カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-10-27 長寿の集い

英神父 講話 聖イグナチオ教会於  長寿の集い

 年をとってくると難しくなってくることがある。私など五十を超えてからだんだんと老化を意識せざるを得なくなりました。目が見えなくなってきて、耳が聞こえなくなってきて、髪の毛が薄くなってきて、 何を約束をしたかメモを見なければわからない。歯も悪くなってきて、トイレが近くなってきて、睡眠が浅くなって、夜中に何回か起きるようになった。私の同僚のイエズス会の神父様は夜中に二、三回起きられるとおっしゃっていました。皆さんもそうでしょう。 そして同窓会へ行くと、特に女性の肌の老化が一番気になります。あんなにかわいかったのにすごいことになっている。いろいろ体が衰えてくるのは間違いないと思います。あと頭の問題ですね。近々の記憶力が落ちたり、判断力が落ちたり、感情のコントロールが難しくなってくる。私も急に怒りっぽくなってくる。若い頃にできたことがだんだんできなくなってくる。仕事にしてもそうですし、スポーツもそうですね。体力を使うようなのはだんだんできなくなってきています。特に語学の勉強が難しくなってくると思います。 年をとってくると友人が少なくなってきて、交際範囲が狭くなってくる。現代的ですが、家族の関わりもどんどん減ってしまう。だいたい子供は独立するし、夫婦二人暮らしか、片方が亡くなって一人暮らしが多い。子供の頃は家族団らんが多かったですが、段々一人暮らしで孤独という問題も大きい。病気や怪我が増えてくる。なんでもないところで転ぶ。なんでもないところでパタンと転ぶことも 増えます。いいかどうかわかりませんが、 老齢期というか、おじいさんおばあさんである期間が異常に長くなった。昔はおじいさんおばあさんになったらすぐ天国へ行っていた。 人によっても違うけれど、70歳で亡くなる方もいれば90歳過ぎても元気な方もおられる。20年ぐらいの幅がある 。生まれた子供が成人式を迎えるぐらいの期間を老齢期。元気なのか、病院通いなのかどうかは人によって違います。とにかく長い時間を過ごさなければならない。しかも当たり前ですけれども死が近づいてきている。自分の死の問題もあるし、自分の家族や友人の死も目前になっている。あるいは迎えられた方もおられる。死の問題もあります。子供の頃弱かったことがより弱くなる。怒りっぽかった人はもっと怒りっぽくなったり、愚痴っぽい人はもっと愚痴を言ったり、あるいは片付けが苦手な人は、もっと片付けが苦手になったり、弱かったことがより弱くなる。 人によっても違うんですが、私の母親は片付けが苦手だったんです。だからその反動で私はものすごく綺麗好きになったんです。 皆さんも日々そういった事を直面されているでしょう。今日私が言いたいことは皆さんのプリントの中に 「静けさの上に」という題で「主よ、変えられないものを受け入れる心 の静けさと 変えられるものを変える勇気と その両者を見分ける英知を与えたまえ 」ちょうど教会の門の横の掲示板に、文言は少し違いますが同じものを貼ってあります。 皆さんに振り返って考えていただきたいのは、今の自分にとって変えられないものは何なのか。ということと、変えられるものは何なのかということを考えていただいて、自分の生活の見直しを何かしてくださったらいいのではないかと思います。
皆さんから頂いた質問で一番多かったのは、「聖堂で声が聞こえない。神父様の声が聞こえません。」と言う苦情を私がこの教会に来た時から何回も言われています。どこに行っても言われます。私だけではなく他の神父様も時々言われるそうです。変えられないものは何かといったら、神父の声を大きくすることはできないんです。地声が大きい人は声も大きいけれども、私みたいに声が小さい人は怒鳴りながら喋ることができないんです。マイクのそばに近づくようにはしてますが、しかもマイクの音量も無制限にあげられないんです。今の音量をこれ以上をあげたらハウリングを起こして、しかも反響するので音量を上げたら返って響いてしまって聞こえないんです。だからマイクの音もこれ以上変えられないんです。よっぽどお金をかけて改造しないと変えられないんです。だから変えられないといって諦めるのかといったら、変えられるところを変えるように工夫をされたらいいと思います。 この聖堂も19年ぐらい経つんですけれども、最初から補聴器はあります。作った時から何回も何回も補聴器はありますとアナウンスをしています。特に中央の席には専用の配線がされていて、事務室に補聴器があります。それを借りて補聴器をつければすごくよく聞こえます。でもなぜかわからないけれども、私が事務所へ行った時には機械が5台あって誰も借りていない。あるのに使わないのは残念だということです。しかも借りるのが面倒ならば、自分で買うこともできます。教会の機種は決まっているので、経済的に余裕のある方だけですが、専用の補聴器で聴くこともできるんです。私が来てから個人的に何回も説教が聞こえないと言われました。私が補聴器があるから使ってくださいと必ず言うんですが、なぜか借りる人がいないんです。文句は言うけれども。なぜかはわからない。変えられることなんだから、積極的に使ったらいいと思います。後はよく言うんですが、座席の一番端の方がよく聞こえるんです。スピーカーのそばに行けばよく聞こえるのでと言うんですけれども、なかなか実行してくださらない 。去年の長寿の集いで同じ話をしたら、やっと補聴器を借りるようになってくださいました。でも5台あるのに5台全部借りられることはないんです。必要ならば買い足しますので、是非とも補聴器を使用してくださったらいいと思います。変えられないものは変えられない。変えられるのに文句を言う。変えることができることを工夫するようにいろんな形でしてくださったらいいと思います。補聴器も一つのことですが、 手元が見えづらい方もおられる。ですが照明をあまり明るくすることはできないんです。だから聖書と典礼の大きい方を見たり、ルーペを使ったり、工夫してください。もちろん教会にできることはしますけれども、年をとってできないことは増えてくるので、変えられることを勇気をもってしてくださいと思います。ついでに言うとインターネットで説教をブログにアップしていて、いつでも聞けるようにしています。なんでかと言ったら聞こえない人が多いからです。だから後からネットで聞いてくださったら、もっとよくわかるからということももちろんあります。だからできることはやっているので、皆さんもできることは工夫してくださったらいいと思います。
そして死に対して。死が恐ろしいのはどうすればいいのですかという質問がありますが、死ぬということは変えられません。残念ながら確率論ではありません。人類始まって以来、全員死んでいます。二人に一人しか死なないんだったら悩まなければならないけれども、 死ぬことは決まっているんです。人類が始まった時からそうなのでこれは変わらないと思います。死ぬことは変えられません。でも何が変えられるかと言ったら、死を迎える準備をすることができます。いわゆる終活と言いますが、自分の身のまわりを整えたり、心の平安を得るような工夫をするとか、エンディングノートとか死を迎え入れられるための準備とか、老齢期は二十年ぐらいありますからしっかりと死の準備は絶対できます。今できる準備を、部屋の片付けとかできることをされたらいいと思います。今年の5月ですが、ケルクマン神父様と佐々木神父様が二人揃って亡くなられましたけれども、突然でしたから本当に大変でした。部屋の片付けだけで、ものすごく大変なんです。李神父様が一生懸命やってくださったのでよかったのですが、片付け一つが大変なんです。皆さんも身の周りを片付けたら 、後に残された方がすごく助かります。だからできることを、変えられるものは変える。できることをできるように今から考えて実行されたらいいのではないかと思います。できることはどんどん減っていきますから。ついでに言うと前回この話をした後 、私自身も黙想しています。なかなか変えられないものもあります。変えられないんだから受け入れるしかないです。 変えられないものに悩んでいるなら受け入れるしかないのです。 変えられないものを悩んでも無駄だから、受け入れて何を変えたら良いかということを 心がけています。 そして両方を見分けられるように。できないもの諦めるとか、でも自分なりにできることはどうしたらいいか、考えるということをしてくださったらいいのではないかと思います。後はミサとお祈りのことです。当然だんだんとミサに来られなくなります。 遠かったり行かれないことがあったり、ミサに来る回数が減ってきたり。でも来れないなら来れないなりの工夫をされたらいいと思います。 先週お会いした方は遠方に越してなかなか来られなくなったので、月に一回だけホテルに泊まってミサに来られる。その方はそれなりの工夫をされているということです。タクシーで来られる方は明らかに多いです。近くの方でしょうけれども、ミサの前にタクシーが止まっていて、もちろん経済的なことがあるから毎回来られないかもしれない。何かあった時にはという工夫を、あるいは住んでいる近くにカトリック教会はありますから、そこの教会に行くことを考えられてもいいと思います。遠くから電車に乗って来られるよりは、なるべく近くの教会に行って、そこの神父様にも挨拶される。小教区の教会の神父様がいつも文句を言うのは、近隣の信徒が年をとったら急に姿を見せるようになった。若い頃はイグナチオに来てたのに、年をとってから急に病者の秘蹟とか葬儀を頼まれるという。だから葬儀をするんだったら 、イグナチオの主任司祭から、地元の主任司祭へ葬儀をお願いするという筋を通すとか、地元の教会に通っていていずれ葬儀をするとか、いろいろな方法はありますから考えられたらいいと思います。ミサに出られなくても月に一回とか希望するなら、御聖体を自宅なり病院なりに届ける奉仕者も決まっています。 月に一回ですが、聖書を読んだりそういうことも考えられたらいいと思います。ミサに来られない代わりに、自分の家で聖書を読んだり、ロザリオを唱えたり、インターネットやラジオもありますから、ミサに出る代わりに家で何かしらの祈りの方法をされたらいいと思います。週に一度ぐらいは神様に触れる時間は持たれた方が、自分のペースでいいですからされたらいいと思います。私の説教でよければインターネットで、できなければお子さんに聞いたりしていただければ良いかと思います。
当然体の変化も急に起こります。リハビリで治るならリハビリするし、できなければ受け入れて、どうしていくかということを、ゆだねることを、自分ができる工夫をしながらされたらいいと思います。上石神井に神学院があって、その横にロヨラハウスという引退されて介護が必要な神父様がおられます。その神父様方とお付き合いするのはものすごいお恵みがあります。 以前はよく行っていて神父様達の姿を見ていましたが、一番印象に残っているのはドイツ人の神父様がおられて、大先輩で聖人のような方がおられていて、そういう方と触れられたことが大きなお恵みだと今でも思います。 その神父様は教会に来られない方のお宅へ家庭訪問されていました。車に乗られずにほとんど歩かれて訪問されていました。なぜ車に乗らないんですかとお聞きしたら、歩いて行った方が信徒さんが喜ぶからとおっしゃっていました。 神父様には逸話はたくさんあるんですけれども、愛の方で、奉仕の心を常に保たれていた。そして祈りがとても深い神父様でした。その方が病気になられてロヨラハウスに来られた。当時十人ぐらいおられていて、その神父様は家庭訪問をされていた習慣があるから、一人一人のイエズス会の個室の部屋を訪問されていました。毎日一人一人のお部屋に入って、一人一人とお話されました。食事もいつも最後で食器を片付けられていた。神父様が一人で食器の片付けを、つまり最後まで自分ができることをする気持ちがあった。だんだん目が悪くなられて、ミサもたてられなくなって、神父は聖務日課を唱えなければならないんですが、 できなくなって、ほぼ一日中ロザリオです。ロザリオの祈りをずっと唱えられていた。いよいよ体が悪くなってできることが、牛乳パックを洗って干すということでした。目が見えなくてもこれはできますからと言ってされていた。だから彼の最後の仕事が牛乳パックを洗って干すということと、ロザリオを唱えるということが最後にされていました。結局最後まで何かできるということです。病院に入院したらしたで寝たきりかもしれないけれども、ちょっとはできることがあるでしょう。私たちは将来クリスチャンですよね。ここまで来たら卒業ということはないんですよ。生涯クリスチャンなんだから、自分ができる祈りと奉仕を最後の最後まですることができる。神父様は最後の最後まで自分にできることをしようと精一杯されていたので、聖人のような方で、それでも列福運動はおこっていない。そういうことで皆さんもこういうことを参考にしながら、では自分の場合はできないことはできないで誰かに頼まなければならない。子供に頼まなければならないし、福祉に頼まなければならないこともある。でも何ができるかを考えて行くことは、最後までされた方が、クリスチャンとしての生き方になると思います十

 

主よ 
変えられないものを 受け入れる心の静けさを
変えられるものを 変えられる勇気と 
そのどちらも見分ける 英知を我に与えたまえ十

 

 

2018 年 10 月 27 日(土)長寿の集い
  カトリック麹町教会 ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭  講話記