カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-11-02 死者の日

英神父 説教 イグナチオ教会於 死者の日

ヨハネによる福音書 6章37-40節(そのとき、イエスは人々に言われた。)「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」十
 今日はカトリックの死者の日に当たっています。日本の習慣でいえばお盆の代わりという形で、亡くなった方のために祈りをささげるそのような日になっています。人が死ぬという事、特に親しい家族とかが亡くなるという事は、通常多くの人にとって大きな苦しみと悲しみをわたしたちにもたらすという事が確かなことだと思います。なんでそのように思うのか。当然、話しが出来なくなったり、わたしたちと繋がりが切れてしまうような、そのようなところから辛くなってしまうということです。しかし信仰を持っているわたしたちにとっては、見えない神様と繋がりを生きているように、死が終りではないということを信じていると思います。たとえ死があったとしても、人間の魂というものが滅びるわけではないので、繋がりが切れているわけではない。そういうことを思い起こす必要性が時にはあるでしょう。私たちが亡くなった方と繋がっているからこそ、祈りを捧げることに大いなる意味があると思います。
わたしも何年も前に父親を亡くしていますが、実家が神戸なんですけれども、いまだに父が神戸にいるような感覚が抜けない。もちろん話はできないですけれども、やはり繋がっているという気持ちが強いように感じます。昨夜も亡くなった方と共に祈りを捧げていて、父親のことも思い出して祈りを捧げていたんですが、昨日の夜は特にはっきりと父親の魂と繋がっているという感覚を非常に強く持って、それは祈っている時に見えない神様と自分が繋がっているということを、度々感じますけれども、昨日の夜は亡くなった父親とも深い繋がりがあるとしみじみ感じていました。父は今でも私を見守りながら存在しているというか、昨日の夜は強く強く感じていました。日頃はそんなに強く感じることはないですけれども、ないことの方が普通です。でも実際は繋がって生きているということを否定することはできないと思います。日頃は忙しくて亡くなった家族のためには祈りを捧げられないのですが、かなりの間父親のために祈ってなかったんですが、ある時久しぶりに父親のためにお祈りしたら、父親の苦笑が聞こえてくるようで、時々は思い出してくれ、と言われているようで、久しぶりに思い出してくれてよかったというような、思いが蘇ってきたこともありました。わたしたちの命の本質は何かと言ったら、命の本質は繋がっていることだと思います。他の魂と、また神様と繋がっている。私たちが与えられている永遠の命というのは、全ての魂は神様との永遠の繋がりの中に生きている。そしてその魂が永遠の命に繋がっているならば、当然わたしたちとも繋がりの中に生きるということは間違いないことだと思います。だからこそ時々死者を思い出し、祈りを捧げることによって、もちろん言葉にはならないけれども繋がりを確認する。関わりを感謝したり何か祈りの言葉を自分なりに唱えたりするということが大切なことだと思います。そしてその繋がりを私たちは生きているからこそ、地上で生きているわたしたちは、命を大切に生きていくことに繋がると思います。今生きている命と、周りの人や大自然の命、繋がりを大切にして生きていくように、私たちは呼ばれていると思います。亡くなった方々を思い起こし、祈りを捧げると共に、私たちに与えられている命も大切にしていくことができるように、合わせてお祈りいたしましょう十

第一朗読  知恵の書 3章1-6、9節
神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望が彼らにはある。わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである十

2018 年 11 月 2 日(金)12時ミサ
 死者の日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記