオ、私たちのために祈ってください。

▲私たちがキリストの約束にかなうものとなりますように。

 祈りましょう。

すべての人の救いを望まれる神よ、

 ▲あなたは偉大な栄光を現すために、

ロヨラの聖イグナチオお選びになりました。

聖人の助けと模範に励まされて、

私たちも悪と戦い、

ともに勝利の冠を受けることができますように。

私たちの主イエス・キリストのみ名によって。 アーメン