カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-08-12 天から降って来た生きたパン

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 6章41-51節 (そのとき、)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」十

  今日の福音書はヨハネの6章、イエス様が自分自身のことを命のパンであるとか、天から降ってきたパンであると言われているそういう箇所です。聞いていた人々は何を言っているのか分からなかった。イエス様が命のパンであるということは、この時には分からなかったでしょう。イエス様が十字架にかけられて、復活されて、そして初代教会がミサを始めてから、本当の意味が分かるようになったであろうと思われます。そしてわたしたちはカトリックの洗礼を受けている限り、ご聖体としてイエス様を今日もいただくことができるわけです。この命のパンをわたしたちはいただくわけですけれども、命のパンというのは一体どういうものなのか。それはイエス様がどういう方かということに深く関わってきます。そのことを時々は考えた方がいいと思います。パンをミサの時にいただくわけですが、初代教会から今でもそうですが、祭壇の上では神父様がパンを裂くというか、今は割るという感じですが、その裂かれたパンをいただくわけです。初代教会ではミサのことを「パンを裂く式」と言っていました。パンを裂くというのは大きな意味があるわけで、聖体拝領の前に神父様が象徴的にパンを割る動作がありますが、それは明らかにパンを裂くというのは、イエス様が、十字架が入っているということです。イエス様の苦しみが現れている。裂いたパンをいただく、だから命のパンをいただくということは、イエス様の十字架の苦しみそのものをわたしたちはいただいているということ、それを忘れてはならないと思います。つまりイエス様が裂かれているということです。命の源であるイエス様が裂かれているということは、イエス様の時代も、今もそうですけれども、平和がないということだと思います。わたしたちが本当に調和している社会が個人が人間関係が、実際裂かれているところがある。だから日本のカトリック教会は戦争の傷跡を思い起こすために、今は平和旬間に定められている。それはなぜ定められているかというと、裂かれている現実があるわけで、それをしっかりわたしたちは受けとめていくことになると思います。どのようにわたしたちが裂かれている現実を、裂かれているパンをいただいていくのかということですが、それはこの社会において、どいう平和を築いていくことかにつながっていくと思います。 この平和のことで一番思い出すのは、少し前に旧ソ連で非常に有名だったタルコフスキーという映画監督がいて、割と難し目な、象徴的な映画が多くありました。そのタルコフスキーの映画で「サクリファイス」という、生贄と訳したらいいのか、犠牲というか、捧げものというか、そういう映画がありました。内容を簡単に言うと、当時米ソの緊張があって、そこはロシアの田舎で、ある日突然、核戦争が勃発して、人類が危機的状況に立ったところから始まるんです。そしてその主人公の男性がどうするかというと、寓話的ですが、村はずれに呪術師が住んでいて契約を結ぶんです。平和をもう一度この人類に戻してもらうために契約して、その代わり彼は何を捧げるかというと、自分の家に火をつけて、彼自身は気がふれて病院に入り、奥さんは病院の先生にとられてしまうお話です。家も奥さんも健康も捧げなければならなかったのです。それによって人類に核戦争が一旦なくなりかけたんです。核戦争がストップするニュースが流れて、もう一度平和が確立するという、そのような象徴的な映画でした。でもタルコフスキーははっきり言っている。つまり平和を作るためには何が必要なのか。わたしたち一人一人の小さな犠牲というか、小さな犠牲を一人一人捧げることでしか、平和を実現することができないであろうというメッセージを込めたといわれています。映画ですから極端ですが、自分の家を燃やして、奥さんを取られて、自分の健康を失って入院して、自分自身の犠牲を捧げたというわけです。わたしたちには平和のために自分ができることは、何か捧げるものがあるのではないかということです。イエス様が裂かれたパンであるということは、当然イエス様自身がご自分の命を全て捧げられたということを、わたしたちは受けとめていくからこそ、聖体拝領しているわけです。その裂かれているということを意識しなければならないと思います。今の社会に裂かれたところがあるということと、それを乗り越えて本当に平和を実現していくために何か小さな捧げをしていくように呼ばれているのではないか。ご聖体をいただくということは、単に恵みをいただくだけではなく、その恵みのもとに、わたしたちが何かできることをしていくということと深く繋がっているのではないかと思います。生きたパンであるイエス様をいただいて、生きたパンのイエス様と繋がっていくということは、イエス様と身近に繋がり、そしてイエス様の復活に繋がっていく。この平和を一人一人に任されているといえるでしょう。そのような宝であるイエス様自身をいただいて、わたしたちもイエス様と心を一つにして歩めるように、またこのミサで願いながら、この平和旬間の祈りを捧げていきたいと思います十

第一朗読  列王記 上 19章4-8節
 (その日、王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知ったエリヤは、)荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

 第二朗読  エフェソの信徒への手紙 4章30節-5章2節
 (皆さん、)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。十

 

2018 年 8 月 12  日(日)8 時半ミサ
 年間第 19 主日〈緑〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記