カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-09-12 入門講座 14 復活

英神父 入門講座 14 復活

 前回はイエス様の十字架上での死を見て、全てが終わったような、男の弟子たちはもうだめだと思って逃げてしまった。女性の弟子たちは、十字架を見届けた人が、多かったですか 、それでも気持ち的にはもうダメだと思って、イエス様の試練全部終わったわけではないです。スタートになった。しかもイエス様の復活という、想像を絶する出来事が、その後に起こったということです。それを今日はみたいと思います。ヨハネの福音書20章11節「 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」週の初めの朝早く、金曜日の夕方頃に十字架にかけられて亡くなった。そして金曜日の日没から安息日が始まって、安息日というのは休みの日で、文字通り何をしてもいけないという日で、ご遺体を降ろすこともできない。 安息日が始まる前に、日が沈む前に、なんとかお墓に葬って、金曜日の日没から土曜日の日没まで何もできない。ユダヤ人はそうなんですが、土曜日の日没後、安息日が明けたら、マルコの福音書では、香油を買いに行って、遺体の処理をしようと思って、それで日曜日の朝早く明るくなってから、マグダラのマリアは、他の福音書では他の女性達と一緒に行ったら、墓が空っぽであった。それでマグダラのマリアは驚いて、シモン・ペトロと次に行って、この二人も墓が空っぽなのを確認したというわけです。10節「この弟子たちは家に帰って行った。」マグダラのマリアだけでは、もう一度お墓に来ていたというわけです。そして11節で墓の外で立って泣いていた。なんで泣いていたかというと、13節「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」ということで遺体がなくなったということです。日本人が遺骨を大切にするように、イエス様が亡くなったのもショックですが、ご遺体もなくなり、非常にショックで泣いていた。12節「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。」ということで、マルコは一人の若者だったんですけれども、これは非日常世界というか、違う世界のことがどんどん混じっているように見えます。そして「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」とマグダラのマリアが言うわけです。前回お話したと思いますが、ヨハネの福音書全体のテーマは何かと言ったら、人間のテーマは、まさしくこれなんです。イエス様がどこにいるかわからない、神様がどこにいるのがわからない、というのがヨハネの福音書の全体になるわけです。それはわたしたち人間の現実を語っていると思います。つまり神様は目に見えないので、神様はどこにいるのかわからないので、だからわたしたちには安定がないというか、それはわたしたちの現実かもしれない。あるいは確かなものを見つけられないと言うか、わたしたちの安定しない人間の生活を、語っているように思われます。分からないものの中で囲まれているというわけです。14節でこう言いながら後ろを振り向くとイエス様が立ってるのが見えた。ここから不思議なお話に入ってしまって、死んだはずのイエス様が、後ろに立っていたということです。復活したイエス様があらわれるという、とてつもない出来事があるわけです。でもマグダラのマリアというのは、ちょっとしか見なかったと思います。振り返ってとあるので、お墓の方を見てるのですけれども、イエス様は後ろに立っていたわけで、少しだけ振り返って、15節「婦人よ、なぜ泣いているのか」わかりきっている説明です。マリアが園庭だと思っていた、墓の管理人みたいな人だと思っていた。イエス様が後ろに立っているとはまさかと思っていたと思います。マグダラのマリアはどこを見ているかとい言うと、墓の中を見つめているわけです。イエス様が死んでしまった後、ご遺体がなくなったということです。墓の中を見ているというのは、イエス様がどこにいるのかわからないということです。墓場というものは、人を汚れと、この世の終わりみたいな象徴だと思います。それを墓場を見つめているというのは、わたしたちが苦しみに捕われている姿だと思います。マイナスなことばかり眺めていてもしょうがないけれども。つい視点が集中してしまって、それだけになってしまうというのは時々あるということですし、調子が悪い時はそういう時になると思います。でも復活した人が後ろに立っているというのは、やはり不思議というか、自分の盲点みたいなところに、神様分かっていて、わたしたちは気づけない。どこにいるかわからないということで、苦しみだけを見つめてしまうという。苦しみの生き方の象徴的な生き方だと言えるかもしれない。振り返るというのは、わたしたちクリスチャンの信仰者の態度だと思います。現実をどう見ているかというあり方というか、後ろを振り返るとそこには神様がいてくださり、自分を守ってくださり、支えてくださるのに気づくと思います。でもイエス様だとは思わない。当然だと思います。16節でマリアと呼びかけたので、生きている時のイエス様と響き方が同じだったので、そこではっと気が付いて、マリアは先生という風に言っただけです。名前というのは、その人の実質というか、本質を表すもので、名を呼ぶというのは、その人の本質に触れるみたいなところがあるのです。マリアという呼び声で、はっと目覚めたというか、気がついたというか、そのような感じでもあったんだと思います。おとぎ話で名前に関するエピソードというのはいっぱいあります。「果てしない物語」とかファンタジーで、身近では「千と千尋の神隠し」で千尋という名前の女の子が、魔法の国に入って、魔女が名前をとってしまった。お前は「千」だと。名前を取られたらその世界に縛られてしまう。だからイエス様が、十字架の苦しみを通ることによって、マリアも男の弟子もそうですが、自分自身を見失う、離れてしまって、自分が自分でなくなってしまったのだろうと思います。「マリア」という一声で、それでイエス様と再会することができたと思います。だから復活の恵みというのは、人間の側からいったら、本来の自分という意味に戻るというのがあると思います。わたしたちの日常生活の中で本来の自分を見失っている、何がわたしたちの本来の自分かというは難しいですけども、見失えば見失うほど、捕われの世界になってしまうかもしれない。マグダラのマリアは驚きの気持ちと半信半疑であったかもしれない。遺体になって葬った人が急に現れてくるというのは、普通はないので、いろいろ混じった気持ちもあるでしょうけれども、それでイエス様が「わたしにすがりつくのはおよしなさい」と言った。なぜすがりつくなと言ったのか、マグダラのマリアがすがりついてたからですね。つまりハグをしていたわけです。でもハグをしていたということは大事なことで、イエス様が肉体を持たれて復活されたということです。幻を見たわけではないのです。幻だけだったらハグできなかったわけです。だからハグができたということは肉体があった。それが復活の恵みの大切なポイントになるわけです。幽霊のように現れきて、ぼんやりしていたのが出てきて、話しかけてきた。ありそうですが、そうではなくて完全に肉体も持って現れた。そして 肉体的に抱きしめたということです。それはマグダラのマリアをが確かめるためだったと思います。本当にこの人は、イエス様を確かめるためだと思います。だからすがりつくのはよしなさいと言ったと思います。イエス様はこれからしなければならないことがある。通らなければならないことと、マグダラのマリアに、も使命があって、弟子たちの所に行って、このことを告げ知らせようというわけです。復活した主に出会う人は、留まるのではなくて、遣わされるというか、そこから新たなミッションが役目をおびて、そこから出ていくということがあるわけです。そこが復活のお恵みの大事なポイントになるわけです。ここはなかなか感動的な場面です。ではマグダラのマリアはどんな気持ちで弟子たちの所へ行ったのかといったら、大喜びだったのは間違いないと思います。大喜びで弟子たちの所に行って「わたしは主を見ました」と告げて、主から言われたことを伝えた。この復活した主であったことを伝えるということは、喜びだと思います。 任わされるというのは喜びを分かち合うというか、嬉しいことをみんなに話したいから、あちこちに行ってみたりという感じだと思います。だからそれを聞いた男の弟子は、いよいよマグダラのマリアも気が触れたかと思います。復活するとは夢にも思っていたと思わなかったから、全然信じなかったと思います。でもマリアは必死で言ったと思いますけれども、その次は19節から次の話になるわけです。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」その日の日曜日の朝にマグダらのマリアに現れて、日曜日の週の初めの夕方の話でありますが、男の弟子たちはどうしていたかというと、ユダヤ人を自分の家の外に鍵をかけていたということです。引きこもっていたいわけです。朝方にマグダラのマリアが言われたのはとてもではないけども、その部屋にいたわけで、夕方になった。しかもユダヤ人を恐れてということで、親分が殺されたから、今度は自分たちが逮捕されて殺されるかもしれないという、恐れを強く思っていたのは確かで、それをわざわざ自分の家の戸に鍵をかけていたわけで、もしかしたら自分たちを逮捕する人が来るのではないかと思っていたのでしょう。細かいことを言うと、ユダヤ人を恐れてと書いているのはおかしいのです。マルコの福音書で祭司長とか律法学者を恐れてとか、ユダヤ人といったら弟子たちみんなユダヤ人で、イエス様もマリア様もみんなユダヤ人ですから、ユダヤ人を恐れてというのは言葉的におかしいです。でもこの講座では、ヨハネの福音書は使いませんが、ヨハネの後に書かれたものです。 AD 90年以降だといわれています。だから1世紀から2世紀くらいのころに、かなり遅い時期に聖書は完成しています。その時代はどうかというと、決定的にクリスチャンとユダヤ人は分裂していました。ユダヤ人を恐れていると書いている時は 、AD 90年の話が混ざってしまっています。つまりイエス様の時代は律法学者はファリサイ派と対立しているわけです。ヨハネの福音書が書かれている時は、すでにユダヤ人そのものと対立していた。ユダヤ人を恐れていたというのは、最初の十二人の弟子達だけではなくて、初代教会の人々も恐れていたということです。その迫害を恐れて、それで閉じこもっていたというわけです。わたしたちも恐れるものがあると思います。つまりわたしたちはユダヤ人を恐れていないけれども、何かを恐れてわたしたちも閉じこもってしまうことがある。さらに普遍的な、ある状況を描いていると思います。初代教会や十二人の弟子たちの話がごっちゃになっている。両方とも当てはまるお話であるということです。それでイエス様が来て、真ん中に立ち、それは次元超えてるんです。時間空間超えているんです。しかも肉体を持ってあらわれるんだから、ちょっと常識的にありえないものがあるかもしれません。真ん中に突然現れてたって、あなたがたに平和があるように、シャロームと挨拶をしたということなんです。特別な出来事ですよね。そう言って手と脇腹をお見せになった。なんでお見せになったかというと、 復活したイエス様の脇腹には、釘の傷跡があったからです。十字架の跡が残っているんです。十字架に架かったイエス様だと言いたかった。復活したイエス様の体には、痛みはなかったかもしれないけれども傷跡を見せた。そうすると「弟子たちは、主を見て喜んだ。」と書いてあります。すぐ喜べたかどうかはわかりませんが、ルカによる福音書では不思議がっていたと書いてあります。現れた人が本物かどうか疑っていた。ルカの福音書では、魚を食べたということです。肉体を持っているからごはんも食べているところを見せた。最終的には喜びだったと思います。この喜びは復活した主を見て喜び苦しみを越えて、違うものの見方から来る喜びを、弟子たちは強く感じたというわけです。だから苦しみを乗り越えたわけではないです。迫害で恐れや苦しみがあるわけだけれども、全然違うところに喜びを見出すとことができたわけです。「 イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」とマグダラのマリアと同じですから、ここから遣わされる。新たな役割に、新たなミッションに復活した主に出会った人の特徴になるわけです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」ということです。 神様からの特別な力なんです。息を吹きかけるとは、聖霊のことです。神様の息が聖霊なんですが、息を受けて聖霊の力を使い、神の力をいただく。その後に何があるかっていったら、23節これがまた特別なんですけど、罪の赦しが与えられる。人を赦すという話しなんですけど、この全体は何かっていったら、十人の男の弟子たちの罪が赦された。復活の恵みによってです。過去の裏切ったとか逃げらとか、全然責められないのは平和というのも入っているでしょうけれども、罪の赦しをいただいているから、恵みが与えられている。復活の恵みは何なのか、一つ目は何かといったら、彼らは恐れがあったんです。つまりユダヤ人を、自分もダメになるんじゃないかとか、恐れとか不安とか、もう全ての経過がなくなってると思ってた。恐れの代わりに与えられたのが、平和な心を神様から、復活した主から。そして別れの恐れが、強い悲しみもあったと思いますけど、悲しみや苦しみ、そこから喜びが与えられた。復活した主に出会って。彼らは、首を裏切った罪責感はあったと思います。あるいは最後まで従えなかった。罪を背負っていたとてたと思いますけれど、復活した主に赦しが与えられた。これらは復活した主の恵みとして与えられるものです。しかも、鍵をかける。つまり自分の中に閉じこもると言うか、恐れがあればあるほど、誰にも会いたくなく自分の殻に閉じこもりたくなるのは、人間の悪い時の一つの症状だと思います。閉じこもりじゃなくて、ここから遣わされる。つだから外に出て行って、そこから遣わされる。これも復活のお恵みで、閉じこもってた人が急に外に出て。そして彼らが感じてたのは、人間の限界とていうか、自分たちの力のなさ。全然うまくいかないっていう人間的な力でもあるし、自分たちの弱さ、不甲斐なさみたいなことを、強く感じていたと思います。その人間の限界ではなくて聖霊の恵みが与えられた。人間の力でやるのではなくて、神の力でやっていく恵み、聖霊が与えられたことは、自分の力で頑張るのではなくて、神様の力でやる恵みが与えられた。これらが復活の恵みとして、弟子たちに与えられたということが、こういうところからわかります。イエス様が復活したことを、客観的に証明できるかどうか、神学者でも色々議論があるんです。大方の意見は、復活を証明することはできない。イエス様が十字架に架かられたことは、証明出来ます。クリスチャンではないユダヤ人が書いた、歴史の本の中に出てくる。ナザレのイエスという人が十字架に架かって処刑されたという記述があるからです。でも復活については書いてないし、 復活の証言をしてるのは、初代教会の人々だけですから、多くても千人だったかもしれない。その人たちが亡くなったら、証言が成り立たないわけで、聖書に書いてあったとしても、信仰者の証であって、なかなか証明はできません。これが神学者の一般的な意見です。全く証明できなくて、マタイによる福音書ではユダヤ人、祭司長や律法学者たちは、イエス様のご遺体が盗まれたと、番兵にお金をあげて言いくるめた。自分達が寝ている間に弟子たちが、勝手にご遺体を盗んで、勝手に復活させたと言っていると、ユダヤ人の間では広まっている。そう言われたら反論はできません。では何が言えるのか。復活そのものが証明できないとしたら、教会として何を言えるかと言ったら、恐れにとらわれている人に平和が与えられたり、悲しみが喜びに変わったりすることがこの二千年間ずっと起こっています。復活そのものは言えないかもしれないけれども、復活体験はあったと言えることができる。つまり十一人の弟子たちは、全く変わった。こういうことを弟子たちが実際に体験して、人間が変わったようになった。マグダラのマリアから、他の弟子たちにしても。最初の弟子どころか、二千年間これを体験する人がいまだにいる。復活そのものには大多数ですけれども、今でも復活体験にあずかる人は、信仰者として歩んでいる皆さんの中で、このような恵みをどこかで受け取ったということを自覚している方は多いと思います。だからこそイエス様の復活したということは、客観的に人を通してわかる。科学的に歴史的には証明できないけれども、二千年間今だにそうだということが言えるんではないかと思います。皆さんも平和や喜びや許し、どこかに遣わされて精霊の恵みを受けることが今も起こっているし、皆さんも体験できるし、体験しつつある 人もおられる。それが復活のお恵みだということです。そして24節「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じな。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」復活したイエス様と出会った時に、一人トマスだけいませんでした。そこで ディディモ、 双子という意味ですが、トマスは疑り深いような人で、 他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と人に言われても信じないわけです。 疑り深いというより、この人が常識的だと思います。それですぐ信じたらかえっておかしい気もします。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、」と言うんですけれども、幻ではないということを確認しなければ、見て指を入れて感覚的に確かめなければ、肉体的に復活したことは言えないと言っています。トマスの言っていることは論理的で思います。そうでないとわたしは決して信じないというわけです。26節「八日の後」というのは、今で言うと一週間後です。ユダヤ人の数の数え方は、数えで数えます。今日は一日目で、次の日が二日目になります。「八日の後」といったら日本でいったら一週間後次の日曜日です。 20:26「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」同じような形でもう一回現れました。弟子たちは大喜びだったでしょうけれども、トマスのために現れた感じです。イエス様はトマスの疑問を知っていたから、 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」ちゃんと見て感覚的にも指を入れてその傷跡を確かめなさいと言われました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい。」信仰を持つようにとすすめるわけです。 「トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。」これはもう信仰告白です。 イエス様を主として信じますと、短い宣言だと思います。 「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」特にヨハネの福音書がそうですが、神様との出会いというのは、個人的なんです。まさしくトマスの復活体験になります。 わたしたちがこの通りになるということはありませんが、つまり見ないで信じるのは幸いだということですから、最初に見たのは、イエス様が肉体的に肉眼で見たのは何百人もいたでしょうが、わたしたちも見ないので信じる幸いにあずかることができる。 それはわたしたちも復活体験に預かれる。ということはトマスのように、わたしたちも個人的な形でイエス様は目に見えるかわからないけれども接してくださる。働きかけてくださるからです。そして平和とか喜びや罪の赦し、人によると思いますが過去に大きな過ちを犯して、それを赦してもらえる恵み。 復活の恵みから来ているということです。あるいは自分自身の人生が、行き詰ってどこにも行けないと思っている時に、新たな方向性に向かって歩んでいく恵みが与えられているということです。それらすべては聖霊の恵み、神の力が自分自身の中に働くからだと思います。この時トマスが思ったのは、実際に見て触れたのだと思いますが、イエス様が何のために十字架にかかられたのがわかったと思います。それは自分のためだということはイエス様が十字架にかかって、イエス様が復活したのがまさしく自分のためだということがこの時はっきり分かったんだと思います。だからわたしの神よ、わたしの主よ、という言葉にわたしのというのはそういうことだと思います。 だから十字架にかかったということは、皆さんの一人一人のためだと思えるのが信仰であるとも言えるしてお恵みだと思います。それでわたしの神、わたしの主と、心から言える恵みが与えられるということだと思います。遠藤周作は「私の イエス」 という本を出した。ちゃんと私の、とついてますから、自分にとってイエス様がどういう方かということを、その信仰告白のようなエッセイの中で、書いているわけです。彼にとってはこうだということですが、皆さん一人一人にとっても、それが目に見えるかどうかはともかく、復活した主との出会い、恵みを受けて、どこかで感じて、そしてこのような復活の恵み、力がわたしたちにも与えられているということです。だから見ないのに信じる人はということはそういうことです。つまり直接的には復活したイエス様に出会っていないけれども、わたしたちもトマスのように、違う形でこの二千年間、多くの人が復活体験に預かってきたわけで、皆さんもその体験に与れる保証があると思います。そしてそのような幸いを得ることができると思います。 思うにクリスチャンになる恵みは、この辺りにあるということです。いつも思いますけれども洗礼を受けて、現世利益を受けるわけではなく、聖霊の恵みが与えられるのは確かなんです。人によって体験は違うから、そのようなものが与えられることは事実です。そのような恵みの中での幸い。主を見て喜んだ恵みが与えられる。30節 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」これがまとめのようなものです。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」多くの印を語ったんだと思いますが、四人が福音書をまとめて書きました。なんで聖書が書かれたのか、特にヨハネの福音書が書かれたか。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」一つはこうです。イエス様こそ神の子、神と同じ存在であっ、メシア、救い主という意味ですが、つまり自分の救い主であるということを信じられるようになるためにこの聖書が描かれて、この講座もそのためにあるわけですが、しかも「信じてイエスの名により命を受けるためである。」「イエスの名により」というのは先ほど言ったのと同じですけれども、イエス様の本当の力が働いて、自分自身が命を受ける。この命というのはこの世的な命ではない。神様からいただく、聖霊の恵みで働く生命、永遠の命ということです。死んだ後にいただく永遠の命であるし、わたしたちがこうやって生きている間に、神様からいただく生き生きとした本当の命の恵みみたいなものをいただけます。それは信じることによって、イエス様の名によって、イエス様の恵みによって 、わたしたちが与えられる。その生き生きとした命を生きていくようにという意味で、福音書が書かれたということになります。ここで終わってるはずなのに21章が付け加えのようになっていて、ヨハネの福音書は切り貼り的で統一されていない。これが聖書の目的だというところです。ヨハネの福音書で信じるという言葉の使い方は何かというと、信じるということは、結局はイエス様と共に歩むということです。イエス様と共に生きていくという感じで信じるという言葉を使っています。ヨハネによる福音書では信仰という言葉は一つもありません。信じるという動詞で書かれていて、何かイエス様と共に歩んでいくという感じです。だからイエス様のメシアとしての力が感じられるし、実際助けられます。あるいは命をいただく恵みがというのは信じると言うことを、日常生活の中で生きていくからこそ、それが何か実感として、そのようなことを復活体験としてわたしたちも様々な場で体験できる。イエス様の復活の力をいただける。そういうものとして福音書があるし、それを皆さんも少しでも感じていただけたらいいと思います十

 

2016 年 9 月 12 日(月)
 第 十四 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記