カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-16 入門講座 5 召し出し

英神父 入門講座 5 召し出し

 今日はイエス様が最初の時になさったことですが、弟子をつくる、キリスト教徒では召し出しというんですが、そこを見たいと思います。イエス様の弟子になるというのはどういうことなのか。マルコによる福音書1章16節「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」マルコ1章16節、一番最初の頃ということです。14節からガリラヤで伝道活動を開始するんですけれども、イエス様は最初から弟子をつくったということです。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。」ガリラヤ湖というのはイスラエルの国の北側の方の湖で、イエス様は初期の頃、だいたい湖のほとりで活動された。「歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」イエス様の方がシモンとアンデレの姿をよくご覧になられた。そして「わたしについてきなさい」とおっしゃたんです。日本人の普通に弟子になるのと、聖書の世界の弟子になるというのは、根本的に違うんです。お稽古ごととか芸事とかは、有名なお師匠さんに習うのはすごく大変で、弟子入りを願うのは大変で難しいです。座禅道場などに入れてもらうのは大変で、三日ぐらい座禅して、熱心さを示さないと入れてくれない。だから弟子になるというのは簡単なことではない。よほど頑張るか、よほど示さないとなかなか弟子入りできない。弟子への召し出しになるんです。神様からが先なんです。人間の方がこたえるのは、聖書の人間感そのものでもあるし、何かをするという時も、神様の呼びかけが先にくると考える。わたしたちが弟子になりたいのではなくて、イエス様が弟子にしたいということ、ここから始まるということが、わたしたちの考え方の転換になるのです。旧約聖書もずっとそうなんですけれども、弟子になりたいと言って弟子になった人はほとんどいないんです。たとえば王様とか預言者とかは召し出しなんです。神様の方が召し出して、王にする、預言者にする、あるいは弟子にする。神様の望みや計画が最初にあって、人間はただこたえるだけであるということです。このような発想の仕方が大切なんです。召し出しの考え方からしたら、この講座に来ている方も神様から呼ばれたから来たんです。信じられないかもしれないけれど、自分の意図で来たわけではない。若者の就職活動でも何をやりたいか出発する。自分の望みから明確にする。キリスト教徒的には、神様があなたに何を望んでいるのか。どういう仕事をさせたいか、と思っているのかと考えるところから始まるんです。神様が、召し出すということが基本なんです。「イエス様がシモンとアンデレをご覧になった。」その後はヤコブとヨハネに対してもご覧になって、わたしについて来なさいとお呼びになった。全体的にイエス様はシモンとアンデレの何をご覧になっていたのか。何かに入るのは試験でも、弟子入りでも大変ですが、たまにもの凄い才能の人がいる。いわゆるスカウトマンという人が野球でも光る原石みたいな人を探して、高校、大学野球にスカウトをする人。そこが腕の見せどころなんです。街を歩いていて、モデルやタレントの素質がある人を見つける。だけどシモンやアンデレのどこを見たか。大いなる謎なんです。聖書全体をみてもそれほど立派な人ではない。凡庸な感じの人なんですけれども欠点も多い。それでも弟子になる。ものすごい才能があって、この人を是非弟子にしたいと思ってしたようには思えない。それがイエス様の召し出しの不思議なところなんです。どうして弟子になるように呼びかけるのか。わたしについて来なさいとおっしゃったので、しかも人間をとる漁師にしようというわけです。職業まで変えてしまう呼びかけであって、「それを聞いて彼らはすぐに網を捨てて従った。」常識的に考えて一回目に会って言ったとはあり得ないと思います。突然仕事している時におじさんが来て、「わたしについて来なさい」というのはあり得ないと思います。何回かあったんだと思います。呼びかけられて、自分の仕事を辞めて、弟子への召し出しというのは、人間を獲る漁師に変わるという大転換が入っているんです。もちろん洗礼を受ける時に仕事を辞めなさいというわけではないけれども、でも生き方を変える呼びかけではあることは間違いないです。魚を獲るという象徴的な生き方から、イエス様に従って人間を獲る漁師になる生き方に変わることであるわけです。週に一回お稽古事にいくというのと話しは違う。召し出しというのはもっと根本的なことであるということです。「すぐ」と書いてありますが、すぐではないような気がします。どうしたかといったら「イエスに従った」ということです。まず召し出しということはイエス様の呼びかけが大事なんだと。「ついてきなさい」とか弟子になりなさいとかいう呼びかけがあって、これが一番大事なんです。それで、どうしたかというと、シモン、ペトロのことですがアンデレと「二人はすぐに網を捨てて従った。」二番目を聞いて従う。その代わり何かを捨てて。イエス様に従うということは、全然違う生き方をするということです。それが従う、網を捨ててということです。イエス様に従っていくためには、何かを捨てるなり、何かを置くなりをして従うということ、生き方の転換みたいなものがある。そういう呼びかけなのです。それにこたえるかどうかということがわたしたちに問われているわけです。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ゼベダイはお父さんの名前です。当時のユダヤ人は名字が無いんです。日本人も以前は名字がある人は少なかった。名字の代わりにあるのが~の子、お父さんの名前の子供のなんとかというような感じだったんです。今はユダヤ人には名字があります。これはゼベダイ、お父さんの子であるヤコブということで、ヤコブとかヨハネとかあまりにいっぱいいて、それだけではあまり識別できなかった事もあります。これがたとえば英語だったら、たとえばジャズピアニストのオスカー・ピーターソンという人のピーターソンはピーターの息子という意味です。つまりペトロの子供という意味。あとバンドエイドのジョンソン・エンド・ジョンソンのジョンソンはジョンの息子。ジョンはヨハネです。だからヨハネの子供がジョンソン。ハーレーダビッドソンはダビドの息子となる。みんなユダヤ系だと思います。名前がそのまま名字になっているということです。アイルランドが一番名前が残っています。そして彼らも同じです。「舟の中で網の手入れをしているのを御覧になる」と、どうご覧になっていたかなと思います。どのように考え、何を見ておられたか。彼らがお呼びになった。召し出す、呼びかけということです。それを聞いてヨハネとヤコブは「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」家族を置いて、仕事を置いて、イエス様の弟子になった。大いなる決断だったと思います。このあとイエス様は何年かに渡る宣教旅行へあちこち行かれた。その時に十二人の弟子たちと旅行するわけです。仕事をしたのか分からないですが、全然生き方が変わった。そういう形で何かを捨ててイエス様に従う。わたしたちも一つは呼びかけであるということと、呼びかけを聞いたら生き方を変えていく。どのようにかは一人一人違うと思います。多くの人は仕事を辞める必要はないと思いますけれども、自分にとっての捕らわれとか、執着とか何かを捨てて、イエス様に従う生き方に変わる必要はあると思います。
その後、召し出しの所でマタイ1章29節「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」ここは癒しの話なので、弟子にするとかは関係ないように思うんですけれども、でも関係あると言われているんです。今のところ四人の弟子をつくって、21節で「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」シナゴーグ、ユダヤ人の礼拝堂で話ましたが、その後で29節「一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。」カファルナウムの中の会堂のすぐそばだったと思うんです。カファルナウムに遺跡があって、シナゴーグが残っているんです。シモンとアンデレの家があって、ここがその場所だといっているんです。歩いてすぐの所なんです。ヤコブとヨハネも一緒だったと。シモンの姑、シモンの奥さんのお母さん、「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」病気が何か分かりませんが、聖書的には寝ているというのは良い意味ではない。「人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされる」癒しの業が行われたんです。触れて起こされる、立ち上がることで、治るという意味もあるんです。「熱は去り、彼女は一同をもてなした。」元気になったので今度は一同をもてなす側になった。このもてなすという言葉は奉仕するとか仕えるという言葉なんです。ギリシャ語でディアコネオというんですが、ほとんどの訳が仕えるとか奉仕するとかに訳されているんですが、女性の場合だけ、もてなすという言葉を使って、これは差別ではないかと言われている箇所でもあるんですが。イエス様の恵みを受けた人は、今度は奉仕する側になった。仕えるものになったというわけです。イエス様の弟子の三番目のポイントは何かといったら仕える、あるいは奉仕するということです。イエス様がマルコ10章45節「人の子は仕えられるためではなく仕えるために」来たと、もてなすは同じ言葉なんです。イエス様自身が仕えたり奉仕するために来られたので、弟子たちも仕えたり、奉仕したりするために呼ばれている。イエス様の呼びかけを聞いたり、あるいはイエス様の癒しを受けたり、赦しを受けた人もそうですけれども、結局イエス様に仕えたり奉仕したり呼びかけられている、というのが弟子のあり方です。イエス様の恵みや呼びかけ、癒しや赦しをいただいたものが、イエス様に従い、人々に仕えるものである。これが弟子になるということの基本的な形であるということです。召し出しに関することですがマルコ2章13節「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」レビという名前は、一説にはマタイであるとも言われています。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて」レビが徴税人だったんですね。税を集めていた。だから収税所に座っていたんですけれども、度々聖書に出てくるのは、この徴税人というのは完全に嫌われていた。罪人の範疇に入っていた。ただ税金を集めるだけでなくて、ローマ帝国の税金を集めているから、国を売った人たちと思われていて、しかもピンはねをしていてお金持ちだったんです。宗教上の問題もあったし、経済上の問題もあって、非常に嫌われていた。罪人で金持ちだというので嫉妬の気持ちがあって、徴税人というだけで、もの凄く嫌われていた。イエス様はそういう人を見かけて、わたしに従いなさいといって、弟子にしたわけです。「彼は立ち上がってイエスに従った」収税所で座っているということですが、聖書で座っているのは中途半端に迷っているのを表して、立ち上がるというのは良い意味なんです。なんで声をかけられてすぐに従ったか分からないですけれども、何か彼の中にあったのかもしれない。幸せではなかったかもしれない。レビはお金をもうけているけれど、差別を受けて心の中に満足があったかどうか、というのが大いなる疑問で、かなりなかったんではなかろうかと思います。それでイエス様に声をかけられて、立ち上がって自分の生き方を変えて、イエス様に従おうと、そういう気持ちになったんではなかろうかと推測されます。その後にレビの家で、レビの家で宴をして弟子たちと「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」とやっぱり罪人は罪人同志の友だちなんです。類は友を呼ぶとか、だいたい友だちは似たような友だちなんです。徴税人は迫害されてますから、まともな友だちは付き合ってくれない。だから徴税人や罪人と食事をしていたんですけれども、「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」これは大問題なんです。ファリサイ派や律法学者は超真面目な人たちだから、彼らが罪人と食事をするというのがあり得ない。一緒に食べたファリサイ派や律法学者が汚れてしまうから絶対しない、真面目なユダヤ人から見たら、それ自体が衝撃です。レビは金持ちであったでしょうから、豪華な食事が出たんじゃないかと思いますけれども、それに対してやっかみがあったかもしれないけれども、ファリサイ派や律法学者は真面目だから、あまりお金持ちではなかったと思います。それがスキャンダルで大変な問題だったと思います。弟子たちは漁師とか差別されている側だから、そんなにも気にしなかったかもしれない。そこでイエス様は有名な言葉を言われる。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」はっきりと罪人を招くためだと書いてある。イエス様の招きの基準は、罪人である人を招いている。罪人を招くためとはっきり書いてあるんです。たとえばイエス様の弟子の募集要項だったら、どういう資格の人がといったら、罪人であること、ただこれだけなんです。だからヨハネとかペトロとか立派でない人をあえて弟子に選んだんです。優秀な人を選ぶんだったらもっと能率効率よくいくところなんですが。罪人を招くと書いてあり、招かれるのは罪人だけなんです。基本は罪人を弟子に召し出すんです。はっきりしていて、そう書いてあるわけです。みなさんは罪人だから洗礼を受けておられる。洗礼を受けておられない方は、講座に罪人だから招かれている。だから洗礼を受けるのにふさわしい人だということです。さっきのスカウトと全く違うんです。有能な人や将来性のある人をスカウトする。イエス様は全くそんなことを考えていなかった。むしろ罪人を自分の弟子に招いた。だからレビもそうです。わたしたちは罪人だから招かれている。罪人を呼びかけたり、病気の人を癒したり、罪人の人を赦したりして、弟子に招くことがイエス様の基本的な考えで、それがわたしたちにも変わっていないということですから、世間のイメージはクリスチャンというのは真面目で品行方正でとある。でも招かれているのは罪人であるということだから、真面目でなくても、品行方正でなくても、何でなくてもいい。つまり罪人であることが条件だということです。呼ばれているのが罪人だということを意識した方がいいと思います。マルコ3章13節で「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、〈雷の子ら〉という名を付けられた。 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」ここで十二人を選ぶという、弟子に選ばれる人は罪人であります。いろんな人たちがイエス様に従ってきたんだと思います。「そして、イエスは山に登って」海はどちらかというと世俗の世界で、罪の世界の象徴なんですけれども、山というのは神様との出会いの場なんです。だから大事な時には山に登るということが地理的にはあるんです。だから十二人の弟子を選ぶのは大事だったことでわざわざ山に登る。「これと思う人々を呼び寄せ」かなりいろんな人が来たんだと思います。その中で「十二人を任命し、使徒と名付けられた。」十二使徒という形で、イエス様と共に活動する。いわば側近の人々が決まるわけです。わたしたちも使徒であるということです。弟子であり、使徒であると考えてもらったらいいと思う。使徒とは何かというと、普通に言うと、使者とかメッセンジャー、あるいは代理人みたいなものになって、本人が行けないから、メッセンジャーの人を送ったりするわけです。あるいは全権を受けてどこかへ行ったりする。全権大使ともいえる。日本の首相の代わりに大使が全権委任されて行くとか、国の代表として行くわけで、使徒にあたるわけです。あるいは使者とか代理人という意味もありますけれども、だからイエス様が行けない所にその人が行って、いわば全権委任から代理人にしてやることが、使徒の役割になるということです。なんで十二かというと、一グループではそれぐらいがちょうどいいぐらい、一つの共同体になるのは10人ぐらいなら親しくなれる。30人になると親しみが難しくなるから、そういう意味で12人なんだろうなと思います。イエス様は自分だけでやるのではなくて、弟子の共同体を作って共に働いた、というところが大事なんです。だから一人一人召し出されるんですけれども、グループにも召し出されるんです。共同体に召し出されるというのがかなり大事なことです。だから十人前後だからお互いのことをよく知り合ったり、一緒にご飯食べても一つのテーブルで囲めるようなというニュアンスがあって、だからこれが発展したのが教会なんです。グループで弟子なんです。一人だけで弟子でなくてグループである。それが大事なことで、神様と一対一ではなしに、周りと繋がりがあるということが一つのポイントなんです。もう一つは十二というのがユダヤ人にとって完全数。イスラエルの十二部族といって、十二となっている。だから十二人を選んだということは、ユダヤの十二部族に代わる、新しい十二部族というニュアンスがあったと思います。いろんな意味で十二という人数で弟子を選んだんだろうと思います。何のために選んだかといったら、一番目が「彼らを自分のそばに置くため」で共同体の繋がりということです。イエス様もお一人でお祈りしている事も多かったけれども、グループ行動なんです。イエス様のそばにいる、一緒にということ、これは現代では共同体的な繋がりの中にイエス様がいらしたし、繋がりをもって生きていけるように、わたしたちが弟子として生きるように呼ばれているということです。神学者がいうんですけれども、人間の幸福を決めているのは自分に関わりのある10人の人の関係が、その人の幸福を決定的に決めている。10人というのは家族プラス友人とか、だいたい10人ぐらいの人との関りがその人の幸せを決定的に決めていると言われています。逆に一人の人が深く関われるのは10人ぐらいということです。もうちょっと広く関われる人は250人ぐらいが限度だそうです。そばに置くというのは親密な関わりを持ちながらイエス様も弟子も生きていった。そして私たちもそのように呼ばれているということです。もう一つの使命は何かといったら、派遣して宣教する。遣わされるとか、イエス様は自分のところに来なさい、と言って召し出すんですけれども、派遣して全権委任を受けた使者として、つまり使徒としてイエス様は代理を派遣されるんです。ということはその後来るということです。だから悪霊を追い出す権能を持たせる、全権委任だから権能を持っているわけです。権能というのは固い言葉だけれども、恵みとか力とか、そのようなものをいただいて遣わされる。何も無かったらそれは無理でしょう。今の大使とかは任命状を貰って、ハンコを貰って決済出来るようなものを与えられているんでしょうけれども、そういうようなものとして、遣わされるということです。仕えるとか奉仕するということに繋がってくると思いますけれども、遣わされるということは、人々に仕えたり奉仕したりするように、イエス様の恵みをいただいて使徒として、奉仕したり仕える。人によっては場所も何も全然違います。
四番目はイエス様と共にいる。このあたりを従うというのと似ていますけれども、こうするために特別に十二人を召し出すわけですけれども、当然わたしたちもそのように呼び出されているし、遣わされている。わたしたち一人一人がいわば使徒として生きるように呼ばれているというのは間違いないと思います。洗礼を受けた人はこのような生き方に呼ばれていると言えると思います。では、遣わされた時どうするかと言ったらマルコ6章7節「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。 また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。』 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」これが具体的なところです。6章あたりで実際に派遣されるわけです。イエス様自身が付近の村を巡り歩いて、癒しの業を行っていたんですけれども、とにかく人手が足りないんです。十二人を全権大使として、汚れた霊に対する権能を受けて、そして二人ずつでイエス様がおっしゃったことを語ったり、イエス様がされた業をするようにと派遣されるわけです。わたしたちもそのように派遣されているわけですが、その際に条件がたった一つだけあって、8節以下基本は何も持っていかなくていいという「パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」電車にも乗れずどこにも行けないのに、お金ゼロでいいという。その代わりマルコの場合は、杖一本持っていいんです。履物は履いてもいいんです。下着は2枚着てはならない。下着は今の下着ではなくて、神父様が着るアルバ、カズラの下に着る、足の下までくるのがあれが下着なんです。あれが普段着で、寸胴の下着を男も女も着ていた。上着が何かと言ったら、神父様が上にかけているカズラ、ああいうものが上着なんです。ショールみたいに羽織るものが上着で、下着というのは自分が普通に来ている服の事で、今でいう下着は着ていなかったんではないかと言われています。シンプルな服装だったと思います。ともかく、簡単に言えば身軽になって行けと。仕えたりどっかに行ったり奉仕したりするのは、身軽でなんにも持っていかない方がいいというわけです。やはりなるべく身軽になって生きていくように、身軽さというのが物質的なものか、心の中の捕らわれなのか、いろいろあると思いますけれども、そういうものに身軽になって、そしてイエス様が行けという所に行って、奉仕、あるいは仕えるようなことをしていく。十二人は12節です。「 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」イエス様がした事を代理人として行った。わたしたちもまたイエス様の代理人として、使徒として、わたしたちに託されていることをするように呼びかけられているというのが弟子としての生き方ということです十

2016 年 5 月 16 日(月)
 第 五 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記