カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-09 入門講座 4 赦し

英神父 入門講座 4 赦し

 前回はイエス様のメッセージがどういうものであるか、ということを少しやりました。根本的なのは思い煩わないということです。わたしたちが様々な生活上の捕われとか、思い悩みなど色々あると思うんですが、大事なのは神様の恵みが十分注がれているので、まず神様に信頼することによって、思い煩いを置いて生きていこうということを前回お話しました。図で描くならば、神様がいてわたしたちがいて、いつもわたしたちに豊かな恵みを与えてくださっている。だからわたしたちの方も神様に対して、信頼の心をもって、歩んでいければいいとお話しました。そして神の恵みという事でもいろいろあるわけです。イエス様を通して現れてくる。前々回では癒しも神の恵みの現れですけれども、癒しだけでなく、様々なお恵みがわたしたちに与えられていますが、その一つは赦しなんです。わたしたちの罪を赦してくださるというのが、恵みの中の大きなポイントなので、今日はそのことについて特にお話したいと思います。ヨハネによる福音書の8章1節「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」ヨハネの福音書はマタイ、マルコ、ルカと設定が違っています。この時はオリーブ山に行かれたということで、エルサレムの周辺でのお話です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書といって、そちらはまだガリラヤにいる頃なんですが、8章なので地理的な状況が変わっているところです。ヨハネの8章では、イエス様の活動の前半の頃になるお話です。オリーブ山に行かれた夜、オリーブ山というのはエルサレムの神殿の、東側にある小高い山ですが多分、エルサレムの神殿にお参りに行った時は、オリーブ山のふもとでイエス様は野宿していたんだと思います。今の人と違って、体は健康だったんじゃないかと思います。一晩泊って翌朝「朝早く、再び神殿の境内に入られると」神殿の境内は、イグナチオの庭の比ではないくらいものすごい広いんです。そこで教えを説いたりお祈りしている人もいっぱいいたでしょうし、いろいろなかたちで使うことができたのでしょうが「民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。」青空教室のようですごく広いところなので、何人来てもなんの問題もなくそこに座って教えておられた。どういうお話をしたかは書いていないですけれども、恐らく神様のお恵みのお話をされていたのではなかろうかと思いますがそこへ「律法学者たちやファリサイ派の人々が」来たんです。これがイエス様の敵対者、大きく対立している人たちなんです。ユダヤ人にとって最も大切なものは何かといったら、この律法という法律なんです。最初の旧約聖書はユダヤ教と共通している聖書ですけれども、彼らの根本は、神様からいただいた十の掟というところから派生した、律法を守っていけるということが大事だったんです。ただ生活上の細々したところが、律法に適っているかどうかというのは、専門家が判断しないと分からないわけで、それで律法学者というのは権威があって大事な存在だったんです。イスラム教もそうで、いわゆるカトリックでいう神父様はいないんです。イスラム教で一番力があるのは、イスラム法学者、法律解釈をするというのが一番大事になるわけです。ユダヤ教で一番大事なのが律法学者、いまだにチーフラビというのがいます。世の中は変わりますから、これはして良いのか悪いのか、専門家が決めてもらわない限り分からないわけです。そういう意味では、今も昔も律法学者はとても大事だったわけです。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中では真面目グループなんです。律法を真面目に守ることによって、信仰生活をきっちりしましょう、という真面目グループなんです。でもイエス様の時代は、行き過ぎている人たちもいて、律法を守るというのにあまりに捕われ過ぎていて、イエス様の方が神の恵みを生きるということを、強調していたわけです。掟を考えすぎると、神の恵みから律法が来ているから、悪いものではないんですけれども、神の恵みから来ているというのを忘れちゃうと、法律を絶対化してしまうと、どこかずれてしまう。それでイエス様と律法学者たちと対立したんです。その人々が「姦通の現場で捕らえられた女を連れて来」たということなんです。姦通という言葉はあまりに古い言葉ですが、いわゆる不倫ということで、結婚している人以外と、関係を持つということですが、どの文化でもそうですけれども、長い間大いなる罪だったんです。だいたいどこの文化でも死刑だったんです。日本は江戸時代まで不倫は全部死刑。昔は家族単位で生きていましたから、家族の信頼関係を壊すようなことは死刑なんです。各国も70年代までは死刑だと思います。ユダヤ人は男も女も死刑と決まっていたんです。旧約聖書ではレビ記の20章とか、申命記では22章22節にあります。ユダヤ人の法律はただ死刑だけではなくて、石打ちで殺すという死刑だったんです。みんなで石を投げて殺したという、死刑でもいろんなランクがあって、一番重いのが十字架刑なんです。いろんなランクがある中の一つは石を投げて殺す。この人は現行犯逮捕でしたから、だから 言い訳不可能ですよね。冤罪というのはこの場合はないわけでイエス様に言うわけです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」というんですが、これは明らかに「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。」本当に正義を実現したかったわけではないでしょうけれども、これはなぜかといったら、イエス様はモーセの律法に従って死刑にしていいと言ったら、恐らく神の恵みの世界とイエス様の話がずれてくるというということもあったかもしれない。あるいは死刑にするとは言いにくかったかもしれない。ローマ提督しかユダヤ人を死刑にすることができなかった。そういう意味もあって難しかった。死刑にしなくていいというのは律法に反してますから、それはそれでまた訴えられる。どっちを答えても難しい状況の中に置かれたわけです。そしてイエス様はみんなが想像もしない態度をとった。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」突拍子もない態度をとったわけですね。だいたいひっかけられている時には全然違う答えをとるというのは一つの方法かもしれないですけれども。聖書解説者も何を書いてらしたか散々議論してます。一番意地悪な解釈は、人類の罪のリストを書いていたという。良い解釈は憐れみの詩編を書いていたという。「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」という問いがそこにいた人々に投げつけられた。「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしま」うという。多分みんな恥ずかしくなったんだと思います。なんで立ちさざるを得なかったのか。そこに人間の罪が潜んでるというか、律法を守る正義というのは大事ですけれども、わたしたちが日常生活を生きていく上で大事なのは、正義とか法律が必要なのは間違いないですが、でもイエス様が法律を守るか守らないかよりも、もっと注目していたのは、たとえば律法学者は律法を守っていたわけですけれども、その法律を守っていながら心の中にある、もっと人間の中にある醜い現実、姦通の罪を犯すのは醜い罪ですけれども、でも正義を振りかざしている人の中にも罪はある。石を投げようと思っていた人は石が、自分に返ってきたみたいな感じですね。人の事と思ったら、自分の問題になってしまったということです。現代は石を投げて死刑にするということはないですけれども、ネットで誰かを叩く。正義の名の元に石を投げる。それは正義感からやっているのか、人を蹴落すのを喜んでいるのか、どっちか分からないところが現代でもあります。石打ちの刑というのが見せしめ刑というわけで、みんなで石を投げるということを、一種のお祭りみたいに、みんなでやっつけて喜ぶみたいな気持ちがあったのは想像つきますけれども。ネットで誰かを血祭りにするのと、構造的にはよく似ている。しかも正義を振りかざしてやるところが、人間の醜さみ、人間の罪深さを感じます。わたしたち人間の心に潜む恐ろしいことかもしれません。イエス様が「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」自分の投げた石が自分に返ってきたわけです。自分も石を投げれる資格がないぐらい。公にはなっていないかもしれないけれど、様々な罪を犯しているということを気付いたわけです。歳をとっている人はたくさん罪を犯していたから、年長者から段々と帰ってしまったというわけです。イエス様の言動というのは、人間の罪のような醜いものも暴かれているという感じがします。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』 女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエス様は罪に定めない。これが恵みの中の一つの赦しですね。イエス様は正義をふりかざすよりも、むしろ私たちに対して赦しを強調している。赦しということは、悔い改めということも当然入るわけですけれども、この女の人は最後に罪を犯してはならない、と言われるわけですが、どう考えても罪を犯すことはなかったと思います。死刑になるのは分かってやっていたわけだから、捕まった時点で、自分は殺されると分かった。でもイエス様に出会ったことによって、赦されることになった。ここを読んでいつも思うのはドスト・エフスキーのすごく長く難しい小説で、日常生活で使わないような言葉が出てきますが、小説で一番大事なことが出てくる。何かと言ったら神の赦しなんです。ほとんどが神の赦しのことを書いている。それはおそらく彼の経験からきているのではと言われています。大天才で、基本的には性格破綻者で大変な人生だった。若い時、当時は帝政ロシアだったんです。王様がいて、今でいう反政府活動、学生運動みたいなことをやっていて、反逆罪で全員逮捕されて、死刑宣告を受けるんです。死刑執行所に連れていかれて、当時は銃殺刑だったんです。鉄砲を突き付けられて殺される寸前までいったんです。でもそこで皇帝から使者が来て、恩赦になって、死刑を免れて、監獄に送られる。だから今の解説では元々皇帝は殺すつもりは無かったけれども、脅しのためにやったのではないかといわれています。銃の筒まで向けられて、死を覚悟した瞬間に恩赦が下るということを経験して、それが彼の中の神の憐れみの赦しの原点にあるのではなかろうかという人もいます。監獄に行って、スリとか泥棒とかとばかりと付き合っていて、そういう彼の小説に監獄で出会った人が出てくるんです。そしてこの石打ちの女の人も、ドストエフスキーも、罪を犯して死を覚悟したと思うんです。罪が執行されずに赦されたというのは、人間経験としてもとんでもない事だったと思います。それぐらい印象的だったから載っているんだと思います。わたしたちはこのように神様から赦されている。わたしたちは何らかの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が」赦されていることが大いなる恵みということです。遠藤周作の「わたしのイエス」という本で、誰がキリスト者に相応しいかというと、夜中に目が覚めて、過去の自分の失敗とか後悔とかが蘇ってきて、天井を見ながらため息をつくような人が、クリスチャンに相応しいと書いてあるんです。遠藤周作なりの表現ですけれども、やはり赦されている。そのような過去があったとしても、それが赦されている喜びです。だからクリスチャンの基本の一つは、赦されている喜びというか自分の罪が赦されていることを知っている人でしょうか。そこに大いなる慰めのようなものを感じるのではと思います。わたしたちもイエス様を通して神から来るものは、一つは赦しであるということです。

別の箇所では、ルカによる福音書7章36節、罪深い女を赦すです。「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。 そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われると、シモンは、『先生、おっしゃってください』と言った。 イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』 シモンは、『帳消しにしてもらった額の多い方だと思います』と答えた。イエスは、『そのとおりだ』と言われた。 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。』 そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。 同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。 イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」この箇所はガリラヤ地方のお話で、先ほどとは少し地理的に違うんですが、繋がっているようで繋がっていないかもしれない。イエス様がファリサイ派のシモンという人の家に一緒に食事をしたという。この人はファリサイ派だからものすごく真面目な人で、その人と一緒に食事をしていた。イエス様はファリサイ派とか律法学者とかを毛嫌いしていたわけではなく、付き合いはあったわけです。そこで食事をしていたら37節「この町に一人の罪深い女がいた。」伝説的にはこれはマグダラのマリアではないかといわれています。みんなが知っているくらい罪深い女だということでした。ここを読んで一つ思うことは、この女の人は何で非常識なのかというふうにいつも思うんです。人の家に勝手に入ってきて「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め」た。考えたら椅子に座っていたらできないんです。椅子に座るというのは王様か皇帝とかものすごい位が高い人しか椅子に座らなかったというわけです。だから司教様の「司教座聖堂」は関口教会、カテドラル。カテドラルというのは椅子があるという意味で、つまり司教様の椅子があるということが「司教座聖堂」ということなんですけれども、椅子というのはそれだけ高貴な人しか座るもんじゃなくて、みんな地べたに寝転がって食べていたんです。寝転がって足を投げ出して寝ていたから、足に涙をこぼすことができたということなんです。わたしがもしイエス様だったら耐えられない。女の人が勝手に家に入ってきて自分の足に涙落として、髪の毛を拭うんだからどう考えても気味が悪い。しかも真面目なシモンの家で食べているんです。わたしなんかすぐにシモンに言い分けして、この女の人とは関係ない、誤解しないでくださいと言うのはまず間違いないと思います。ここはさすがにイエス様だなと思います。この女の人が明らかに非常識なのは間違いないけれども、そこに捕らわれないで、その人の心をとらえておられるところがすごいと思います。ここではファリサイ派のシモンが言うのは正しいと思うんです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」汚れている女性に触れるということは、ファリサイ派から見たらそれ自身が罪なんです。触れるのは涙の一滴もいけないんです。真面目な人だったらともかく、町一番の罪深い女の人が、涙とか髪の毛とか足に接吻してとか、絶対したらいけないんです。女の人もルール違反で、それを受けるのもルール違反で全くだめなんです。ユダヤ人が食事する時にどれくらい手を洗って食べるか。食事の席は汚れていたらだめなんです。イスラエル巡礼へ行ったらレストランへ行くと入口に手を洗う所があって、手を洗っていないと入れないんです。普通のユダヤ人はしないけれど、真面目なユダヤ人はそのようにして席についているところで汚れた女性に触れられたら、食事の席そのものがだいなしというくらい、大騒動の出来事だったのは間違いない。律法とか正しく生きるとかにも捕われていないんです。どちらかといったら、神様の赦しと恵みの世界に軸足があると思います。それでイエス様がシモンに言うわけです。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。」一デナリオンはだいたい一万円計算、レートが変化しますから、五百デナリオンは五百万円。五十デナリオンは五十万円金貸しから借りていて、帳消しにしてもらったらどっちが喜ぶかといったら五百万円です、というふうに言うわけです。44節から女の人はこのようにしてくれた、ということをおっしゃる。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが」これは実はとても失礼なんです。シモンの方が失礼なんです。足を投げ出して食べるから足を綺麗に洗わないと本当は良くない。椅子に座っていたら足が見えないからどうでもいいけれども、地べたに座って横になって食べているんだから手が汚いのは致命的なんです。本当の食事はちゃんと足を洗う水を出さなければならない。シモンがそうしていないということは、少しイエス様を大切にしないというか、この食事の席そのものが元々変な雰囲気というか、お客さんを迎え入れていないんです。ここからもう変な雰囲気だったんです。「あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが」今のヨーロッパ人と同じで親しみのしるしですから、これもしなかった。最初からこの食事の席はおかしかった。この女の人は非常識だったかもしれないけれども、涙を流して、悔い改めの姿勢をイエス様に、言葉よりも行いで示したわけですから、それはイエス様にとって、それは何よりの真心なのは間違いないわけです。見ている人は全然違いますから。これでいうとわたしたちが赦しのお恵みを受けているとしたら、わたしから神様に何かといったら、何らかの悔い改めです。悔い改めの心。簡単に言ったら、ごめんなさい、という心を言葉か態度で示す。この女の人は非常識だけれども、これがはっきりあらわれていた。だからイエス様は喜んで彼女の心を受けとめたわけです。イエス様に対して素直にごめんなさいとか悔い改める、ということを言ってもらったらいいと思います。赦しのポイントはイエス様の話の通りなんですけれども、借金を帳消しにしてもらうということなんです。借金というのがヘブライ語では罪と同じ言葉なんです。罪を犯すということは、神様に対して借金があるんです。借金がある人はどうすればいいかといったら返済しなければならない。これは普通の考えで、律法とか正義にのっとっていったら、法律違反したら罰金払うか懲役刑か、日本だったら死刑判決があるんですが、それは借金だから償わなければならないんです。返済しなければならない。それが正義の考え方で、わたしたちは当たり前の事を普通に考えているわけです。でもイエス様の赦しは帳消しなんです。つまり恵みによって帳消しにしてくださるのが、神の赦しの本質なんです。帳消しにするとは、正義に適ってないんです。正義というのは、これだけ何かしたら、それに見合う何かを支払うというか懲役刑で何年とか。そうじゃないところに赦しの恵みがある。わたしたちの方からごめんなさいと言うだけ、態度で示すだけ、それでオッケーだということです。ここに神の赦しの凄さがあるということです。帳消しにしてくれるから先ほどの姦通の女も、全く償いなしにで罪に定めないとイエス様がおっしゃって、それでオッケーになるわけです。だから先ほど言ったようにわたしたちは、赦されている恵みはどれほど大きなものかということです。50節「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」信仰の中に悔い改めが入るわけです。わたしたちがイエス様を信じるということの中に、信頼ということも入りますけれども、加えて神様にごめんなさいと。自分の罪を悔い改めるという事も信仰の中の一つのわたしたちの態度だということです。だから素直にごめんなさいと謝ることは大事。神様からは赦しをくださるわけです。償いなしの赦しを与えてくださるわけです。ただとか無償というか。だから神の恵みは無条件、無償で赦してくださる。その赦しの恵みをわたしたちは生きている。それを47節「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」だからこの女の人の態度は悔い改めるけれど、愛するという態度でもある。多く赦されたから多く愛することができると思います。つまりここは難しくて、前の口語訳は多く愛したから多く赦される事ができる。それだと条件が付いてしまう、多く愛するから多く赦される。赦しが先だから、本当は多く赦されているから、多く愛することができる。赦しだけなんです。恵みの方が先で、恵み、赦し、癒し、が先行しているんです。それに対してわたしたちは応答として、悔い改めをしたり、信頼したり、あるいは感謝したりすることはわたしたちの信仰になる。48節「そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」罪の赦しを宣言され、これができるのはイエス様だけです。秘跡の中では神父様が、イエス様の代わりに罪の赦しの宣言をするんですけれども、イエス様に権威があるから、司祭が代わりにやるんです。司祭に権限があるわけではないわけです。49節「同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。」これはそうだと思います。この時イエス様が誰なのかはよく分からなかった。ファリサイ派とか律法派とか法律学者が出てくるんですけれども、これはわたしたちの捕われの世界の一つの話なんです。思い煩いは正しさとか律法とか、そういうものに捕われているというところが、人間の苦しみ生んだり、正義の名によって人を傷つけたりという世界が生まれてしまう。神様の世界に触れて生きるのは、神様の慈しみが赦しや癒しをいただいて、そこにポイントを置いて生きているということなんです。そのように思うと聖書のことがいろいろ分かってくるところはあると思います。前回触れたところでルカ6章37節ここは赦されているという観点から見ないと分からないんです。「『人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。』 イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、〈さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください〉と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。』」こういうところは難しくてできないんです。人を裁くな、と言われても、ついつい裁いてしまうわけですが、何で裁かなくていいかといったら、やはり赦されているからです。自分が赦されているからこそ、人を裁かないような観点に立つ事ができる。赦しなさいと、だから赦されているから、赦すことができるわけです。自分が赦されている点に立たないと、赦しとか裁かないとかができない。わたしたちは正義とか律法とか、ある意味自分なりの枠の中でこうすべきだで、物事を考えがちです。もちろん社会ルールは必要で、会社や学校、家庭なりの法則は必要ですけれども、神様は赦されている存在として、自分自身をみて、そこから裁かない観点を、あるいはこの赦しを与えられるようなポイントを見つける事ができるようになると思います。41節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかない」かといったら、自分の枠組みで考えて、自分にもまずいところがあることに気づかない。赦しの気持ちがあり、赦されているとか、悔い改めることがないと、なかなか丸太には気付けないと思います。悔い改めて丸太がとれる事によって、わたしたちは本当に見えるようになって、相手のおが屑もとれるというわけです。なかなか難しいことではあるけれども、神様の恵みの中でできるだろうと思います。御夫婦とかからいろいろ聞く機会がありますけれども、上手くいく夫婦かなと思えるのは、喧嘩したあとに、自分もちょっと悪かったかな、と思える人は修復の余地がある。ある意味悔い改めの気持ちが自分の中に、少々あれば動いてくる余地がある。難しいのは、相手が間違っていて、自分が正しいところから動かない人は難しい。夫婦喧嘩のあとも、相手が全部悪くて、自分は全く悪くないから、相手を攻撃しているだけでになる。すると自分だけが悪くなくて、相手が悪いという視点に立っちゃうと、結局何も変化しない。何も動かないままで、丸太もおが屑もそのままの感じです。悪かったなというのが一つでも思える人は、関係が変わってくることがある。赦しの対概念は悔い改めですけれども、悔い改めと赦しはセットで、そういう気持ちがあるとどこかで何かがほどけてきたり緩んできたり、ちょっと受け入れるスペースがでてきたりということは、一般論ですがあるように思います。だからごめんなさいというのは、変にネガティブな意味での悔い改めではなくて、赦されている喜びの中での悔い改めですけれども。なかなかニュアンス的には難しいですが、そういう時に変わってくるところがあるのではないかと思います十

 

2016 年 5 月 9日(月)
 第 四 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記