カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-09-26入門講座 15 使徒言行録

英神父 入門講座15 使徒言行録

 今日は復活のお話をさせて頂きますが、二千年前の復活を今から証明できるのは不可能ですが、あったかなかったか、今から客観的に決めることはできないです。何ができるかといったら、復活を証明した人はいっぱいいるということです。復活体験をして生き方が変わった人はいっぱいいます。十二人の弟子とかたくさんの人がいるということです。それで思い出したことは、自分自身はどうかというと、二十歳の時に洗礼を受けたんですが、その頃は正直復活ということはピンと来てなかった。聖書の箇所も少ないし、ぼんやりした感じで、十字架、受難物語とかは気持ちが入るところでしたが、復活というのがピンと来てなくて、洗礼を受けて、一、二年して自分の生き方が変わったというか、ものの見方、考え方、自分のあり方が変わったのが後になってわかる。それが私にとっては復活体験である。私は復活体験をしたなという気持ちはあります。みなさんが洗礼を受けられ、復活の恵みで、自分を変えられた事を祈りますけども、洗礼を受けられて、なんだか変わった、恵みを得た、復活体験をされたということを、どこかで振り返られたらいいと思います。あるいはキリスト教に興味のある方には、復活体験に自らも預かることができるというお恵みが、与えられるところはあると思います。その復活の後の話を今日はしたいと思います。使徒言行録 1章3節から5節 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」使徒言行録というのは、ルカが書いたと言われています。それは間違いないと思います。ルカは一巻目を、ルカの福音書として書いていて、続編みたいな形で、弟子たちのことを書いているので、これが使徒言行録ということになっています。他の福音書を書いた人はそれだけだったんですが、後の事を書いてくれているので、後のことが色々わかるということが、使徒言行録で初代教会の話とかが分かります。あとパウロの手紙から分かります。三節「イエスは苦難を受けた後」苦難というのはイエス様の十字架と死です。でも三日目に死んだと思ったイエス様が、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって示されたということで、しかも四十日にわたって彼らの前に現れた。四十日間、復活したイエス様は弟子たちに度々現れた。そして神の国について話し合われた。イエス様が十字架にかかって亡くなって、三日後にイエス様が復活された 。復活したイエス様は四十日間現れた。コリント人への第一の手紙 15章6節「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」かなりたくさんのところでイエス様があらわれた。一緒に食事を共にしたり、復活したイエス様は体があったので、幻ではない。だから一緒に食事ができたんですけれども、特に神の国について述べられています。その時にこう言ったんです。エルサレムを離れず、それは何かといったら、聖霊によって預けられる。聖霊を待ちなさいということを約束されました。何かといったら、聖霊による洗礼を授けられる。聖霊を受けるということをここで約束された。次の事があるんですが、6節から四十日後の話があるんです。 「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」四十日後に使徒たちが集まって、復活したイエス様がいらした。そうしたら使徒達はこう言うんです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」というのですけれども、復活したイエス様は神の国の話をしていたんですが、使徒たちはイスラエルの独立国家を作ってほしいという気持ちがあって、復活したイエス様に会っても同じだった。生きてる間は同じだということです。だから政治的な、軍事的な民族的な、自分たちの国と再建してくださると、イエス様がやってくださると思ったら、ここでもギャップがあるです。ここでいう神の国がイスラエルだけではない。世界全体で広がるものなんですけれども、ギャップがあったんでしょう。でもイエス様はそういうところに触れないので、8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」聖霊の恵みを受けるということを強調するわけです。そうしたら「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」というわけですね。聖霊の力を受けた後、イエス様の証人になる。このクリスチャンになるということは基本は何かと言ったら、イエス様の証人になるということが基本です。これは特にのルカの言葉遣いですけれども、これは何の証人かというと、イエス様が復活して生きておられることを証言するということです。そういう証人でがあります。誰かが証人にならないならなければならない。言葉もそうですけれども、行いの証人、両方の証人になる。だから自分の体験した復活体験のお恵みを証人として、他の人に伝えるということが基本になるわけです。それも地の果てに至るまで証人となるわけで、日本だったら、わざわざフランシスコ・ザビエルが来たのも、証人として伝えるために来たということになります。イエス様の救いの力は、復活体験もそうですけども、人を通して伝わるということです。証人になるということは大事だということです。誰か証人を通してということです。もちろん難しいこともあります。私はミッションスクールの男子校だったから、洗礼を受けた後に未信者の人と結婚するんですけれども、証人になってないから、家でだらしない姿しか見せてないので、それによって奥さんに影響を受けることがないので、証人になりきれてないところがあります。証人になって伝えるということが大事なわけです。それは簡単なことではないですが。だから聖霊の力が与えられるということで、人間の力ではなくて、聖霊の恵みによってということです。使1:9「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」四十日後に天にイエス様が登ったということになるわけです。 だからこれはヤバイと思います。山の中だったら、これは現代人には何かお伽話になりますが、「雲に覆われて」雲に入って登られた。これを昇天といいます。四十日後に昇天されたことをいまだに記念しているんです。復活したのは日曜日と決まっているので、四十日後というのは木曜日にあたるんですけれど、木曜日はさすがに日本みたいに信者が少ないと集まりにくいので、日曜日にずらしている。正式には木曜日にお祝いする日にあたっています。天に昇ったイエス様は考えるとピンとこないところはあると思います。意味は何かと言ったらですね、天と地というのは二分割で考えているわけで、天は何かといったら神様の世界。天の下は人間の世界で、天に昇ったということはイエス様は神様になった。あるいは神様に戻ったということです。あるいは別の表現は神の右の座についたというわけです。神の右の座というのは、神様と同等ということです。右大臣は大事で、ユダヤ教では右側というのが大事です。イエス様は神様になった、あるいは神様と同じ存在になったということで、これも結局復活の力の一つの大切な所であるということなんです。何が大切かと言ったら、もし天に昇っていなかったら四十日間どころか二千年間あっちにあらわれ、こっちにあらわれ、一緒にごはんを食べたり、話を聞いたり、それが二千年間続くというのは、考えにくいと言うか、だからそれは四十日間だけでよかった。その後は何かと言ったら、神様と同等の力を持ってということが、時間空間を超えて、キリストの力、神の力がいわば地の果て、どこにでもいらっしゃる存在になっているから、わたしたちはどこでも神様とイエス様と出会うことができるということです。イエス様の存在は神様と共にいるところが一番落ち着きどころがいいと言うか。そうでないとにこの二千年間、神様の力が世界中に、あるいは未来に渡ったり、過去に渡って働いたり、神様の力が働いているから、カトリック教会にしろプロテスタント教会にしろ世界中どこにでもある。地の果てまで証人となって歩いて行ける。イエス様が全世界に力を及ぼし発揮されると言えると思います。イエス様の復活ということは、主の昇天がなければ、ある意味、完結していないというのが言えると思います。そういう意味で昇天というのは、復活しただけでいうわけではないということです。神様としての力と、本当の意味で、世界中の苦しんでいる人々に発揮するために必要であるということです。ついでに雲に覆われてとあるんですが、雲というのは神様の存在をあらわすシンボルなんです。でも雲というのはある事が分かるけれど隠す存在でもある。神様は見えない存在でもあるということでもある。 有ることは有るけれども、雲に隠されたら見えなくなる。神の現存の特徴をあらわすのです。10節「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」さすがにこれもあっけにとられていたのでしょう。喜びながらというよりは、急に天に昇られて見ていたんだと思われます。「白い服を着た二人の人がそばに立って」天使でしょうが、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」聖霊の約束以外に、世の終わりになったら、 今度はイエス様が降りてこられるという約束がある。世の終わりにイエス様が降ってくるというわけです。使1:11「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と言うんですけれども、それも想像しにくいことではあります。これがオリーブ山の、ちょうどてっぺんの所から天に上げられたと言われています。12節「使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」この出来事があったのは12節にあるように、オリーブ畑といわれる、オリーブ山とかエルサレムのすぐ横なんですけれど、オリーブ山のふもとがゲッセマネの園ですけれどもエルサレムに戻ってきたということで、今でもオリーブ山の上から、主が昇天したという、小さな教会が立っています。東エルサレムにあたるんですが、ここはだいたいアラブ人地区です。そしてエルサレムに彼らが戻ってきて、イエス様が再臨されるのがオリーブ山と考えている人が多い。オリーブ山にまたイエス様が降ってくるだろうと考えている人が多いです。彼らが戻ってきたら13節「 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」多分二階だろうということです。日本語で高間というんです。彼らは集まって何をしていたかというと、ペトロ以下十一人の使徒と婦人たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。彼らはこの後ずっとお祈りを捧げていたということです。クリスチャンで最初のお祈りだと思います。何を祈っていたかというと、聖霊の恵みを受けるということを祈っていたんであろうといわれています。ここからカトリックの伝統で、ノベナの祈り九日間。ノベナの祈りというのは、ラテン語で9という意味ですが、ノベナの祈りを祈っていたというわけです。九日間を祈る伝統はできて、熱心な信者は人はいるけれども、主の昇天が木曜日じゃなくて日曜日になっているからずれているけれど、木曜日の次の次の日曜日のもの、9日の間に聖霊の恵みを願って、祈りとして生きるということです。ではここからカトリック教会からノベナの祈り、9日間の祈りが伝統的な信心業ができて、この教会ではイグナチオ・ロヨラの祝日7月31日の前に、ノヴェナの9日間の祈りをする。あるいはフランシスコ・ザビエルの祝日12月3日の前にノベナの祈りをする習慣があります。マザー・テレサ列聖されて聖人になって、それに合わせてマザー・テレサのノベナの祈りが出て、聖人の9日間の祈り。何かのときに祈るという習慣もあります。早速やってみましたが、書いてある通りにやってみましたが、やはり効果抜群でした。前からマザー・テレサの祈りが効くと評判ですけれども、だから皆さんも何かのお恵みを、マザー・テレサの9日間の祈りはお勧めします。聖人になりましたから。ノベナの祈りの原点はここだと思います。男の弟子も女の弟子も合わさって、お祈りを捧げていたということです。有名なのはリジューのテレーズの祈りもあります。小さき花のテレジアがあります。それもかなり効きます。感じとしてはそうです。だから毎日祈るだけで変わってきたりします。そういうものがある。その後、使徒言行録ではユダの末路ですね。ユダの死のことと、死んじゃったから、マティアスを選んだというお話。マチアスはくじ引きで安易に選んだと思います。そういう選び方でマチアスを選んだということです。大事なのは2章の1節から、聖霊が降るというところが入っているんです。この九日間の祈りの後で 使2章1節から「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」使2章1節 五旬祭というのが出てきます。それで五旬祭の日に当たって、聖霊が降ったということで、10日後、聖霊が弟子たちに降ったということなんです。この日が五旬祭というんです。五旬祭の五旬は何かといったら、単純に五十日ということです。何の五十日かというと、ユダヤ人から考えたら過ぎ越の祭りなんです。過越の祭りというのは、十字架復活に被っているのですけれども、これもユダヤ人にとって大事なお祭りで、エジプトで奴隷状態になって、三千五百年から三千七百年前に、エジプトで奴隷状態から助け出されたことを記念して、過越の祭りを、春分に近い、満月の次の日曜日に、毎年毎年今でもユダヤ人はお祝いしています。五旬祭っていうのは、それから五十日後だから、五旬祭と呼んでいます。これもユダヤ人にとって、重要なお祭りなんです。重要なお祭りだから、あらゆる国から帰ってきた。信心深いユダヤ人が住んでいたというのはおかしい、滞在していた。なんで滞在していたかというと、五旬祭のお祭りがあったから、9節パルティア、メディア、メソポタミア、地中海沿岸の都市の名前が出てくるんですけれども、何でそういう名前が出てくるかというと、五旬祭のお祭りだから、その時の世界中の人が集まっていたということなんです。そこで何が起きたかというと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」聖霊を簡単に言ったら神の息吹というか、風みたいなもんなんです。だから激しい風が吹くとか、あるいは炎も炎のイメージでもあります。聖霊というのは実体的だというよりも、風が吹いてきたりとか、炎が燃え上がったりするような、神の力が、そこで祈っていた人たちや、男の弟子、女の弟子、合わせて降ったというわけです。降ったらどうなったかというと、4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」普通ではない非日常的なものがあります。何かといったら「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞い」た。

ナザレ地方の方言というのが世界中の人々の言葉で分かり合えたということです。説明的には完全なコミュニケーションが突然とれるようになった。人間の言葉を超えてです。別の言葉でいったら、神の国が、ここでいえば実現したということです。天の国といってもいい。先輩の神父様がおっしゃっていて、天の国の定義は一つには、完全なコミュニケーションであるということで、それが実現したということです。不思議な共同体体験と言えるけれども、そういうものが現れたという、非常に不思議な体験だけれども 、なかなか考えさせられることです。私が神学生の頃、時々外国から宣教師の先生が来て、コロンビア人の先生が日本に来る時に、日本から辞めろと言われた。高齢だと語学の学習が困難だと言われた。だからもうコミュニケーションが難しいのではないかといわれたりした。日本は文化が高いから、君みたいなのが行っても、香部屋の仕事しかないと言われた。日本に来て、日本語はそんなに上手ではなかった。けれども彼が言うには、ではスペイン語を話しているからコミュニケーションを取れてるかというと、そういうことはない。確かにそうで、日本語はお互い喋れてるから理解しているかと言ったら、そんなことはないわけで、言語が違ったらわからないけれども、同じコミュニケーションが成立しているとは言えません。それは経験することだと思います。人によっては夫婦ですらコミュニケーションが取れない。お互い理解しない、できないということもあります。教会の中でも友達の中でもあるわけで、同じ言葉を喋っているから、コミュニケーションが取れるわけでもない。では何が問題かと言ったら、言語の問題ではなくて、心のあり方のほうがもっと問題であると言えるかもしれません。心の壁がなくなったら一気に赦しあえる。受け入れられる。お互い愛し合って助ける、助けられるというのは、完全なコミュニケーションだというのは、意味だろうと思います。それが突然この時に現れたというのが、聖霊の恵みの一番すごいところです。それは神の国だと言えると思います。 聖霊の恵みの中で、心の壁がなくなるか薄くなるか、そのことでわたしたちは互いに愛し合ったり、助け合ったりすることが現れたということです。これがだから神の国の出現の、最初のあり方だと言えると思います。もう一つ言うならば、完全なお互いの理解が壁を取っ払って、理解しあえることの反対が書いてあるのです。何かと言ったら創世記の11章1節から、後で読んでいただいたらいいのですが、いわゆるバベルの塔、人類が作るという話が出てきて、そのバベルの塔を作るという話は、言語は一つだったと言うんです。みんなお互いコミュニケーションが取れたという世界が描かれています。その時の言語は何だったのかという議論はあるけれども、スペイン人はスペイン語だったとか、とにかく全員が理解できたんだけど、何が問題かと言うと、天に至るまでの道をつくろうとしている自分なんですね。その何のためかと言ったら、有名になりたいから。神様に至る人工的な塔をどんどん作った。そして神の怒りを買って、塔が壊されて、それで言語がバラバラになって、バベルの塔のバベルは、バラバラという意味ですが、バラバラにされてしまった。そこからお互いのコミュニケーションが成立しなくなったということが書いてあります 。バベルの塔は象徴的な意味ですけれども、天に昇るのは神様なんです。人間が昇ろうとするから、バラバラになってしまう。人間の傲慢とか有名になりたいとかいう気持ちがあって、結局は人間の心がバラバラになってしまう。天に昇るのは神様なんです。わたしたちは下にいて、祈り求めるだけだから、聖霊は上から下に降っていくようにできている。だからわたしたちが上に行こうとすると、バラバラになってしまう。それがわたしたちのいわば現実と言えるかもしれない。 人間の欲望とか人間が何かをしようとすると、結局はバラバラになってしまう。わたしたちはその逆をしなければならないということです。 これは資本主義の宿命なんです。日本は土地を広められないから、空間的に高さを広げて、それで利益を得るということですけども、これももう破綻するのではないか。バベルの塔と同じ運命になるのではないかと思います。 天に行くのは神様なんです。人間が行こうとすること自体が人間性を破壊するというのがあるのではないかと思います。神の恵みは上から降ってくるものだから、わたしたちは謙遜に願うというのが大事なのではないかと思います。もう一つの事を言うと、ユダヤ教の五旬祭は何をお祝いしているかというと、過越の祭りというのは、エジプトから脱出できたことを、つまり奴隷状態から解放されたことをお祝いすることです。正確ではないですけども、五十日後何をしたかと言うと、モーセがシナイ山で十戒の歌を直接受けたことをお祝いするのが五旬祭なんです。十戒とそれに基づく律法を神様からもらった。神様と約束をして、いわば十戒にもとづいて生きる。生きる指針というかそれを与えられたことを、ユダヤ人がお祝いしているんです。そこに聖霊降臨が被っているわけです。過越のお祭りの方は、出エジプト記の奴隷状態からの開放から、キリストの恵みがかぶっているんですが、五旬祭とはなにかと言うと、まさしく十戒や律法の代わりに、聖霊の恵みが与えられたことをお祝いしているんです、ということはどういうことかと言うと。十戒ということは悪いことではないから、クリスチャンにとっても大事なものでもあるんですが、律法とか十戒を中心に生きるというの必要性はなくて、聖霊の導きを中心に生きることを中心にするようになったわけです。だからクリスチャンの生き方の根本は、聖霊の恵みと導きと生きていくようにあったんで、聖霊を受けるということは、ものすごく大事なことなんです。だから十戒を守るということは、ただの倫理で道徳なんです。良いことをしましょうと言う。悪いことをしないとか、十戒になるわけですが、クリスチャンの言い方は聖霊の恵みで、神様の力の恵みで生きていけるということを表しています。これも大いなる恵みだと思います。聖霊降臨の後にペトロの説教があって、それを聞いた後、イエス様こそメシアだとか、聖霊が降ると言われた後に使2章37節から「 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」この聖霊を受けてペトロの力強い説教を受けて、人々は心を打たれて、ではどうしたらいいのかと聞くんです。そしたら38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」だから1章の5節「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」に繋がるのですが、キリストの教会で洗礼が始まったのはここからなんです。イエス様は洗礼を授けてなかったか。ヨハネの洗礼というのは罪の悔い改めなんです。いわゆるミクベという、汚れを清める、禊ぎみたいな、水浴びみたいな、罪の汚れを、罪の赦しというか、汚れを清めるだけなんですけれども、でもキリスト教の洗礼というのは、罪の赦しも入るんですが、最も大事なのは、聖霊の恵みをいただく。つまりさっき言った恵みをいただくということが一番大事なポイントだと思います。でも洗礼を受ける人は、聖霊の恵みをいただいているということだし、洗礼を受けたいということは、聖霊の恵みを頂きたいということにつながるわけです。しかもはっきり言うんです。39節「 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」特別立派な人にだけ洗礼を与えるのではなくて、誰にもどんな人にでも、悔い改めて洗礼を受けることによって、この聖霊での恵みが一人一人に豊かに与えられるということです。だからクリスチャンであるということは何かと言うと、聖霊の恵みを頂いて生きる人。生き生きとした神の力をいただいて、それが指針であり、力の源である。お導きであり助け手でもある聖霊の恵みを頂いて歩むことができる。これが本当にお恵みです。だから悔い改めと、謙遜な気持ちも必要ですし、イエス様に従っていくということも大事だし、このような中で聖霊の恵みがわたしたちに与えられるということです十

 

2016 年 9 月 26 日(月)
 第 十五 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記