カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆このブログは、イエズス会の英(はなふさ)神父の公式サイトと連携しています☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2016-06-13 入門講座 9 祈り

英神父 入門講座 9 祈り

 今日は祈りということで、クリスチャンにとって祈りというのがどういうものなのか、それをどのように、どのような態度でやっていくかということを中心にお話したいと思います。ルカによる福音書10章21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」そのとき、とは「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」というわけですけれども、神様のエネルギー、神様の働きの力みたいな、そういう神の恵みが働くのをイエス様が喜びに溢れたという。イエス様の姿で、笑っているのがないんです。にこやかぐらいはあるけれど、苦しそうな顔は割とあって、笑っているのはほとんどない。聖書の中でもイエス様が喜んだというのはあんまりないんですけれど、ここでは喜びに溢れたということです。喜びに溢れてイエス様は何をおっしゃったのかというと、ここでお祈りが出てきます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」父よというんですけれども、イエス様にとって神様はお父様なんです。だから「父よ」という言い方になる。天地の主ですね。天と地を全てを支配されている。そのような神様に「父よ」と言って「あなたをほめたたえます。」神様を賛美するということで、思わず喜びに溢れて神様に賛美の祈りをささげた。祈りの基本は賛美することです。賛美ともう一つは感謝です。ここでいう聖霊ですけれども、神の働きを強く感じて感謝、そして賛美をささげる。それがわたしたち祈りの中心だということです。感謝の方はわりと日本人やアジアにはあると思いますが、賛美は弱い感じです。たとえば旧約の中で詩篇というのがありますが、150の詩編があり、半分以上は賛美するという。神様をほめたたえるというのが出てきて、ユダヤ教徒、キリスト教の伝統的な基本は神様をほめたたえる、賛美する。神様が素晴らしいのは当たり前ですが、神様をほめたたえる。だからカトリックは聖歌、プロテスタントは賛美歌というんですけれど、歌のほとんどは賛美です。神様を賛美している。あるいはミサの中の言葉でも多くの箇所は賛美の祈りです。聖なるかな 聖なるかなとかは。賛美が非常に多いので、賛美の祈りを心がけて意識されたらいいと思います。願いごとをささげるのは祈りの一つなんですけれども、でも願いをささげる以前にまずは神を賛美することが最大の祈りのかたちなんです。洗礼を受けている方に勧めるのは、朝と夜にどこかでお祈りをされたらいいことと、少なくとも朝の祈りは賛美するんです。神様をほめたたえるような、祈りや賛美の歌を唱えるだけで、気持ちがそれだけで晴れるというか、神様を賛美しているとだんだん喜びに溢れてくる。みなさんに強く勧めたいことですけれど、神様を賛美すればするほど気持ちよくなってきて、神様の力を感じられて、聖霊の喜びが溢れでてくるというのはあります。そういうのを心がけられたらいいと思います。なんで神をほめたたえているといったら、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ということでほめたたえるんです。問題は「これらのこと」は何をさしているのか。文脈でいったらルカ10:17「七十二人」イエス様に派遣され帰ってきて、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と喜んで帰ってきたんです。でもイエス様はそれを認めないんです。20「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」何を喜んではいけないかというと「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」どういうことなのか。名前というのは聖書の中では、神様の本質とか神様の実質的な力の現れという。だから名前があるということはそこにその人の存在そのものがある。その人の生き方そのものがある。「あなたがたの名が天に書き記されている」ということは、その人の本質そのものが、神様に受け入れられていると考えられます。だから喜んで神様を賛美するのは、これをやったから神様を賛美するより、自分の存在そのものは神様に受け入れられていることを感謝して賛美する。それは「知恵ある者や賢い者には隠して」とある。だから神様を賛美することは、学問的に考えてどうとか、理屈でどうとかではなくて、幼子のような心を持っていれば賛美の心がある。あるいは自分の存在が神様に向けられているというそのものを、神様に賛美できる。そういうような幼子のようなもの、といったんだと思います。この祈りということを考えてもそうですし、聖書に出てくる祈りとかと、信仰という言葉はほとんど同じ意味です。わたしたちが信仰を持って生きる。あるいは祈りを深めるということは、幼子のような心を持って生きるということです。だから神様をほめたたえるということは、簡単に言えば自分のお父さんは凄い方だと思って尊敬するような、幼子のような気持ちで神を賛美する。それが祈りの基本です。だから自分がこれが出来たとか出来なかったとか、あるいは悪霊を追い出せたとかではなくて、神の恵みに包まれている、そのことを神様に感謝して、賛美する。そのようなお祈りが「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」これが御心にかなっているので、神様に賛美をしているということです。わたしたちもこの賛美の心にならって、まずは神様に賛美していく生き方ですね。その後「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父が(神です)どういう方であるかを知る者は、子と(イエス様)、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」ここではイエス様の魅力を語っているんですけれど、それは何をしているかといったら、その話を通して、神様がどういう方かということをみなさんに知ってもらいたい。神様の働き方、御旨のあり方を学んでもらったらと思います。わたしたちは自分という存在が受け入れられているとか、安心できるとかがあれば、神を賛美できるでしょうけれど、そうでない心はあります。そういう時にどうするか。マタイ18章9節「 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」二人の対照的な人をあげているんです。ルカによる福音書の典型的な書き方なんですけれども、対象的な二人の人を書いて、比較して問いかけるというのはルカの福音書の典型的なやり方なんです。ファリサイ派とか徴税人です。二人の人の祈り方を対比で描いているわけです。ファリサイ派というのは、ユダヤ人で真面目なんです。律法をきちんと守ることによって、救いを得ようとするんです。ファリサイという意味は分離される者。つまりいい加減な人間と分離して真面目にやるという意味でした。徴税人は税金を集める人たちですけれども、ローマ帝国の税金集めていて、いわば売国奴みたいに思われていて、どうせピンはねとかしていたでしょうから、そういう意味では嫌われていた。罪人の典型みたいで、ファリサイ派は徴税人と絶対付き合わなかった。徴税人というのは、貧乏だったら憐れみの心を向けたかもしれないけれど、お金持ちだから嫌われた。ファリサイ派の人はどう祈ったか。神殿の中でファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」感謝しますと言っているけれど、でもこの人のお祈りをイエス様は好まなかった。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ここでいう感謝は自分の業を誇っているようで、自慢話をイエス様にしている。この人のお祈りは義とされない。義とされるというのは、わたしの一番簡単な訳はといったら、よくできましたという判をもらうということです。それでokですということなんですけれども。誇っているだけなんです。本当の感謝とは受けた恵みとか、神様の素晴らしさを賛美するんだけれど、自分がいかに素晴らしいかというアピールするだけで、全くお祈りになっていない。賛美と感謝は全然違いますから。神の恵みを感謝して、神様の素晴らしさを賛美するので、自分の素晴らしさをアピールしてもどうにもならない。これはちょっとずれている。徴税人はどうかというと、徴税人は遠くに立って、前の方までいけないで後ろの方なんです。「目を天に上げようともせず」自分の罪深さで打ちひしがれていいるように思えます。そして「胸をうちながら」というのは悔い改めの神事です。今はなくなりましたけれど、ミサの中で最初にい回心の祈りというのがあるんですけれども、昔は胸を打つというのがあったんです。昔は胸を打たなければならなかったんですが、動作するしない関係なしに、これは心から自分が悪かったと悔い改めて「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」ごめんなさいと素直に打ち明けているわけです。これが神様から義とされた。どういう祈りかというと悔い改めのお祈りです。神様に素直にごめんなさいと謝るお祈りです。自分が不完全なところがあってうまくできなかったり、自分たちもだめなとことろがある。素直に神様にごめんなさいと謝ろうという思いが、わたしたちのお祈りの大切なポイントで、それをイエス様が義とする。認めることですからこの心を大切にしたいと思います。全体は何かといったら、神様が赦してくださるという前提があるから、わたしたちは謝ることができる。心から神様にごめんなさいと謝れるかということが祈りの一番大切なポイントでもあるし、信仰の一番大切なところでもあります。著名人の会見でも、言いわけすればするほど傷が深まってしまう。なるべく早く素直に謝った方が間違いないと思いますけれど。神様に対してもそうで、ごめんなさいとなるべく早く謝ったほうがいいということです。この気持ちを大事にすることが祈りの根本だと思います。ファリサイ派の人ではない。基本ははっきりしていて、素直にすぐ謝ったほうが一番傷が深まらない。この気持ちを大事にすることが祈りの根本だと思います。ファリサイ派の人ではない。義とされて家に帰ったのはこの人であって、ファリサイ派の人ではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」高ぶるというのは自己アピール自己宣伝する。それはやっぱりだめでへりくだるもの、神様を賛美し感謝するところからへりくだるものです。しかも悔い改めてへりくだる。そこに神の恵みが働くということです。ルカ18章15節で似たような結論になるんです。「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」子供たちが騒いでイエス様に近づかないようにした。「 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」やはり子供のような心で、ということが、祈りの信仰の基本だと思うんです。だから悪いことをしてすぐ謝るというのが子供の特徴でしょう。あるいは賛美と感謝。子供は難しいかもしれないが、でも子供のような心を素直な心で神様をお父さんのようなものとして謝ったり信頼したりするということ、それが大事だと思います。だから業績を誇るのもだいたい大人です。つい自己満足がありますけれども、子供の頃はそういうこともないでしょうし、そのような心で神様に対する信頼の心を歩むというか、それが祈りの大切なポイントです。そして感謝したり嬉しいことがあって、神に感謝する事、あるいは賛美するということは割とやり易い。あるいは失敗した事があって、それをごめんなさいということも割とやり易いと思います。だから夜のお祈りでは悔い改めのお祈りをしたらいいと思います。今日一日、失敗とかいろいろあって、神様にごめんなさいと謝って、神様から赦しをいただいて、安らかな心で寝るというのが理想です。ごちゃごちゃした気持ちを引きずったまま横になっても結局寝つきが悪かったり、変な夢を見たり、夜の祈りも今日頂いた恵みを感謝して、しかも悔い改めの祈りをして、安らかな気持ちでベットに入る習慣があったらいいと思います。すぐに感謝できない、もやもやした事の方がわたしたちの日常生活に多いかもしれない。何が悪かったのか良かったか分からない事もありますが、その時の祈り方ですが、ルカの10章38節「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』 主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」これはエピソードで、たとえ話ではなくてイエス様が実際経験したことですけれども、先ほど言ったようにルカの福音書は対照的な二人をえ描いているのが特徴ですが、マルタとマリア対照的な二人の態度を通して、イエス様が語られるということです。「『一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。』」その家に泊まることになった。イエス様は一人で旅をしていたわけでなくて、弟子たちと一緒ですから、御一行様なんです。十二人の弟子がいたかどうか、女の人もいたかどうか。だから十人から二十人ぐらいの人がいた。それを泊めるというのは大変で、食事の寝どこも大変で、それは大変だったと思います。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」というのはそういうことです。忙しかったのはマルタが主婦の立場だったからですけれども、逆に「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」ということで、対象的な二人です。想像するにマルタというのは主婦の鑑みたいなものですね。料理も得意だし、そういうことがテキパキできるようなタイプで、しかも積極的だったんではなかろうかと思います。多分、裁縫とか得意なタイプだと思います。わたしのイメージではマリアは主婦業が苦手だったと思います。それでイエス様の前で座って話を聞いてたらマルタが怒ってきて、当然ですよね。イエス様のそばに座って話を聞きたかったでしょうと思いますけれど、その役割分担でマルタがやらなくてはならない。ついにイエス様に直接文句を言う。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」あんまりマリアが動かないから、イエス様から言ってもらって二人がかりで働いた方がいいわけですから、そういうことを言ったら、イエス様は怒るかと思ったら、マルタを注意された予想外の展開です。聖書には納得いかないものが多いけれど、これもその一つです。みんなマルタには納得してないところがあります。なんでイエス様はマルタを褒めずにマリアを褒めたのか。わたしの今の結論ではマルタを褒めていたら大変なことになっていたと思います。なぜかと言ったら日本の社会でも、日本の家庭でも教会でも、基本的にマルタになるように強いられていますから、頑張ってやれという社会ですから。しかもイエス様のお墨付きがついたら大変だったと思います。教会の中も活動しなければ絶対だめみたいな雰囲気がある。だからバランスをとるためにマリアがいて良かったなと思います。もちろんマルタの行動を批判しているのではなくて、何が問題かと言ったら「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」ことが問題であり、なんでこんなことをというふうに自分の心では納得がいかない出来事というのは、わたしたちの中にいくらでも起こりうるわけで、自分ばかりやって損しているとか、あの人はなんで働かないんだとか、いろんなかたちで自分は報われていないとか、そのように思うことはいろいろあるんです。だからこのお話で大事だと思うのは何かといったら、マルタがイエス様に文句を言ってるってところがいいと思います。だからどう考えたって、一回目の訪問ではないんです。イエス様に文句を言えるくらいマルタは親しかった。だから自分がはっきり言うぐらい、自分の困っていることをイエス様に言えたというところが祈りになっているわけです。二番目は何かといったら、よく聞くということなんです。この時マルタが納得できたかどうか分からないけれども、必要なことはただ一つといったら、マリアのようにイエス様のことをよく聞くということが大事なわけです。だから祈りの基本は何かといったらイエス様のいうことをよく聞くこと。何かをするよりそれが必要なただ一つのことです。結婚している方からの相談はパートナーが話をよく聞いてくれないで、心の交流がないという不満が多い。日本では奥さんから旦那さんが口をきいてくれないということが多い。外国人の男性からは日本人の奥さんが夫婦なのに対話をしてくれないと。だからイエス様だって、自分に関係なしにあれこれ働くことを喜ぶのではなくて、マリアのように自分の前に座って、心の交流を、自分の言いたいことを聞いてくれる方が、イエス様は喜ばれると思います。イエス様のために働くといっても、イエス様が望んでいないことを沢山やったって、イエス様がどうか分からない。イエス様と心の交流があって、そこからすることであるならば喜ばれる。でもイエス様が一番喜ぶのは、自分のことを喋れる信者を一番喜んでいる。だから祈りが大事なわけです。形式的に長い間するかしないというより、心の交わりなんです。何かをするよりも先に必要。イエス様と心を合わせるといってもいいし、イエス様の心を聞くといっていい。自分の思いをイエス様に素直に打ち明けるということでいいわけです。そのような繋がり、心の交流が祈りの基本だし、信仰の基本である。それをわたしたちが心がけられたらいいと思う。だから必要なものはただ一つと「マリアは良い方を選んだ」だからわたしたちも良い方を選んだほうがいいのですから、マリアのような立場で、イエス様と関わる。イエス様が語ろうとしたら、イエス様の前で聞く。それをわたしたちは一つの大切なポイントにしたらいいのではないかと思います。はっきりとイエス様と関わっている。だから知り合いなんです。わたしたちもイエス様と対話できるぐらいの親しさに招かれているんです。それができることが、わたしたちの喜びでもあると、イエス様の喜びでもある。このようなマリアの態度でよくイエス様の話を聞く。あるいはマルタのように積極的に話し合うような交流を持つことが、祈りの基本と考えた方がいいと思う。目に見えないイエス様との繋がりと交流を持つことになりますが、このお話があって11章1節からさらに祈りの話しが出てくる。ルカ11:1「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。  そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」』 また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。ください。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。』」最初の「イエスはある所で祈っておられた。」イエス様は神様と一つであったとしても祈りが必要だったので、わたしたちも普通は祈りが必要だと思います。ある所というのは分かりませんが戸外が多い。外で祈っているほうが記述的には多い。家の中よりも気候風土があり、日本では人がいっぱいいて集中できませんから。イエス様は長い間祈っておられて、弟子たちも邪魔しないようにしていて、祈りが終わられたら、弟子の一人が聞いた。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように」とあるんですけれども、洗礼者ヨハネで、新約聖書の最初に出てくる洗礼をヨルダン川で授けていた。旧約聖書の預言者みたいな感じなんです。だから当時の有名なラビとか宗教的な指導者は、自分のお祈りを弟子たちに授ける習慣があったのでしょう。洗礼者ヨハネが祈った祈りは、もう残っていないから分からないのですけれど、高名なラビが弟子に教えるということはあったようです。そのような習慣があるので「わたしたちにも祈りを教えてください。」その後で主の祈りを教えられる。キリスト教会で一番大事なお祈りということになります。マタイの主の祈りはもう少し長いですけれども、内容は同じです。多分カトリック、プロテスタント合わせて八、九割の教会はマタイ版を唱えていて、ごく少数がルカ版を唱えているといわれています。伝承は二つあったんだろうと思います。少なくとも同じ要素があるので今日はこちらでみますが、イエス様にとって神様はお父様なんです。だから父よ、というお祈りになるわけです。ただ日本語としてはおかしいのです。何がおかしいかといったら自分のお父さんに向かって父よという人はいないんです。わたしの父がとか、人に言う時は使いますが、だからここはお父さんと訳すべきなんです。だから直接お父さんに向かって言っているわけです。英語だったらfatherと自分のお父さんに向かって言わない。dadyとか英語で言うから、ヘブライ語はアッバ。お父ちゃんのようで親しいお父さんとして呼ぶ。その次何を祈るかというと「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と同じことをいっているんですけれども、神の名前が崇められますように、この名前というのは神様の本質とか実質とかあらわれていることだから神様の力が働いている。次の「御国が来ますように」というのは神の国が来ますようにということですが、神様の国が働いている、神様の力が働いているのとほぼ同じという意味になるんです。名前がないとか名前が崇められてないとか、力が働いていないということです。神様の力が働くように、恵みが働くように、神様を中心で考えるというところが、主の祈りの一番大事なところになります。わたしたちのお祈りは自分の願いから入るけど、それが中心ではない。神様の働きが中心だとみなが崇められるようにと、神への賛美と感謝も入っている表現だと思われます。自分がどうのではなくて、神様はどうなのかというところ。神様中心の世界というところです。その視点が大事になるわけです。神様を賛美して神様を働くように祈って、3節でそこで「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」自分の願いをささげるわけです。この糧は食料という意味なので、この祈っている人の前提は何かといったら貧しい人です。毎日毎日食べ物をくださいと、祈らざるを得ない、毎日食べ物がない人が祈っているわけです。今日の食べ物を事欠く人がこういうお祈りになっている。貧しい人のお祈りではあるのです。糧をいっているわけで、今日の仕事が上手くいきますように、今日、自分に必要な恵みを願うことはできるわけです。その次が4節「わたしたちの罪を赦してください」と悔い改めの祈りが入っているわけです。神様ごめんなさいということを、主の祈りを唱えるために神様に赦しを乞う。自分の罪を赦していただくと共に、赦しの力を持って、隣りの人も赦せるようにと願う。難しいですけれども、神の恵みによって願う。5節から自分に必要なものがあったら神様に願いなさい。旅行中の友達が真夜中に来て、隣りの人に食べ物を頼んでいる、でも寝ているから面倒をかけないでくれ。でも一生懸命頼めばやっぱり隣りの人でもパンを貸してくれるから、それぐらいの熱心さを持って願いなさいということで、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」という有名な言葉が入る。人間の苦しみはだいたい二つある。一つはどうすればいいか分からない苦しみ。もう一つはどうすればいいか分かっているけれどもできない。タバコをやめたいけれども、やめられない。どうすればいいかというと、神様に聞く。自分で分からないのだから神様に聞く。マルタみたいにどうすればいいのですかと聞く、そうすればある時教えてくれる。「求めなさい。そうすれば与えられる。」のですから、神様に聞けばある時教えてくださる。もう一つ、どうすればいいか分かっているのにできないことは自分の力ではできないから、できるようにしてくださいとできる力を願う。神様に力を願ってたらそのうちできるようになる。自分の力でできないからこそ神様に力を願う。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」だから全部もとめればいい。当然自分の力で考えたり、どうしたらいいか自分の力でやるとかですけれども、基本は求めると、具体的に求めたらいいと、具体的に探す。神様は求めに応じて応えてくださるから、願っていくということが大事だということです。だから祈りの基本はマリアのように、神様のメッセージを聞くということを中心にしながら神様に賛美して感謝する。神様にごめんなさいという、神様に必要なものを願う、それが祈りの基本ではないかと思います。最終的に何を願うかというと、13節の終わり「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」本当に求めるものは聖霊なんです。神様の力とか神の働きを求める。聖霊を求めれば聖霊の力によって人を赦せるし、聖霊の力によって癒される。聖霊の力によって何が大事かは教えられるし、聖霊の恵みを願うのが一番早道になるわけです十

 

 2016 年 6 月 13 日(月)
 第 九 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記