カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆このブログは、イエズス会の英(はなふさ)神父の公式サイトと連携しています☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2018-08-19 幼児洗礼式

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於 

ヨハネによる福音書 6章51-58節 (そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」十

  今日の福音書ではヨハネの6章、最近読まれてるところですが、イエス様自身が生きたパンであるとおっしゃっていて、イエス様の肉を食べ、その血をわたしたちは飲むことができる。それによって永遠の命を得ることができる。イエス様こそわたしたちの命の糧であるということをおっしゃっています。わたしたちは人間として生きる以上、やはり糧を得て成長していく、あるいは命を繋いでいくものだと思います。特に幼児洗礼を受けられる小さなお子さんの親御さんが一番気を配ることの一つは、子供が健康で成長するように、どういう食べ物を栄養があるものを子供に与えようとしておられるかと思います。やはり体が健康に育つには、本当の意味で栄養があるものをしっかりと吸収され大きくなるように心がけておられるように思われます。洗礼を受けるにあたって子供の成長のために単に体と心の成長だけではなしに、信仰の成長といいますか、霊的な成長といえるかもしれない。そのための糧が必要だということも心にとめておいてくださってもいいのではないかと思います。というのはこの幼児洗礼をするということは、カトリック教会の長い長い伝統の中で、このような儀式をしているわけです。大人の場合だったら信仰というのは自分の意志の表明によって、自分が神を信じるという表明によって洗礼を受ける。でも子供の場合は自分の意志の表明がないわけです。ないのになぜ洗礼式をするかというと、共同体の信仰があるからです。信仰というのは個人の事であるけれども、小さな子供に洗礼を授けるという恵みを共同体である教会が見守りずっと大事にしてきているわけです。ということは小さな子供に洗礼を授けてそれで終わりということはない。むしろ信仰教育のスタートだといえると思います。小さな子供に本当に栄養のある食事を与えるように、子供にも信仰というか心というか、霊的な成長のためにどういう恵みをどういう糧を与えるかということも 考えてくださったらいいと思います。信仰というのは共同体の中で育つものだからです。あるいは家庭の中でこそ育つものです。つまりそのような養分を吸収しない限り、子供の信仰は成長しない養われない体と同じです。だからイエス様が命の糧で命のパンであって糧だということは、この小さな子供たちにもこの信仰である小さな糧があるような工夫を、親御さんは心がけてくださったらいいと思います。そしてわたしたちは一生ごはんを食べないと生きられないように、信仰の糧は大人もみんな必要なんです。わたしたちが信仰を養っていくためには、一生恵みをいただいたり、御言葉で養われたり祈りで神様に触れたりしながらいつも歩んでいくということ。イエス様が命の糧だとおっしゃった時に、わたしたちはその糧をいつもいただくように心がけたいと思います。わたしは親ではないですけれども、特に思うのはやはり親になるということは少しずつではないかと思います。子供が一歳になったら親の経験も一歳だし、子供が二歳になったら親の経験も二歳として成長してしていく。急に立派なお父さんお母さんにはなれないんです。みんな子供の成長と共に良いお父さんお母さんになるように少しずつ成長していくんです。だからこの少しずつ成長していく糧をいただきながら、子供の信仰の成長は親の信仰の成長と繋がっています。親が成長していくに伴って子供も成長していく。だから信仰というのは共同体的な側面がいつもあります。お互いの関係の中で信仰というのは成長していくようになっています。お子さんも親御さんも 代父代母の方も、ここに集まっている全ての人もそうですが、信仰の糧を得ていつも信仰を少しずつ成長させていくように自分自身もそうだし周りの人とも信仰を深めていけるように心がけましょう。神の恵みの中でそれは少しずつだされるものだと思います。  わたしは美術展を見るのが好きで、最近は陶芸展を見ました。その陶芸家が造っている壺とかは本当に人間の心が出ますから、自由で捕われのない大らかな良い感じの作品が多いんです。見ているだけで心が洗われるような。その陶芸家が言っている言葉があって、名言を残されてますが「この世は自分を探しに来たところ」「この世は自分を見に来たところ」があります。わたしたちは絶えず自分を探しながら生きている。若い時は若い時なりに自分は何をしようかということを探していました。でも結婚したら夫になり妻になるというのも新しい自分を探してきた。そしてお子さんが生まれたら親になるという自分を探していく、育てていかなければならない。そしておじいちゃんおばあちゃんになったらどう生きていくか、新たな自分自身を探さなければならないでしょう。あるいは病気になったら病気の自分を探さなければならない。それを受け入れてそれを生きなければならない。わたしたちは絶えず自分探しでしょう。自分探しというのは人との関わりの中でしか自分を確認できないし、人との関わりの中で自分をもっと自分らしくいろんな形で成長もするでしょう。年をとったら衰えていく自分も自分として受けとめなければならない。わたしたちは絶えず自分探しをしているともいえると思います。そのためには神様がイエス様がいつもわたしたちに命の糧を与え続けてくださる。その命の糧を頂いていつもその時その時の自分を精一杯生きていけるように。そして今日洗礼を受けられるお子さんたち。そして青年の方。本当に自分らしい生き方をこれからも歩んでいけるように、その恵みの一つとしてこの洗礼の恵みを受けて、神様と共に成長していかれるように、心から祈りを捧げましょう十

 

第一朗読  箴言 9章1-6節
知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整えはしためを町の高い所に遣わして呼びかけさせた。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。「わたしのパンを食べわたしが調合した酒を飲むがよい浅はかさを捨て、命を得るために分別の道を進むために。」

 第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5章15-20節
 (皆さん、)愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい十

 

2018 年 8 月 19  日(日)10 時ミサ
 年間 第 20 主日〈白〉B 年 幼児洗礼式
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記