カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-07-16 癒しのミサ

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会 マリア聖堂於 

マタイによる福音書 10章34節-11章1節(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された十

  今、朗読した聖書の箇所は、マタイの10章の終わりのところです。マタイの10章というのは福音を宣べ伝える弟子たちに対する心構えとして書かれているところにあたります。今日読んだのは説教の最後の箇所になります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い」生命にむしろこだわるべきではないとというようなニュアンスで書かれています。そしてその他に驚くのが「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とイエス様がおっしゃっています。とても逆説的というか、ちょっと驚く箇所です。でもみなさん自身もそうかもしれない。あるいは信仰者じゃない人に聞いても、例えば大学の時の同級生に聞いてもそうですけれども、何が自分の人生で一番大切なことかと聞いて考えてもらったら、大体どちらかですが、ある人は家族だと言います。自分に一番大事なものは家族という人が多いです。特に自分の息子や娘とか、父や母やパートナーとか、よくよく考えて家族だという人は多いわけです。結局は自分の命だと考える人は非常に多い理由です。突き詰めて考えなくても、わたしたちの実際の悩みのほとんどは、自分の命に関わることか、つまり自分の健康に関わることか、あるいは家族の健康に関わることです。特に今日集まっている方々は癒しを求めているわけだから余計にそうかもしれません。わたしたちの人生の苦しみの一番のポイントは、やはり自分の健康に関することか、家族の健康というか、自分の命と家族の命に関わる事を一番心配していると言えるかもしれない。この教会も5月から色々あって、わたしは結婚講座担当になりました。司祭が少ない人数で役割分担をしているんです。この間も結婚するカップルに何を大切にし何を祈りたいかと聞いたら、大体は家族の健康と言うんです。特にこれから結婚するんですから、パートナー同士の健康のこととか、家族が幸せに暮らせることと95%の人は言います。当たり前ですけれども、そういうことを願うのはそうだと思います。それは普通のことです。結婚して10年20年たったならば、願っている健康がなかなか得られないということもあります。つまり度々自分や家族が病気をするわけです。病気だけの問題ではないですが、何か難しい局面に直面していかなければならないのは事実ですけれども、そういう時に今日のイエス様の言葉をやはり思い起こしてみればいいかもしれない。イエス様がおっしゃっている今日の福音書でいっていることは何かといったら、家族の関係が大事なのはちろんですけども、家族の関係よりも大事なものがあるということです。あるいは自分の命よりも大切なものがある。だから福音を宣べ伝えていこうとする時に、あるいは福音を生きようとする時にわたしたちが日頃大切にしているものを超えるものがあるということを意識していく必要性があると述べてくださっていると思います。     プロテスタントの信者さんで、星野富弘さんをご存知の方もおられると思います。元々は中学の体育の先生で健康や体力に自信のある方だったんですが、クラブ活動の指導中に墜落事故で頸椎損傷になってしまって、手足の自由が失われたわけです。自分では何もできなくなって、その後に彼はプロテスタントの洗礼を受ける事になって、彼が有名になったのは手も動かないので、絵筆を口に持って花の絵を丁寧に書いて、その花の絵に簡単な詩のようなものをつけるということをされた。その詩をご覧になった方々も多いと思います。わたしが一番好きなのは何の花だったかは忘れましたが、言葉の方は「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」と書いてあります。命が一番大切だと思っている時は生きるのが大変苦しかったということです。彼はいわゆる身体障害者になってから、もうだいぶ高齢になられたと思いますが、お見舞いに来てくださった方と結婚されて、奥さんがパートナーとなって絵を描く手伝いをされたわけですが、自分の命が一番大切だと思ってる時に、自分が障害を負ってしまったわけです。でも彼は多分これは洗礼を受けたからだと思いますけれども「いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」命を超える恵みの世界があると分かることが、クリスチャンとして生きることの最大の喜びだと思います。もちろん今の病気が治ったり症状が軽くなったりすることも、このミサでお願いされていいと思いますし、主はその恵みを与えてくださいますけれども、主が与えてくださる最大の恵みは、この世の命や家族の関わりを超える、恵みの世界を主がプレゼントしてくださっているという、その大いなる恵みの世界の中に生きていくことができるということです。だから逆に言えばこの世の家族関係に苦しまずに、でも家族を大切にして生きていくことができる。あるいは自分の命を超える恵みの世界があるからこそ、自分の命を大切にして生きていくということができると言えるのではないかと思います。この命を超える恵みの世界に触れることができる。その恵みの世界を時々感じることができるということが、大きなお恵みだと思います。  わたしは30代までの若い人ばかりの講座をやっています。神様において本当に自由に生きていくことができるのか。神様と近くなっていけるか。その20代30代の方とは何年も一緒にやっているのでかなり深い人も多いのですけれども、びっくりするぐらいです。病気とか辛い時にむしろ神様が近い。その時こそ自分の執着から解放されると言った人が何人もいたんです。むしろ困難とか苦しみの中にあって、行き詰まりの中で神様にしか頼らざるを得ない状況になって、神様に心を向けた時に、自分の思い煩いとか、自分の日頃苦しみを手放すことができて、自由な気持ちになるというんです。それが一人二人ではなくて何人もの方がそういう分ち合いをしてもらったところなので、やはり深いなと思いました。そういう世界に目覚めるのは年齢ではないなと強く思いました。主が与えてくださる救いの恵み、癒しの恵みはやはり想像を超える以上に深いものがあるということです。わたしたちはついついこういうことがあるからとか、なんでこんな不自由がとか、自分ばっかりこんなに苦しまなければならないのかとか、ついつい思いがちです。それはこの世の命とかこの世の家族の繋がりとか、この世の仕事のこととか、この世の経済的なこととか、そういう事に気持ちが向かえば向かうほど、気持ちがバラバラになってしまうことはあります。でもそれを超えた恵みの世界に自分の心を合わせるなら、ものすごい自由と平和の心が味わえるということは事実です。それを皆さんも感じられることが度々あるのではないかと思います。度々感じますけども度々忘れられるようで、いつもの恨み節に戻られるでしょう。何で自分ばっかりだとか、何だこんな家族はとか恨んでみたりとか、何でこんな人と結婚したんだとか次から次へと愚痴が出てきてしまうということもありますけれども、主が与えてくださる本当の恵みの世界、本当の救いの世界に心を向けたいと思います。それは福音を伝える人に語られているということです。福音を伝えるということは福音を生きていこうとする心がけがあるから、この世を超える福音的な恵みの世界に気持ちが向いているからこそ、イエス様はこういう厳しいことを言う事ができるわけだし。でもこれは真理です。福音の恵みに心を開かれた時に、本当の愛と自由の世界に生きることができる。だから福音の恵みを他の人と分かち合うことができる広がりのある世界に生きていけるんです。苦しみに捕われれば捕われるほど、自分のことしか考えられなくなります。自分のことと自分の家族のことで頭がいっぱいで、苦しみの世界から出られないわけですけども。福音の世界が分かれば分かるほど、周りの人と恵みを分かち合っていける広い広い世界の中に生きていけるんです。それは本当のお恵みだと思います。そのような信仰の恵みから福音的な生き方、この世の苦しみやこの世の儚い喜びを超えた本当の恵みの世界に心を合わせて、その恵みを感謝の内に謙遜な心で受け取って、それを歩んでいけるように心を合わせてお祈りいたしましょう十

第一朗読  イザヤ書 1章10-17節
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえが
わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。
雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが
誰がお前たちにこれらのものを求めたか
わたしの庭を踏み荒らす者よ。
むなしい献げ物を再び持って来るな。
香の煙はわたしの忌み嫌うもの。
新月祭、安息日、祝祭など
災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。
それはわたしにとって、重荷でしかない。
それを担うのに疲れ果てた。
お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。
どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。
お前たちの血にまみれた手を
洗って、清くせよ。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ
善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ十

 

2018 年 7 月 16  日(月)癒しのミサ
 年間 第 15 主日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 マリア聖堂於

  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記