カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-23 入門講座 6 神の国Ⅰ

英神父 入門講座 6 神の国Ⅰ

 イエス様に招かれるのは、罪人であったり病人であったりの人々が、癒されに招かれる。マタイ9:13「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」あるいはルカ5:31「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」ということです。そういう人をイエス様は招いておられる。罪人には赦しですね。イエス様は与えてくださるわけで、そこから新しい生き方とか弟子にするとか使徒にするとかいう。病人の場合は癒しの恵みを与えてくださり、そこから新しい生き方を与えてくださる。そう招かれているわけです。イエス様からは赦しですけれども、罪人からみたら悔い改めです。生き方を変えて新しい生き方へと招かれているということです。新しい生き方ということを、一つの言葉でいうと、神の国という言い方もできると思います。今日は神の国というのを説明しようと思います。たとえばマルコ1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。神の国は近づいた。ということです。あるいはマタイ6:33「 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神の国というのはイエス様のメッセージの中心的なものなんです。神の国と言っても分かりにくい言葉ですが、簡単に言うと神様の力が働いている領域。神様の恵みが溢れている領域というか、神の国の領域を神の国といえるんではないかと思います。神様の力が働いているのが分かるからこそ、神の国という。今日はこのような神の国というのはどういうものであるのかというのをお話したいと思います。

マタイによる福音書が神の国のたとえ話がたくさん出ているんですね。マタイ20章1節「神の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。』 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」天の国と書いてあるんですけれども、マタイはユダヤ人で、ユダヤ人はあまり神という言葉を使わず、主といったり、畏れ多い神の名ということを天と言いかえることが多い。天といってもここでは神の国のことです。天の話しをしているわけで、この世の中で神様の力が働いているところの在り方は、どのようなものであるかということを、イエス様は神の国はこうだというふうに定義として、はっきり言わないで、たとえでわたしたちに問いかけるかたちで、言うことはあるのです。このぶどう園の主人と労働者で、神の国はどういうものかをたとえているわけなんですが「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇う」ということですが、ぶどう園を持っているからこの主人は金持ちでしょうけれども、ぶどう園を働く労働者を雇うといっても、日雇い労働ですね。この時は収穫の時期と思いますが、労働は朝が早いんです。監督に労働者たちを呼んで最後に来た者から始めて、この賃金を払ってやりなさいと言ったので、5時頃に来た人が一デナリオンを受け取った。最初から来た人はもっと受け取れると思ったのに、やっぱり一デナリオンだった。その彼らが不平を言って、最後に来た連中はたった一時間しか働いていない。自分たちは丸一日暑い中を辛抱して働いた。最後の一時間と、朝から働いていた人はかなり長い間働いていたわけで、すると「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」そうですね。「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」この話は腑に落ちないところがある。たくさん働いた人も、一時間しか働かない人大阪の日雇い労働者の町で働いた時に、そこの人に聖書のこの箇所を話たら「そんなことをしたら暴動やで」と言われました。マルクスでも怒ると思います。でもこの話は、この世の話をしているのではなくて、神の国のたとえなんです。この世の話をしているんだったらおかしいけれど、神の国のたとえだから、こういうお話を言っているわけです。イエス様は何でこのような話をされるのかといったら、どこかわたしたちの価値観を問うているというか、考え方を問うていると思うんですけれども、自分をどっちの立場に置くかです。朝から働いている人の立場にたって聖書を読むか、たった一時間しか働かなかった人の立場で読むかで、だいぶ印象は変わってきます。それは朝から働く人はどういう人かといったら、若くて元気に働ける人から雇われる。山谷でも手配師が来て、朝5時から元気な人から雇われる。能率効率のいい人からで、50歳超えたら雇われないんです。この最初に雇われた人は元気な若者で、12時頃からだんだん少なく、最後に5時以降に雇われたのは50歳以上です。あんまり仕事ができなくてあぶれている人なんです。一時間しか働かない人でも、家に帰ればお腹が空いて一デナリオン必要な人なんです。その賃金で家族を養わなければならないですから、その日の五千円か一万円で家族の食事代から何から、全部まかわなければならない。だから一デナリオンが必要なんです。たった一時間の賃金で、その日家族が食べていくのはあり得ないんですね。たくさん働いた人であろうと、少しだけ働いた人であろうと、みんなに一デナリオンづつお恵みがあるというのが福音なんです。神の恵みの素晴らしさです。それが神の国の原則だということになるわけで、こういう疑問のあるお話というのは、この世と真逆な福音のお話、そういうところに神の国の特徴が非常によくあらわれている。この世ははっきりしていて、働けそうな人、能力のある人には高い賃金を払って仕事もいっぱいあるけれど、能力の低い人は仕事も無ければ、賃金も安いという差別とか区別がされているのは、この世の社会で全てがそうでしょう。でも神様は人間を能力で判断していない。その人の存在価値で判断している。その人がたくさん働こうが少なく働らこうが、一人一人に毎日必要な一デナリオンのお恵みを与えてくださっている。これが神の国のお恵みの世界です。だから最後に「『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」だから先にいるものというのは、能力があったり何でもできるような人が、かえって後になったりして、後にいるものが、一時間しか労働ができないような人が、むしろ神の恵みにあずかる、いわばひっくり返ったというのが、神の国の特徴だったんです。最初に言ったように、イエス様が招いたのは罪人とか病人だったんです。罪人とか病人というのは明らかに一時間しか働けない人でしょう。最初から働ける人を差別しているわけではないでしょうけれども、イエス様が直接働かれているのは明らかに一時間しか働かない罪人や病人にも、その日その日に必要なお恵みを、一人一人に一デナリオンづつ平等に与えているというわけです。だからこの話は素晴らしい。個人的にわたしはこの話が一番好きなんです。特徴がよくあらわれている。

マタイの20章ということは、聖書でだいぶ後の話なんです。だんだんイエス様と律法学者が対立していって、彼らによって十字架につけられる。でも朝から晩まで働いているという人は、直接はユダヤ人の真面目な人の話なんです。逆に真面目に一生懸命にやっているのに、ファリサイ派の人は耐えられないような、そういう気持ちになったのではないかと思います。その方が神の国にわたしたちは呼ばれている。ぶどう園で労働するとはどういうことでしょう。聖書でこれは本当の労働ではないですから。最終的には新しい生き方とか神を信じるような生き方を、最終的にはみんなに等しく与えられている。一デナリオンのお金の話ではない。神の恵みが一人一人に必要な分だけそれぞれ注がれている。それをどれだけ感謝して受け取ることができるかどうかということ。それが大切なことではないかと思います。

もう一つはマタイ22:1「イエスは、また、たとえを用いて語られた。 『天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。〈招いておいた人々にこう言いなさい。(食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。)〉 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。(婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。) そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、(友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか)と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。(この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。) 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』」今度のたとえは「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」王子様の結婚式に神の国をたとえるわけです。婚宴とか結婚にたとえるのは、割とユダヤやキリスト教であるんです。わたしたちの社会でも結婚式といったら大きなお祝いですけれども、神様が花婿でわたしたち人間が花嫁だという感覚だから、神と人間との親しい関係というのを結婚式でたとえるわけです。だからこれは大きな喜びだし、神の国のたとえの一つで相応しいものだと思うんです。この話は不思議で、「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』」と言ったわけです。普通の結婚式だったらわかるけど、王子の結婚式ですよね。たとえば日本では皇室の結婚式に招かれて、断わるとは普通考えられない。社会的には名誉なことだから、それこそ喜んで参列するのが普通だと思います。「牛や肥えた家畜を屠って」滅多に食べれない御馳走だし、それを断わるんだから奇妙です。「 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」理解できないお話ですが、もちろんこれはたとえでいっているのですけれども、ある意味これはわたしたちにとって現実で、皇太子の結婚式に呼ばれるぐらい大いなる喜びなのに、それに気付かないで、商売とか畑で仕事してしまうような感じで、つまり招かれているのに気づかない。あるいは招かれているものが、どんなに素晴らしいものであるかということを無視して、日常生活に埋没している人の悲劇をいっているように思います。ただ神の国というのは結婚式にたとえられるぐらい大いなる喜びであるにも関わらず、この世的には隠されている喜びだということです。招かれているのです。招待状が来ているのに無視して、考えられないぐらいもったいないことになるわけです。そのようなものには招かれて、文字通りの御馳走ではないけれども、霊的な精神的に価値のある、そのようなものに招かれているわけです。それだけ神の国の喜びは隠されているんだろうと思います。それに気付いて応える事ができるならば、神様がご馳走を出してくださっている宴に参加できるわけです。マタイ7:8「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。』」ふさわしくなかったということは招かれなかったということです。「『だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」誰でもいいということで、病人とか罪人とか特別な資格が無い人が、神の国に呼ばれている。その恵みがいわばわたしたちにとって、大いなるお恵みだということです。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。」結婚式だから礼服を着なければならないのですが、礼服とは何かといったら、当時の人は下着が普通の服で、寸胴でワンピースのような、神父様がミサで着るアルバのようなものを男も女も着ていた。イエス様の絵もマリア様の絵も寸胴のもの。上着といったら肩かけのショールのように羽織るもの。礼服というと羽織るものなんです。でも王の結婚式ぐらいになったら礼服は配られるんです。配られたのを着ていくわけだから、買わなくていい。それなりの相応しい礼服を着れる。それを着ていないということは、やっぱりこの人はTPOがなかった。礼儀とかマナーとは何なのかといったら、基本は思いやりの心。日本でも礼法があって、知り合いに礼法の先生みたいな人がいるんですけれども、その人が言うには、礼儀作法は全部が思いやりの心、ただそれだけだということです。だからこの結婚式で礼服を着るというのは、喜びの表現を分ち合うためです。ただそれだけです。たとえばお葬式にも礼服着るけれど、何でお葬式で礼服を着るかといったら、悲しみを共有するためです。悲しみの心を分ち合うためにそういう服を着る。結婚式みたいな喜びでは、喜んでいるということを表わすために礼服を着るわけです。だから結婚式に礼服を着ていないということは、喜んでいなかったということですね。つまり全く合わなかったということです。だからここでいったら、新しい生き方を生きているかどうかということです。そのような思いやりと、愛の心を持って生きているかどうかということは大事なことで、そのような生き方にわたしたちは呼ばれているということです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」招かれているということに意識を持って、招かれているということに対して、素直に応えていく、神様の憐れみの大きさを受けとめていく、そのようなことが大事だということです。病人とか罪人とか別に、朝から晩まで働くから恵まれるわけでなく、一時間でも働けば恵みを受ける。あるいは婚礼も立派だから招かれたではなく、たまたま招かれたというか、恵みを得ているからこそ恵みに応えて、わたしたちは生きているように呼ばれていると言えるでしょう。

三つ目のたとえ話はマタイ13:44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」ここも天の国になっていますが、神の国ということです。神の国は、畑に隠されている宝のようなものだと。おもてに現れていないというか、さっきの婚礼のたとえ話しのように隠されているから、価値に気付いていないようなそういうものである。だから畑に隠された宝のようなものだと。昔はそうなんです。今みたいに銀行や貸金庫があるわけではないから、大きな物は畑に埋めるんです。それはよくあったみたいで、ただこっそり埋めないとだめですけれど、場所を覚えておかないとまただめで、どこに置いたか分からなくなるわけで、だから神の国の本当の宝は隠されているわけで、この人は何のために隠されたか分かったのか不思議です。隠されている宝がなんで分かったかという理由も、このたとえだけでいったら不思議ですけれど、何らかの形で招きというか、呼びかけというか、感じるところがあったんでしょう。自分で一生懸命探して見つけたというよりは、何らかの形でそこに招かれたようなものかもしれない。宝探しはする必要はなくてむしろ呼びかけられて、招かれていると感じたのでそれでこの人は「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」たぶんもう自分が持っているものを売り払って畑を買う。ちょっと外れていたら大変だったでしょうけれど、でもそこに何か自分にとっていいものがあるということを感じたので、そこで畑を買うようなそのようなものであるということです。こちらはもうちょっと積極性が出てきて、自分の持っているものを売ってでも、神の国のお恵みを得るだけの価値がある。そのようなものに気付いたと思います。だからそれがここでいう新しい生き方に、もっと繋がっていくというものであると思います。マタイ13:45「商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」一つの真珠を買うために、持ち物全部売り払うわけですから、それだけの価値があると思えない限り買えないでしょうけれど、神の国を生きるということは、高価な真珠を買うぐらいの、大きなお恵みであるというわけです。そのようなものにわたしたちは見つけることができたら、素晴らしいことではないかと思います十

 

2016 年 5 月 23日(月)
 第 六 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記