カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-09-09 自分を開いていくこと

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 7章31-37節 (そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」十

 今日のイエス様の福音は、いわゆるいやしのお話です。耳が聞こえず舌も回らない。いわゆる聾の方のお話です。10時のミサには手話通訳がついて、聾の方々が来ておられますが、聾の人に指をその耳に指し、唾をその舌に差し入れて「エッファタ」開け、というふうにイエス様がおっしゃると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解けて話すことができるようになった。イエス様はエッファタ、開けという言葉がどれだけ力強い言葉であったか。閉じていたものを開かせる、それだけの力があったわけです。これは大きな驚きですし大きな励ましでもあると言えるかもしれません。現代人は特にそうかもしれませんが、世の中が複雑になればなるほどそうなるかもしれませんが、だんだん閉じていくというか、内向的というか、今の家は大きいから部屋は一人一部屋で住み、閉じこもってしまうということがあるかもしれない。だんだんと閉じているような、自分の殻に閉じこもるような生活をしているような感じがしないでもない。しかも核家族になってバラバラに住むから余計そうですけれども、高齢者の方々で一人暮らしの方もこの中に多いかもしれない。閉じつつあるように感じます。だからこそイエス様が開けとわたしたちに命じているというか、力づけるということが大きな福音ではないかと思います。今日も皆さんを主が開いてくださっているということです。わたしたちの心を、生活態度というか信仰のあり方というか、それはイエス様が絶えず開いてくださる。そのイエス様の開きに預かってると受け取ったらいいのではないかと思います。まずはわたしたちは何に開くというのか。それは明らかに神様に開くということです。あるいは開けといった時にイエス様に向かって心を開くということが大事だと思います。悩んでいる人というのは自分の悩みでぐるぐる回っているだけで、悩めば悩むほど閉じちゃうような感じです。自分の思いとか考えとか何かにぐるぐる回ってしまう。でも神様に心が開いた時はどうなるのかといったら、神様の愛が注がれてくる。神の恵みの世界、神様がどれほど愛してくださっているかということを忘れている時に、わたしたちの心が閉じてしまう。わたしたちはそういうミサに預かる度に、あるいは一人でお祈りする度に、まず心を開いて神様の愛を心に十分に入れるという。主が注いでくださいますから、わたしたちの心を開いたときに神の恵みが心に注がれる。それこそわたしたちに与えられている大きなお恵みだと思います。そしてもう一つ開くのは当然人々に対してというか、身内に対して心を開くことだと思います。日常出会う人々と、あるいは時々しか会わない人々に対してそうかもしれない。神様の恵みをいただいてこそ日頃接する人々に心を開いていくことができる。心を開いて関わると、そこから何か神様の恵みがやはりお互い同士に働いてくる。イエス様の力は自分にも働くけどやはり人にも働いてくるわけです。    フランシスコ教皇が言うんですが、教会の一つの誘惑は閉じることだということです。自分たちだけ殻に閉じこもってしまう、それがひとつの誘惑だというわけです。そういう時どうなるかというと閉じれば閉じるほど病んでしまうというわけです。少人数で内輪もめになってしまったり病んでしまう。教皇が言うんですけれども開いて出かけて行けと言うんです。そこにはひとつの危険性があります。それは教皇様も分かっておられて、わたしたちの実感でもそうですが、人々が心を開くとどうなるか。その他の人との深いふれあいというか恵みの力が働くのも感じられますけれども、攻撃も受ける。人間は悪意もありますから。結局開くとお恵みも入ってくるけれど、神様に対しては恵みしか入らないけれども、人々に開くと良いものも来るけれど、悪いものもいっぱい来てしまう。だからわたしたちは閉じたくなってしまうわけです。余計な人の悪意とか批判とか、冷たくされるのが嫌だから結局閉じてしまう。イエス様のメッセージはそれを受け止めて、それを開いていくことだと思います。教皇が言うわけですけれども、閉じていたら病んでしまう。でも開いたら傷つくことが多い。でも彼が言うんです。病むよりは傷つく方がいいと言うんです。傷ついても開いて関わっていく時に、そこにやはり神様の恵みが働いていく余地が現れてくるということです。結局閉じていて人と関わることは嫌だとかまたあの人がどうだとか。家庭でも職場でも起こりうることでしょうが、でも閉じれば閉じるほど安全ではあるかもしれないけれど、何も起こらない。神様の救いの力は起こらないままです。わたしたちはあえて、エッファタという開けという呼びかけに応えていく時に、確かに少々傷つくことはあっても、神様の恵みの力が働いてくると思います。それは神様がイエス様が開けといっておられるその支えがあるからです。だからわたしたちは人々に対して開いていくことができる。そして開いていくときにこの世の苦しみに向けなければならないでしょう。それを受け止めた中でそこに神様の恵みの力が働いてくる余地が開かれてくる。そこで工夫したり何かを考えたり神様の恵みを願ったり、あるいはそれでも愛そうと努力したりする中で、神様の救いの力が大きく働いてくると思います。いつも開くことはできないかもしれない。わたしも疲れてきたら閉じないといけないかもしれない。これ以上開いたらオーバーワークかなと思い疲れて閉じて一人でゆっくりしなければならないことも多いんですし、ずっと開いていることはできないかもしれない。でも疲れて閉じた時にも神様に開いてるならば慰めの恵み、勇気、希望を主は与えてくださる。そして自分の困難や問題に、あるいは日常の雑務に自分の心を開いて、向かっていくことができると思います。その中に神の恵みの力が働いてくださることも多いと思います。すぐに働くかどうか分かりませんが。心を開いて関わりのある中で互いに愛し合おうとする中で、恵みの力がわたしたちに働いてくださる。だからイエス様は今日皆さんにも エッファタ、開けという恵みの言葉をくださっているわけです。わたしたちがそのイエス様の励ましの言葉に信頼して、わたしたちが少しでもこの一週間、自分自身を開いて歩んでいけるように、神様の恵みを見出すことができるように日常の中で神様の救いの力を日々の生活の中で見出すことができますように、祈り求めましょう。主はその恵みを確かにくださる。その信頼のもとに歩んでいけるように、共に心を合わせてお祈りいたしましょう十

 

第一朗読  イザヤ書 35章4-7a節
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。

第二朗読  ヤコブの手紙 2章1-5節
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか十

 

2018 年 9 月 9  日(日)8時半ミサ
 年間 第 23 主日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記