カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-07-11 入門講座 12 受難

英神父 入門講座 12 受難


 今日はイエス様の受難ということでいきたいと思います。 受難は英語で言うとパッションということです。受難は難を受けると書きますが困難、苦しみを受け入れるということで、御受難と呼ぶことになっています。でもイエス様がどういうふうに受け止められたのか、受けていかれたのか、福音書の中で御受難物語というところが一番詳しいんです。四つの福音書があって微妙に違いますけれども、それぞれが詳しく書かれています。というのは初代教会の人は、イエス様の苦しまれた姿を通して、様々なことを考えたり思ったりしたんであろうと思われます。だからこの苦しみや辛いことをどう受け止めるかということになります。それは最終的には自分自身が受ける苦しみを、どう受け止めていくか。苦しみなどが沸き起こったりくるわけで、それをどのように受け止めて乗り越えていくのかという、そのためのヒントを語っているといえるだろうと思います。そういう意味で今日もイエス様の受難物語を少し読んでいきたいと思います。今日はマルコによる福音書 14章32節ゲッセマネの園でマルコの福音書では、ゲッセマネの山で祈ると書いてあります。32節ゲッセマネで祈るというのがあって次のページ43節からゲッセマネの園の祈りの直後に、その場でイエス様が逮捕されるというところが描かれています。ユダが先導して、そして群衆と共に来て、イエス様を逮捕するわけです。ユダの手引きがなかったら難しいと思います 。やはりイエス様の行動パターンを知っていたのは弟子でした。エルサレムに来た時は、ゲッセマネの園でお祈りをしたり、その場で野宿をしたりしたのではないかと思います。だからイエス様の行動パターンを知っていたユダであるからこそ、導くことができると思います。やはり昼間だったら、さすがに暴動になるかもしれないので、夜にみんなが寝静まった時がタイミング的には良かったと思います。そこで逮捕されて、53節から最高法院で裁判を受けてというところがあるので「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。」イエス様を逮捕して、大祭司の中庭の所に連れてきた。カイアファという人のところです。そして早速そこで、最高法院でしか裁判はできないのですが、最高法院の裁判を急遽開いたということです。二十何人ぐらい集まったんだろうと思われます。おかしな裁判だと思いますが、ユダヤ人が読むと、この裁判は明らかに違法であるということと思える裁判です。55節「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするため」に、だから根本的に間違ってるということです。普通の裁判というのは公平にやらなければならないということです。死刑にするかどうかは、慎重に考えなければならないです。今の裁判ですら冤罪というのがあるわけですから、当時の裁判も、冤罪にならないように非常に注意をして裁判を行っていたということです。今のような科学的な何か DNA 鑑定とか当時はできないので、一番大事なのは証人になるわけです。56節「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。」ユダヤ人の裁判では、証言が食い違ってる時点で、無罪なんです。逆に言えば、死刑になるには、よほどの証言あってないとなくてはならないです。非常に重要なんです。証言が合う合わないはものすごく重要です。合っている時にしか死刑にはできません。食い違っている時点で、無罪になるのが決まっていて、何人も証言が出てきて、食い違っているので、無罪というのはハッキリしているわけですけれども、この裁判は茶番で、今でいえば国策捜査と 最初から結論がありきということで、めちゃくちゃなんです。仕方がないから大祭司が立ち上がって61節「「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。」と福音書によって違うんですけれども、マルコの福音書にはそうだとはっきり答えて、あなた達は人の子が。人の子がといえば週末のダニエル書で、そうであるとはっきり宣言するという形になるわけです。それで大祭司は、衣を引き裂きながらというのは、悲嘆というか悲しみのしるし、怒りのしるしで引き裂いて、 「諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」ということで、一同は死刑にすると決議した。ここは間違いというと、自分が救い主と言ったからって、死刑にはならない。普通はおかしな人が言う。自分がメシアだからといったぐらいで、死刑にはならない。神の名を本当に傷つけたら、死刑ですけれども、本人がメシアと自称しただけでは死刑には当たらないです。今でもエルサレムに行くと何人も、自分はメシアだと言っている人がいる。それでどうということはないです。だから間違ってるわけです。しかも一同は、全ての人はと遣っているんですけれども、全員一致で死刑にすべきだと決議したというわけです。これもまたユダヤ人は、全員一致で賛成したことは、無効であるというのがユダヤ人の考えがあるんです。日本人とちょっと違うんですが、ユダヤ人は虐げられている民族というのは、個人が非常に強いんです。小さな国の人ほど強い印象がありますが、非常に頑固なのです。ユダヤ人の人はことわざによると、二人のユダヤ人が集まったら、三つの政党ができるというくらい、一致団結することは苦手です。今でもそうですけども、いつも連立政権です。一つの意見にまとまることはほとんどないです。全員一致するというのは、ユダヤ人にとっては、どこかがおかしいという。だから必ず反対票が入っていないと、健全ではないということです。全員一致の決議は無効です。これも間違っています。全員一致で決めたところで既に無効なんです。日本人とのセンスが違うんですが、全員一致でいいんではないかと思いますが、文化の違いで必ず反対者がいる方が、健全だと考えるというのが、ユダヤ人の考え方です。そういうことがあって、これは完全に 違法な裁判であると語っているのでしょう。しかもその場で即決しています。普通できない。翌日にならないと判決は下せないわけです。審議しているその場で判決が下せません。人間の心理を考えているわけです。死刑というのは、いつの場合でも冤罪があるから、一時の感情ですぐ決めるのは危ないから、一晩寝てから、それでもそうかという所で判決を下します。なるべく死刑を出さないように、公平なシステム。今でもそうしていますけども、その場ですぐに決めてしまったということも違います。最初からイエス様を死刑にするための裁判であり、全く間違ってあるわけですから、だからそこでとにかくイエス様を死刑にすると決めてしまったことです。この受難物語はイエス様の苦しみと共に、人間の愚かさが浮き彫りになっている。こういうことはあるわけです。誰かを陥れて、みんなで結託して、誰かを落とすとか、公平な裁判のような形をとって見せて、そうではないことがいっぱいある。それのいわば、人間の策略の恐ろしさをそのまま語っているわけです。特に権力を持つ者が、このような事に走るということは、多々あるわけです。そういう意味でわたしたちに対するイいいように殺されてしまうという現実を如実に語っているという風に言えると思います。そしてその時の出来事66節ペトロのことです「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」この数時間前に最後の晩餐をやって、その場で死んでもついていきますと宣言したんですけれども、ほんの数時間で決意は崩れてしまったという。人間の弱さをはっきりと言われているわけです。このペトロもイエス様を見捨てたわけではなくて、恐る恐るついていったんです。様子を伺っていたんで大祭司の中庭に入っていたので、ヨハネの福音書では使徒ヨハネと二人で入っていたのですけれども、そこで日に当たっていて、あるいは少し話していたのかもしれない。そして女の人が大祭司に仕える女性が、あなたもナザレのイエスと一緒にいたと三回いうわけです。でも彼は頑なに否定するわけです。自分も仲間と思われたらその場で逮捕されて、自分の命も危ないと考えたと思いますけれども、70節「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」方言で分かった。喋れば喋るほどガリラヤ出身というのが明らかです。私も喋れば喋るほど関西弁なんですけれども、言葉の訛りでどこの出身かはっきりわかるわけです。英語でもそうですけれども国によって喋り方が違う。だからもう明らかだったんです。ペトロは弟子の中のリーダーまとめ役だったので、イエス様の横にいたから、見られていたわけです。あるいはパニックになっていて、「呪いの言葉さえ口にして」いたというわけです。人間の愚かさ、弱さがはっきりと描かれているというわけです。こういうところを読む限り、弟子の姿を美化していない。悪いところを隠さないで、イエス様が亡くなって復活した後で、ぺトロがリーダーになって、今のローマ教皇様が一代目になるんですが、その人の失敗をこんなに赤裸々に書いているというのは真実味があるということです。初代教会が自己正当に走るとしたら、こういうところを削除して、ぺトロは立派だったとか書き替えることができたと思いますが、これはあまりにはっきり書いてあるということがすごいと思います。わたしたちの断面を語っていて、苦しみや何か危機的なところに巻き込まれた時に、いかに人間は弱い存在かということを、リアルに描いていると言えると思います。そして「ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」その時に初めて気がついて、数時間前に言っていた決意を裏切ってしまった。ここですでに自責の念に駆られていて、それが彼にとっての十字架だったと思います。彼にとっての受難。お師匠さんを裏切ってしまったという事自身が彼の大きな苦しみであった。それを彼は受け止めなければならなかった。このイエス様の十字架を通して、いろんな人間の中の思いというのか、悪い弱い思いとかが明らかになる。それをわたしたに対して、共感するところでもあるわけだし、反省を促しているわけでもあるわけです。そして15章1節「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。」とありますが、なぜピラトに引き渡したのか。一つはユダヤ人からみたら、 不当な裁判によって判決を下したという気持ちもあったのではといわれています。明らかに冤罪であるということはで、自分たちだけで死刑判決を出すのは難しい。後々のことを考えた時にというのがあったと思います。しかもピラトがタイミングよくピラトが来ていた。総督といってローマ帝国の植民地を実質的に支配していたのがローマ人の総督。いわば最高権力者ヘロデ王もいましたけれど、完全な傀儡で権力がなかった。ちょうどピラトがいるから、過ぎ越しのお祭りだったんです。日頃は海辺の方のカイサリアというとこにいて、そこは交通の要所だったので、過越しの祭りの時だけは、エルサレムにユダヤ人が集まっていたので、いつでも暴動が起きやすいので、警備のためにローマ兵を連れて、ピラトが来ていて、アントニオ要塞という所に泊まっていました。そのために最高法院の人々はピラトのところで死刑判決を出してもらったら、一番確実だと思って、ピラトのところにイエス様を送ったわけです。ピラトにとってはイエス様はどうでもいい存在で、つまりメシアかどうだかはどうでもいい話で、どちらかというと王様かどうかということを問う。王様であったら政治的な裁量で何か下すことができたと思われますけれども、ピラトからどう見たって、この人が王であるとは思えなかった。民を率いて反逆をするならば、当然警戒されるでしょうけれども、この時に鞭打ちの刑もあったし、ドロドロの服を着ていた。何の力もないというのは明らかだった。どうするか考えなければならなかった。マルコ15章6節から「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」もう一つの裁判です。ピラトの元への裁判ということですが、イエス様のことについてピラトはどうでもよかったんです。でも植民地支配というのは、アメとムチなんです。ある程度厳しくして、ある程度彼らの望みをかなえる、アメとムチ作戦なんです。ピラトはものすごい残虐な人だった。あまり迷ったりするタイプではなかった。そのようなタイプだったというわけで、この後あまりに残虐すぎて、彼は解任されるということになります。ピラトにとってはイエス様はどうでも良かったけども、処置をしなければならかった。考えついたのは恩赦の制度を使って、祭りの度ごとに一人を釈放するという。バラバと呼ばれる人殺しの悪い人と、イエス様と両方を出してきて、どちらを釈放したらいいかと言ったら、11節「祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。」群衆がイエス様を十字架にかけろと、しつこく叫んだので、結局ピラトは根負けして、イエス様を十字架につけることを決めたということです。考えさせられることだと思います。誰がイエス様を十字架にかけたのかと言ったら、たとえばユダとか、祭司長だとか。実際のところが群衆が叫んでイエス様を死に追いやったというのは、どこかに悪い人がいて、悪い人がやったと考えられない構図が入っている。群衆というのは普通のユダヤ人で、家に帰ったら普通のお父さんお母さん、敬虔深い人々であったであろう。極悪人が集まっていたわけではなくて、普通の人たちが集まっていた。その時の流れに流されて、イエス様を十字架にかけるという方向に、暴走したということです。個人的には一番恐ろしいことだと思います。聖書の中で群衆と使われるのは、悪いことに使われますそれが、人間の集合的な悪の力が働くことがある。それがいつ出てくるかもわからないのです。いつこれが出るかですね。たとえばもう20年ぐらい経ったか、アフリカのルワンダで、とフツ族がツチ族を大量虐殺したんです。十ヶ月間で百万人のツチ族が殺されたんです。でもルワンダというのはカトリックの国なんです。アフリカンでカトリックが多くて、しかもイエズス会の神父様が宣教した国なんです。群衆が悪になって、誰かを殺してしまう力は、どこにでも働くということです。その恐ろしさはまたイエス様の十字架が語っている。もしわたしたちがこの時代に生まれていて、この群衆に混じっていたら、イエス様を十字架にかけるというのは考えられる。群衆というのはわたしたち普通の人。その中にわたしたちも含まれている、その普通の人の中に眠っている悪意とか、人を抹殺したいとか、そのような怒りというのが、いわば集まってイエス様を殺したということです。これは大いなる悲劇を語っています。この受難物語を通して人間の悲劇というか、人間の恐ろしさ、罪深さがあらわになっていると思います。そしてピラトは群衆を満足させようと思って、ピラトを釈放して、イエス様を十字架につけるために引き渡した。マルコは簡単に書いてある、マタイとヨハネでは、ピラトは揺れているのです。マタイでは奥さんまで出てきて、昨夜夢を見たから、イエス様を十字架にかけないでくれと頼んだ。最終的にピラトはどうするかといったら、マタイの福音書では、私には責任がない。ユダヤ人たちが責任を取ると言った。ピラトは手を洗って、私は関係がありませんと宣言をして、死刑判決をユダヤ人に委ねるんです。でもこの悲劇の中でピラトは重要な役割だったんです。死刑判決を出すか出さないかという選択に迫られていて、結局は群衆の力に負ける。決断すべき時に決断していない人間の弱さをピラトはまた表しているところがある。結局私は関係ありませんという風に、手を洗ったんだけれども、この二千年間、日曜日の使徒信条で必ず、ポンシオピラトの元で苦しみを受けと、ピラトの名前は悪役の代表として二千年間、いまだに名前が唱え続けられている。責任を取らなかったことで責任があるということです。二千年間、悪役として名前を唱えられている。責任があるときに責任を取らなかった。逃げたのです。本当に決断ができる時に決断しなかったということで、いまだに悪役というレッテルをはられたまま、世の終わりまでということです。これも一つの人間の弱さの典型を描いているということです。わたしたちはそのような時にどうするべきかというのを、問われていると思います。その後19節以下は兵士から侮辱されるというのが出てくるのです。その後、それは前の晩から、侮辱されたり鞭を打たれたりしています。以前にパッションという受難という意味の映画がありました。イエス様の受難物語だけを忠実に描いた映画がありました。その中で一番むごたらしいのはむち打ちのシーンでした。 見るに堪え難いものでした。そうだったと思いますが、聖書では何を強調しているかというと、17節「イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、」どちらかと言うと侮辱されるという方が強調されています。だからわたしたちが受ける苦しみで、肉体的な苦しみの方が苦しいのか。人から侮辱されたり罵られている方が苦しいのか。辛いのか。案外微妙ではありますでも、イエス様は両方受けたということですが、この侮辱されるというのは人間性を否定されることですから、場合によっては肉体的より苦しいと言う。どちらかというものはないです。侮辱というのも大きな人間の苦しみです。それをイエス様が経験したというのが、一種の慰めというか励ましになるかもしれません。そのことがあったあとで21節から十字架につけられたということに向かうわけです。21節から「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 (†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」アントニオ要塞だと思われますが、そこで死刑判決を受けて、そこで兵士から侮辱された後、ゴルゴダの丘というところですが、エルサレムの城壁都市の西側にあたるところに、中で殺すことはできないので、外でということで、十字架刑の一つは見せしめ刑なのです。最初は市中引き回しの刑です。十字架刑の横木を背負って、街の中を練り歩くみたいな感じにして、みんなから侮辱を受けたりして処刑場まで歩いて行く。それもちょっと現代人の感覚からしたら、一種の見世物になっていたと思います。三人で行ってるわけですけれども、前の晩から拷問を受けたりしていたので、寝ていない食べていないわけで、一人で歩くほどできないほど体力が低下していたと思います。そこを大きな木を一本肩にかけて歩く力は、ほとんど残っていなかった。木を担いで歩き出して、三回倒れられていますが、とにかくそこまで木を担いで行かなければならない。でも息も絶え絶えで、途中で死んでしまったら十字架刑にはならないし、その場で十字架を人に担がせた。それがキレネのシモン田舎から出てきて神殿参りにしていたと思います。私の想像では図体が大きくて、頭が良くなかった。シモンだけがぼーっと立ってたので、お前でかいから担げと言われて、無理にかつがされたということです。下にとってはいい迷惑だったというのは間違いない。突然急にかつがされたというわけで、しかもみんなから侮辱されている。ゴルゴダの丘まで一緒に担がされたんだと思います。シモンにとってはものすごい嫌な気持ちだったと思います。とんだ災難に巻き込まれたという感じがあります。でも名前まで乗っているわけです。息子の名前が二人ものっているわけです。それがきっかけで回心した。十字架を担ぐことによって、シモンはイエスと出会ったということです。この時は彼はなんて運が悪いのかと、損なくじばかり引いてと思っていたでしょうけれども、その後初代教会の中で、シモンはすごく羨ましがられたと思います。何でかと言ったら、歴史上イエス様と一緒に十字架を担いだのは彼だけだからです。それがどんなに名誉なことかが後からわかった。それで彼は回心したんだと思います。息子の名前まで載っているということは、教会のリーダーだったとうということです。奇妙な運命だったと思います。その時は何で俺は損をしなければならないかと思ったことが、実はものすごく光栄なポジションいたということが後からわかった。明らかにキレネのシモンは、弟子の理想像として描かれていると思われます。本来これはペトロがやらなければならなかったことです。弟子というのは親分が危ない時にサポートするためにいるわけで、さっきのペトロ以下全員逃げた。この時こそ出番だったんです。一緒に十字架を担いでという。ここでペトロが担いでたら超美談になっていたと思います。これはもう弟子が弟子の役割をしていない。代わりの人が本当の弟子だったというのを語っているというわけです。しかもキレネのシモンは、わたしたちにも当てはまるということだと思います。誰でも災難を受け取るんです。選べないんです。苦しいことというのは無理やり担がされるのです。自分からやれることはほとんどないのです。それが侮辱であるか、病気であるか、人間関係の難しさとか、人によって違います。でもやってくるんだから、受け取らないといけない。受け取って、イエス様と共に十字架を担いで歩かなければならない。それをすることが弟子としての一番の姿を、キレネのシモンを通してわたしたちに語りかけている。だからこの十字架を共に担いで歩く。自分を捨てて自分の十字架を担いでイエス様と共に歩んでいくというのが弟子の一番の心得。わたしたちも受難なんです。苦しみや辛いことをどう受け止めて、どうイエス様と共に歩んでいくかということが、わたしたちに問われているということです。ゴルゴダというところに来たら、「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。」一種の麻酔薬ということです。痛みを和らげるため。十字架にかかるとは、手足を釘で打たれることです。激痛が走ったのは間違いないと思います。しかも拷問刑だから、すぐ死なない。何時間も十字架の上に吊るされる。見せしめ刑であり、拷問刑である。その苦痛が何時間も続く。相当苦しかったと思われます。そのような苦しみをイエス様は十字架の上で味わわれた。29節「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。」「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。」これは見せしめ刑の一つの娯楽だったんだろうと思います。そういう人々をやじったり、死んでいくのを見て喜ぶという、人間の気持ちの悪い趣味というか、気持ちの悪い快楽というのがあったのではないかと思います。それも散々侮辱されたということがイエス様の受けた苦しみ。肉体的苦しみと、人からの侮辱や蔑みとかが、両方がセットでくるわけです。そして言うわけです。「十字架から降りて自分を救ってみろ。」「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。他人を救ったのに自分は救えないのか」かえってイエス様の使命を語っている。何のために十字架にかかったのか。自分を救わないで人を救うためにかかったんだから、ここで十字架に降りたら何の意味もない。イエス様はわたしたちを救うために、自分を救わないで自分の命を捧げて、わたしたちのために十字架にかけられて、命を捧げられた。それがメシアでありイスラエルの王としてのイエス様の使命だったわけです。イエス様が十字架にかかったということは、わたしたちのため、わたしたちを救うために、わざわざ十字架にかけられて、苦しみを受けられたということです。それは後からわかるわけです。その時は多くの人はわかってないと思いますけれども、あとからイエス様の十字架が尊いものである、わたしたちの力であるというのが分かったということです。このようなイエス様の姿をわたしたちも心に留めながら、最終的にはどう自分の苦しみを受け止めて歩いていくかというのが問われていると思われます 十

 

2016 年 7 月 11 日(月)
 第 十二 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記