カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-06-20 入門講座 10 メシア

英神父 入門講座 10 メシア

 今日のテーマはイエス様の生き方の後半に向って、イエス様はメシアであり、使命は何であるか。またわたしたちの心構えは何なのかを合わせてお話します。マルコによる福音書8章27節「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」イエス様は主にガリラヤ湖周辺で宣教活動をされていた。あちこち出かけられて27節で「フィリポ・カイサリア地方」だいぶ北の方でヘルモンジャの麓で、レバノンとの国境沿いぐらいの所ですが、当時は流行っていたのではないかと思います。その時に弟子たちに質問するのです。「『わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。」イエス様は誰であるかという重い問いがあった。当時もイエス様は誰であるかという噂はあった。いまだにイエス様は誰であるという本は出版され続けています。日本語に訳されているのは一部ですけれども、イエス様が誰であるというのは論議され、加速され続けている。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」弟子たちも旧約のはじめから新訳のはじめまで、預言者の伝統というのがあります。「よげん」とは日本語で、予めの言葉と書き、未来をあてる人と使いますが、聖書は神様の言葉を預かって人々に告げるのが預言者です。わたしたちはなかなか神様の御旨とか分からないし、ずれてしまう事がありますが、聖書の歴史の中にはいつもではないですが、預言者というものが現れて、神様のメッセージを語る、そのようなものがあるわけです。この洗礼者ヨハネというのは、旧約の最後の預言者だと考えられています。エリヤというのも有名な預言者です。ちなみにレバノンではエリヤが一番人気です。一般的な評判はイエス様は預言者だとされた。弟子たちには「『あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」ペトロは12人の弟子のリーダーみたいだった。このメシアはヘブライ語で「油そそがれた者」預言者も王様も、油注がれた者なんですけれども、特別に油注がれた。油というのは聖霊の恵みを受けるものという意味もあって、特別な使命を受ける人という意味です。日本語で訳すと救い主ということになる。キリストというのはメシアのギリシャ語訳なんです。イエス・キリストというけれど、名字ではないんです。イエスは名前でキリストはメシアであるということを宣言している。だからイエス・キリストといった時に、イエス様はメシアであると宣言している。それは救い主という意味ですが、これはユダヤ人にとっては特別なニュアンスの意味で、ユダヤ人の歴史はいつも虐げられていました。イエス様が登場する一世紀前から終末思想で、世の終わりが来るという考えが流行って、その時にメシアが現れてユダヤ人を助けてくれる。基本的な考えはイスラエル王国を復興して、イスラエルを中心にした救い主をみんなが待っていたんです。キリスト教はイエス様をメシアであると認定しているわけですが、ユダヤ教の人はキリスト教ではないから、イエス様をメシアとして認めていないんです。だからユダヤ教の人はいまだにメシアを待っている。そういう違いがあるんです。イエス様はメシアであるといったらキリスト教であり、預言者の一人といったらユダヤ教の考え方です。メシアであるというのは大事なポイントです。30節「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ペトロが信仰告白して、メシアであると明らかにしたことに対して、イエス様は喋るなという事を命じるんです。普通だったら逆です。メシアであるという事からしたから宣伝するところなんです。つまり救い主なんだから、みんなに宣伝して、教団を発展させていくというのはごく普通のことで、イエス様が病気を治したり、説教も抜群でスーパーマンみたいな感じですが、メシアだというのが明らかになったら、それはそれでみんなハッピーというところが、全部秘密ですということになる。それはマルコの福音書における「メシアの秘密」と神学書ではいうんです。なぜ秘密にしたのか。続きを読むと31節から「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。』また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」イエス様は続けてお話をするんですが、この話は弟子たちは驚愕したと思います。「それからイエスは、人の子は」人の子というのは人間ということです。でも聖書の中では特別な言葉なんです。旧約のダニエル書の7章13節にでてくるんですけれども「『人の子』のような者が天の雲に乗り」人の子といったら終末におけるメシアなんです。ユダヤ教においてはメシアは人間であり、神様そのものではない。「人の子は」というと、終末のメシアという意識がある。聞いている人もそのつもりで聞いている。そのあと「必ず多くの苦しみを受け長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」ということで、ここでメシアであるということと、「多くの苦しみを受けて」「排斥されて殺される」ということがセットとして語っている。つまりイエス様がメシアである、その使命は何かといったら、十字架上で自分の命をささげるということを語り、復活するという事を言っているんですけれども、弟子たちは復活まで気持ちがいっていないと思うんです。死ぬというか排斥されて殺されてショックを受けて、思考停止みたいになった。なぜかといったら、メシアなんだからこれから、王様として王国を継がなければならない。軍事力を蓄えて味方もつけて、この世の王様として頑張らなければならない人が、急に十字架にかかって死んでしまう。弟子たちの理解を超えている。メシアというのはそうなんです。救いというのはまずイスラエル民族を救って、そして周りの人を救うというか、現実的にユダヤ人たちが独立国家を作って、平和に暮らせるような、まずはそれを実現してくれる救い主なんです。現実的な救い主を考えていたわけです。軍事力や経済力もないとだめな、そういうものとしてメシアを考えていたんです。ユダヤ教のメシアといったら、この世の王様にならなければならない。敵を打ち散らして、ローマ帝国を追い出す力になるということなんです。その前はギリシャ帝国とかアレキサンドル大王に支配されて、その前はマケドニアにとかエジプトにとか、いつも帝国にやられていたから、独立して自分たちの平和を求めていくのは、ユダヤ人の根本的な願いなんです。第二次世界大戦の後ですけれども、1948年、メシアなしにイスラエル共和国が独立したんです 。AD 70年に崩壊してから1800年以上経った国をもう一回確立したんですけれども、それはメシアのあらわれであるその延長線上に、メシアというものが輝いている。だからペトロは脇へお連れして、いさめ始められた。これは当たり前なんです。ユダヤ教のメシアと全然違う事を言うから 、急に十字架につけられて死ぬと言われたら、それはメシアの仕事ができないでしょうということで、みんなの前でいうには、あまりにだから、わざわざお師匠さん、こちらに来てください、と言って、今の発言はおかしいから訂正してください、という感じで、 ペトロの方が人間的に正しいんです。当時の人々の理解を完全に超えていたんです。そこでイエス様がペトロに何と言ったかというと、「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。』」これはサタンの誘惑なんです。ペトロにサタン引き下がれというのは、イエス様はメシアであるということと、十字架にかかるというのがセットであり、しゃべった時には不退転の決意で決めていたと思います。 相当の覚悟を決めて言ったから、ペトロの言葉に対して、サタン引き下がれ、です。つまり自分のミッションを邪魔する、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言ってペトロの言葉を退けるということになるわけです。強い言葉だと思います。いろんな学者が推測していますが

イエス様が宣教活動を初めてされた時のことは、ある学者は「ガリラヤの春」と呼ばれている非常に良いスタートだったという。イエス様が癒しの業をされることで、多くの群衆が来てイエス様は神の国を宣べ伝えた。神の国はどういうものなのか。神の国を生きるようにということで、イエス様は人々に語りかけて、病人を癒したりしていたんですけれども、推測ですが、ただそういうやり方ではうまくいかないということを、イエス様は感じたのではないかという。 そのことをガリラヤの危機というのですが、弟子たちに伝えたかったことを、他の弟子たちもよく理解しなかった。ただ言葉と行いを通してだけ、神の国を伝えていても、どこかで行き詰まりがあると、イエス様は感じて、そこで方向転換したのではないかという考え方もある。これは分からないですけれども、イエス様は十字架にかかるつもりだったのかもしれないし、あるいは生まれる前から、神様の世界に入る時からそうだったのかもわからない。一つの意見は最初はそうではなかったけれども、いろんな人の動きを見ると、自分の命を捧げない限り、この世に神の国をもたらすことができないというふうに考えたのかもしれません。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」だから人間のことを思ったら、イエス様は救い主だから、お恵みがいっぱいあって、この世的にも万能だと弟子たちも思っていたのです。イエス様が来られた時には、自分たちは要職につけると思ったのに、それが突然亡くなられたから、イエス様がメシアであるというのはどういうことか、全く違う考えで、イエス様は決意をされていたということです。例えば弟子たちはよく分かっていなかったけれども8章11節、「ファリサイ派の人もイエス様を試そうとして、天からのしるしを求めて議論をふっかけた。イエス様は心の中で深く嘆いて言われた。「どうして今の時代の物たちはしるしを欲しがるのだろう』」イエス様のしるしを望んで神様に心が向かないことがあったということです。あるいは14節から、船の中での話なんですが、イエス様が色々話をすると17節「イエスはそれに気づいて言われた。あなたはなぜパンを持っていないことで議論をするのか。まだわからないのか。悟らないのか心が固くなっているのか目があっても見えないのか耳があっても聞こえないのか」弟子たちが理解していないことが明らかで、このようなことからイエス様は自分は十字架にかかって、自分の命を捧げるということを決心したというか、これこそはメシアとしての自分を自分の使命であるということを、覚悟したと言えるのではないかと思います。だからメシアであることを秘密にしたのではないか。つまり当時の人たちの考えたメシアと全く違うから語らない。むしろ秘密にせざるを得なかったと考えられます。その後なんですけれども34節「それから群衆を弟子と共に呼び寄せられた」これ以降は何が書いてあるかといえば、弟子の心構えなんです。メシアであるイエス様が十字架にかかって命を捧げるということを 宣言した後に、弟子がどう生きるかイエス様は厳しく語ってるということかというと、「私の後に従いたいものは自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」かなり厳しい言い方になるわけです。皆さんの中で洗礼を受けていない人は神様の恵みとか計らいとか、そういうものをしっかり受け止めてほしいという気持ちは強いです。ミサの中で洗礼を受けられて、キリストの後に従っている方々はこういう箇所をしっかり受け止めてほしいと思います。自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従えということを、はっきりとおっしゃいます。このキリスト教のひとつの大切なポイントは、現世御利益ではないです。イエス様が普通のメシアだったらこの世的に裕福になって儲かると納得するのですけれども、イエス様がメシアだったら十字架にかかるという、信じられないミッションを果たしていく存在であるわけですから、その後に従う者たちはこの心構えが実は一番必要です。まずは自分を捨てることです。自分の欲望を満足させるのではなくて、自分を捨てるところからいかなければならないです。けれども何をしているか、自分の全てを捨てるわけではないです。何を捨てるといったら、自分の罪、自分の弱さ、自分のとらわれ、自分の執着心を捨てなければならない。つまり生き方を変えなければならないというのが根本だと思います。ただそこに行けばお金が儲かるということと、全く関係がないということです。古い自分とか、いらない自分を捨てれたら、すっきりすると思います。自分を捨てた後に何が必要かというと、自分の十字架を背負うということです。十字架というのは、この当時はイエス様は十字架につけられて亡くなられるわけです。けれどもローマ帝国の中で最も重い死が十字架です。この中でも死刑判決にも、ローマ帝国の死刑の重い軽いがいっぱいある。軽い死刑は一瞬で殺すということです。つまり十字架刑というのは、最も重い死刑ではないか。何で重いかというと、すぐに死なないから、拷問だということです。だから十字架の上に吊るして何時間も死なないんです。しかもみんなからバカにされて、見物客がいて、みんなの見世物になる。一番重い死刑のやり方が十字架なんです。それだからイエス様は十字架にかけられるわけです。それを背負うということです。自分の十字架を背負うということは、弟子の二番目の心がけになるということです。簡単な言葉でいうと、苦しみから逃げないということです。自分に与えられている、背負うということは、それを受け止めて、それと共に生きていくということです。だから宗教に興味を持つ人は、苦しみがあって苦しみから逃れたいから来るわけでしょう。それは病気でもそうだし、何でもそうだし、苦しみから逃れたいから来るというのが、人間の普通の気持ちです。解決を図ったり、色々あります。苦しみから逃れようとすればするほど、苦しみが追っかけてくる。蓋をしておく事はできるかもしれないけれども、苦しみから逃げれば逃げるほど、追いかけられて、苦しみが大きくなる。必ず全部が全部ということはないですけれども、逆に苦しみから逃げないほうが本当はいい。苦しみを受け入れ、十字架を背負って、もちろん背負いきれないことはあるけれども、そこはイエス様に従って行く道を歩む中で、何かが変わっていくというのを待ち望みながら、歩んでいくのがイエスの弟子であるということです。根本は逃げない、一時的に逃げるのはいいですけれども、でもやっぱり苦しみの十字架をしっかりと背負って、そこでイエス様に従っていくと、全然違うものが開かれていくという。それを前もっていうならば、イエス様がそれをよく受難予告というのですけれども、人の子は必ず多くの苦しみを受けるとか、受難だけではなくて三日の後に復活するといわれた。でも復活されるということが飛んでしまって、今だから復活されているから言えますけれども、十字架を担うということは、復活の恵みまで至るということなんです。でも担わないと復活までいけない。でも復活を信じて十字架を担って、従っていく中で、十字架がいつしか軽くなったり、恵みになったり、あるいはそれを通して、復活の恵みに至ることができる。これが私たちに与えられている最大のお恵みです。だからメシアとしてのイエス様は、十字架にかけられて、復活されるんです。だから私たちもその道を歩むことによって、復活の恵みに預かることができるということなんです。大いなるお恵みです。 もちろんこの世的なお願いも必要でしょうけれども、それよりもイエス様は壮大にくださろうとしておられる。そして35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これもまた不思議な言葉が書かれているということなんです。その時に聖書に書いてある、命ということを、もう一度見直したんです。旧約は長いからちゃんと読めないけれども、少なくとも新訳を読む限り、この世の命を大事にするというのが出てこないんです。でも健康に気をつけるべきですが、健康がどうでもいいという話をしているわけではないです。でも聖書に出てくる箇所はこういうところなんです。自分の命を救いたいと思う者はそれを失う。何か次元の違うことの話をしている。思い出したのが、星野富弘さんと言う体育の教師で、脊損で車椅子で後にプロテスタントで洗礼を受けられて、口で絵筆を持って花の絵を書いて、花の絵に自分の言葉を添えて頑張っておられる方がいます。星野富弘さんの詩にこういうのがあります。怪我をされてからだと思いますけれども「命が一番大切だと思っていた時、一番苦しかった。命より大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった。」という詩があるんです。聖書の言葉でつながっていると思います。命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかったと、つまりこの世の命を一番の価値に置いた時に、結局は苦しいだけ。なぜかといえば、この世の命は病気と歳をとることと、死ぬことから逃れられないからです。だから苦しみから逃れることはないのです。この世の命だけを絶対視してしまったら、命が一番大事だと思っていた頃は、明らかに苦しかったと言っていますけれども、クリスチャンになった後、命より大切なことがあると知った日からだから、自分の命を捨てる。この世の命にとらわれすぎると、かえって苦しみが多くなる。クリスチャンはそうではない。この世の命を超えるものを見つけた時に、それをイエス様が伝えている。それを私たちに伝える時に、恵みの世界に生きることができるということを語っていらっしゃると思います。マルコ8:35「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」ここではイエス様のためと、福音のためという言葉がついています。目的なんです。福音のため、神の国のため、神の世界に自分の心を向ける時に、この命を超える、何かもっと救いの恵み、本当の命を大切にできる世界を、見つけることができるのではないかということです。よく考えなければならないです。自分を抱えるとかささげるとか、イエス様のために、福音のために、しっかりとした目標があってささげるのは意味があると思います。例えばカルト教団とかは自分を捧げてますから、この世的なものに捧げるというのは、あるいはずれたところに自分を捧げてしまうというのは、かえっておかしくなるということがあります。だから慎重になるというか、本当に捧げるべきところに捧げなければならないと思います。そしてこの後にあるのです。マルコ8:36これも有名なところですが「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」たとえ全世界を手に入れてもというのです。皆さんの中には、全世界を手に入れたいと思う人はいないと思いますけれども、でもある程度色んなものを手に入れたいと思う。自分の命を失ったら何の得があるかということです。思いますが現代は格差社会になって、トップの1パーセントの人が世界のほとんどを持っているとか、本当にくだらない世界という感じがします。大金持ちで家を五軒持っている人が、さらに倍にして家を十軒持っていても、何の意味があるかと思います。家を十軒何十軒建てて、お城を建てても、寝室は一つですから。 使い切れないお金を持っていてもしょうがないと思います。それより自分の命を大切にするより、ということです。自分の命というのはこの世のことを超えている本当の命でしょうけれども、そこを私たちは目指しているというのは事実です。この箇所で有名なのはイグナチオ・ロヨラ、イエズス会を創立者で、、イグナチオ教会の保護の聖人ですけれども、イエズス会の当時のナンバー2のフランシスコ・ザビエルと日本に来たんですけれども、たまたまパリの大学で学生寮で同じ部屋になった。それがフランシスコ・ザビエルの運の尽きだった。フランシスコ・ザビエルは旧家で秀才だったんでしょう。神父になって、パリの大学の先生になって、家族の期待もあった。本人も立身出世したいという気持ちであったから、イグナチオという中年のオジサンで、お金もなくて大学も行けないから、物乞いでお金を集めて、それで学費を払っていた。そんな人と突然一緒になった。その時に言葉を言われたんです。「人はたとえ全世界を手に入れても、命を失ったら何の得になるか」ということで説得されたわけです。そして回心したわけです。イグナチオ・ロヨラの伝記で書いてあった。 フランシスコ・ザビエルが最も頑固で、なかなか回心しなかった。一旦回心したら、逆の方向に突っ走る感じで、日本まで来て、日本人にとってお恵みだった。イエス様の弟子になる、メシアであるイエス様が、十字架を担って、イエス様に従っていくように、それが本当の命を、自分の命を救うやり方につながるのだということです。それを大切にしていったらいいのではないかと思います。マルコ9:30ですけれども二回目の受難の予告です「 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」マルコの福音書では三回目の予告があるんですけれども、これは二回目のところです。やはり受難予告をする時に、「 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 」お師匠さんが死んじゃうというのが意味がわからなかった。怖くて怖くて、何もそれ以上尋ねることもできなかった。それは相当ショックだったであろうと思います。つまりイエス様が考えてることと、弟子たちの考えていることが、あまりに違いすぎたのです。神の計画と人間の計画のずれというか、全く噛み合ってなかったんです。けれどもその受難予告があったあとには、必ず弟子の心構えが書かれているんです。弟子の心構えがなにかというと、その話のきっかけは「途中で誰が一番偉いか議論し始めていた」思いますに、男性の本能といいますか、権力闘争欲みたいな、親分にならないと気が済まない、そういうものがあるのかないのか、さっきのメシアといったら、何かスーパーマンのようなメシアになるというか、それと似ているわけです。誰が偉いかというのは重要な問題ではあるけれども、イエス様がおっしゃるんです。「一番先になりたいものが全ての人の後になり、全ての人に仕える者になる」ということです。だから偉くなるのではなくて、仕えるものになれということです。これがイエス様の心構えです。私たちはイエス様に仕えるために来たんです。だから私たちもイエス様に仕える。私たちはイエス様に仕えることと、人々に仕えることが使命です。十字架にかけられてイエス様に従う謙遜な心で、人々に仕える。私たちの使命というか、弟子としての生き方だと思います。皆さん一人一人の十字架は、全く違うと思いますが、すごく重いと感じる人と、軽いと感じる人もいます。あるいは十字架は人それぞれバラバラだと思います。仕えやすい人と仕えにくい人、バラバラだと思います。誰かに何かして仕えなければならないということです十

 

2016 年 6 月 20 日(月)
 第 十 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記