カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018826だれのところへ行きましょう

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於 

ヨハネによる福音書 6章60-69節 (そのとき、)弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」十

 今日の福音書はヨハネの6章の最後のところにあたっています。ヨハネの6章の一番最初のところで、パンを増やして多くの人に食べさせたというところから始まって、そしてこの一か月ぐらい日曜日ごとに読みましたが、イエス様は命のパンであるとか、イエス様の肉と血を食べなければ永遠の命に繋がらないとか、そういう話をずっとしていました。その最後が今日の朗読箇所になります。驚くべきことにその長い箇所はどういう結末に終わるかというと弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」実に悲劇的な結論でこの章が閉じられるということです。せっかく多くの人にパンを配り、そして御自分が命のパンだということを言えば言うほど、多くの弟子たちが離れ去ってしまった。信じられないぐらい悲劇的なところでこの6章が終わってしまうということです。これは本当に考えさせられるところだと思います。命のパンとか私の肉を食べとおっしゃったりイエス様が復活されるとかは、今のようなミサがあればそれは意味が分かるでしょうが、当時の人は何を言ってるのかよく分からなかったと思います。そしてイエス様から離れ去ってしまったということです。これは非常に悲しいことです。現代の教会でも今のところとイエス様と共に歩まなくなってしまったというのはよくあることだろうと思います。成人洗礼を受けられた方の多くは、何年間かは熱心に教会に来られるけれども、ある時から来なくなってしまう方が多いというのは事実として認めなければなりません。この教会は御葬儀も多いですが洗礼を受ける人はもっと多いです。以前佐々木神父様がよくおっしゃっていましたが、洗礼を受けた全員の方が教会に来られたら、今頃この教会は入りきれない人で溢れているはずなのに、日曜日に来る信者さんの数は毎回変わっていない。イエス様と共に歩み続けるということは簡単なことではないと思います。わたしの中で思っている成熟した信者さんの定義というのがあって、それは信者につまづかない、神父につまずかないで、それでも信仰を保っているというのが成熟した信者さんの定義と思います。神にイエス様につまずく人はほとんどいないと思いますが、洗礼を受けた信者さんがつまずくのは、信者さんの集まりでとか、神父の不適切な発言でつまずいたり、それで教会に来なくなったり。それでなくても日々の生活が忙しいとか、御自分のことでなんとなく来なくなってしまうというのは起こりうると思います。簡単に言えば何らかの意味で十字架の苦しみがやってきて、それがきっかけで離れてしまうということかもしれない。そこでイエス様は悲しそうに十二人に向かって「あなた方も離れていきたいか。」と聞くわけです。イエス様の悲壮な悲しそうな表現ですけれども、「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」つまりわたしたちは従っていきますと、ここでペトロは決意しているわけです。でも十字架の苦しみの時にペトロはイエス様から離れてしまうわけです。離れてしまっても復活の恵みによってペトロはもう一度イエス様のところに戻ってくるわけですけれども、これは本当に考えさせられます。私たちも洗礼を受ければ、あるいは神様のところにいれば苦しみが全くなくなるという誤解があるのではないかと思います。洗礼を受けても神様と共に歩んでも、わたしたちの人生に苦しいことはやってくるわけです。洗礼を受けているから、特別にこの世の苦しみから逃れられるということはないと思います。信仰者の恵みは何かといったら、それはイエス様の十字架の苦しみによって、わたしたちが被る苦しみを受けとめていくコツというか、苦しみをどう受けとめていいかを教えてくださる力とか恵みを主がくださるということです。そして十字架を超えた復活の恵みが与えられている。イエス様と共に歩んでいくということは、イエス様の十字架と共に歩み、そしてイエス様の復活の恵みを共に味わう、それがわたしたちクリスチャンに与えられている一番大きなお恵みだと思います。時々こんなに祈っているのにこんなに教会に来ているのに、なんで自分はこんなに苦しまなければならないのかという人がいて、でも真面目に祈ったから苦しみが来ないという約束はありません。主はいつも苦しみを受け入れる力を必ずくださる。そういう時にこそイエス様の十字架にわたしたちの心を合わせることができるか。そしてイエス様と心を合わせることによって、それは今まで気づかなかった、想像しなかった復活の恵みを主がわたしたちに与えてくださっている。それは私たちに与えてくださっている大きな喜び。この世のものではない宝物だと思います。イエス様が命のパンと言った時に与えてくださる命のパンは復活の恵みから来ているということです。だからわたしたちは今ある苦しみ過去の辛さ、それを主と共にわたしたちが歩んでいけると思います。そこで苦しみを受けた時に教会に来るのはやめようかとか、元の生活に戻ろうかという選択とか誘惑とかは絶えずあるのは間違いないと思います。でもその主の復活の恵みをみながら主と共に歩んでいく、その小さな決断と小さな願いをもって歩むことができるということです。このシモン・ペトロの最後の言葉「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ペトロの信仰告白です。これは日本の教会では聖体拝領の前の祈りになっていて、日本語の典礼だけなんです。英語もスペイン語もラテン語もこの言葉を唱えない。日本の司教団やその土地の典礼委員会が決めた独自の言葉です。独特なものなんですけれども。これを聖体拝領の前に唱えるということは意義深いと思います。イエス様から多くの人が離れ去ってしまう。わたしたちもそのような誘惑を感じる。それでも主よ、あなたについていく。そういう自分の決意を聖体拝領の前にささげて、そして命のパンである御聖体をいただく。今ある苦しみや困難をイエス様と共に乗り越えていくということです。人間からの決意表明といえるかもしれません。この世的な恵みが与えられないことは度々ありますが、でも御聖体を通したイエス様の霊的な励ましはいつも与えられているということです。それをわたしたちはいつも頂いて前に向かっていく。人によっては大きな苦しみを抱えているでしょう。人によっては普通の一週間になるかもしれない。この信仰告白と御聖体を頂いてまたこの一週間、イエス様と共に歩んでいける力を与えられるのですから、この信仰告白の御聖体を一週間のスタートの基盤として、信仰生活を力強く誠実に歩んでいけるように恵みを願いましょう十

第一朗読  ヨシュア記 24章1-2a、15-17、18b節
 (その日、)ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。「もし主に仕えたくないというならば、(ユーフラテス)川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」  民は答えた。 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。 主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

 第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5章21-32節
 (皆さん、)キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです十

 

2018 年 8 月 26  日(日)8 時半ミサ
 年間 第 21 主日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記