カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-10-17 入門講座 16 初代教会

英神父 入門講座 16 初代教会

 今日は教会のその後の動きを話したいと思います。使徒言行録2章37節「 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」2章1節の聖霊の特別な恵みがあったということを前回お話ししたのですが、そしてペトロの長い説教があって、37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。」ペトロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」ここで初めて洗礼を受けるということが登場する。イエス・キリストが生きていた間は、洗礼を授けていなかったであろうと考えられます。聖霊をいただいたところから弟子たちが洗礼を授けるところから始まります。洗礼は何のためかと言うと、悔い改めて罪を赦してもらうことと、そして精霊をいただくということです。ここから洗礼を受けるというのが始ったわけです。使2:41「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」相当な数の人がその日に洗礼を受けたというのです。この時はどういう形かわからないですが、多分、ミクべという清めの式、ユダヤ教にある水を浴びて清めるのと同じような習慣がユダヤ人にもあって、それがいわゆるバブテスマの原型になっているのだと思われます。しかも額に水をちょっとかけて洗礼ということになります。いわゆる沐浴なんです。多分これがやったのはベトサダの池か何かと思います。イメージ的にはインド人がガンジス川で沐浴する感じで、洗礼を受けたのだろうと思われます。ここから聖霊の恵みを受けて洗礼が始まったということと、三千人が仲間に加わったということで、ここからいわゆる教会が生まれたということです。建物としての制度はまだまだ先ですが、信者の制度もここから始まった。ここからいわば、キリスト教という宗教が始まったと考えられるわけです。最初の仲間は何をしていたかというと使2:42「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 」ということですが、初代教会の人は四つをしていたということです逆に言ったら洗礼を受けた人は四つをするということです。あるいは教会が何をするかといったら、この四つをするということです。使徒の教えということで、最初は旧約聖書しかなかったんです。当然十二使徒から教えを学んだと思いますが、厳密には使徒たちの教えではなく、イエス様の教えを学んだということです。イエス様はこうだとを聞いて、それを実践していたというわけです。教えを学ぶだけではなしに、実践するということです。だからこの講座もその流れでやっているというわけです。それが二千年という長い歴史の中で、カトリックの場合は規範版として現代的にカテキズムというものを、それを学ぶというわけです。バチカンから出ているのはカテキズムという何百ページもある本です。バチカンの共通のものなので、日本の司教団が出したのはカトリック教会の教えの日本版なのですけれども、初版は2002年ぐらいで、要約版は2007年 コンペンディウムというのですがカテキズムの要領ということなので問いと答えになっているのです。疑問点があったらみていただければ答えが書いてあるということです。問答形式というのはカトリックの伝統的なものなんです。これがもし一冊だけだったらこれが一番簡単だと思います。こういうのが一応ある。倫理的な指針も書いてあり、例えば死刑制度については反対の立場をとっています。本文はイエス様のことですけれども、大まかな基本的なところを教えてお伝えしたいと思います。教えを学んで生きていくということが一つ目になります。二番目は相互の交わりということです。これはギリシャ語で「コイノニア」で英語で「コミュニティー」の言語になります。相互の交わりというのは日本語では共同的な交わりともいえるし、共同体的な関わりという言葉になる。具体的に何かといったら44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」これが具体的なコイノニアというあり方なんです。物も分かち合っていた。つまり困ってる人がいたら助け合っていたということです。4章にも出てくるんですが、今はこんなことはしていないんですけれども、コイノニアというのはお互いの共同体としての助け合いというものが非常にあったのです。だから教会とか信仰生活の中に信者同士の助け合いが本質的だということです。お互いのことを知っていて、助け合うような関係が本質的のこととしてあるということです。キリスト教でイエス様を信じるということは、神と自分との関係だけではなしに、横のつながりも大事にしなければならないということです。私自身はお互いの繋がりを持って欲しいと思うのです。お互い同士が知り合いとか繋がり合いがあるということが、やはり信仰生活の一つの大事な点であって、しかも助け合いの関係であるということですね。このイグナチオ教会は大きすぎて、ミサに出てすぐ帰っても何も言われないわけです。本当は誰かとの繋がりとか知り合いの人がいるのが、信仰生活の大切なポイントだと思います。その次はパンを割くことと祈ることに熱心だと言うんです。パンを割くのに熱心だと言っても、意味はないわけで、パンを割くとはミサ聖祭の原型のことなんです。最後の晩餐でイエス様がこれを記念として行いなさいと言われた時に、パンを割いてみんなに渡したんです。パンといってもピザみたいなもので、ナンのようなものです。割かないと食べれなかったから、それを割いて食べた。パンを割くということは、ミサの原型、今のようなミサではなかったでしょうけれども、いわゆる聖餐式という形で、キリストの体を分かち合って食べる式を、一番最初からやっていたということです。他の所でも明らかなんですが、他の初代教会の文献でも明らかで、祈ることに熱心だった。だからパンを割くことと、祈ることは別に考えていたんです。パンを割くというところの中に一番強調されているのは、イエス様の受難の象徴です。割くということは、痛みというか、苦しみの象徴を連想されることで、パンを割く式というのは、イエス様の御受難を思い起こして、そのお恵みを分かち合っていただくいうイメージとして、初代教会で使われていました。四番目が祈ること。ミサと祈ることは別なんです。祈ることというのは何をしていたかというと、たぶん主なことは、ユダヤ教のお祈りをそのまましていた。ユダヤ教のお祈りの中心は何かというと、詩篇を唱えるかしていた。これがユダヤ教のお祈りの中心なんです。ここでいう祈りのメインは詩篇を唱えたり歌ったりすることになります。46節「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き」とあります。エルサレムの周辺に住んでいた人々だから、毎日神殿に参りというのはユダヤ教のエルサレムの神殿にお参りをして、みんなで詩篇を唱えるようなユダヤ教のお祈りを熱心にしていた。クリスチャンの独自のことというのはパンを割くということなんですが、もちろん当時は聖堂がまだないので、信者さんの家の大きめの人の家に集まって、日曜日の朝に集まって、独自にパンを割く式をしていたというふうに考えられます。だからこの時代から、この後コリント人の教会への手紙とか色々ありますが、これは家の教会の時代と言われています。まだ聖堂がない、家で集まって、パンを割く式をしていた。最初はユダヤ人が多かったから、ユダヤ教のお祈りをしていました。信仰生活の基本は何かといったら、今も同じなんです。日曜日にパンを割く式に参加して、日頃お祈りを捧げるということです。基本的には朝の祈りと晩の祈りを捧げるというのが、初代教会が今まで続いている伝統です。ついでに言うと詩篇を唱える伝統というのは、どういう風につながるかというと、司祭修道者は聖務日課という教会の祈りというのがあるんですけども、唱えるのが義務なんです。わたしも義務で毎日唱えなければならないです。メインは何かといったら詩篇を唱えることです。これも二千年続いている伝統であるということです。ミサ聖祭と詩篇を唱えるお祈りというのは、いまだに二千年、形はいろいろ変わっているけれども、続いている伝統であるということです。それはもうどこに活かされているかというと、ミサの答唱詩編は詩篇を歌っているわけです。伝統がずっと続いて、いまだに続いていることです。そして次に付け加えると、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」と書いてあります。これも初代教会は、家ごとに集まってパンを割く。ミサの聖餐式をしたあと、一緒に食事会をしていたんです。文献的に明らかで、食事会のことをアガペーと言います。ギリシャ語で愛という意味ですが、たぶん持ち寄りでやっていたんでしょうけれど、持ち寄りで食事会を必ずやっていました。日曜日の朝早くミサ聖祭をして、その後食事をして、それからどこかへ行くなりなんなりしていないのではないかと思われます。ですからこの教会でメリエンダでお茶飲みするのは、伝統に基づいているということです。そういうコイノニアという食事ができる関係というのがあるというのが、望ましいということになるわけです。だから洗礼を受けるというのはどういうことかというと、この四つを具体的には聖霊の恵みの中で実践していくということです。あるいは既に洗礼を受けている方々が多いでしょうが、洗礼を受けるということはこの四つを熱心にするのが信仰者のあり方だとあります。 この四つがどうなのかということを、自分の信仰生活のあり方を振り返って頂いていいと思います。最初の教会生活の姿なので非常に重要なのです。このようなことを意識されたらいいと思います。教会改革というのは、教会が刷新されたりする時に、戻るイメージが必ずここなんです。ここからどう現代にこの四つをどういかさればいいかということを、結局は教会を蘇らせる本当の事だと思います。ここのところを大事に、自分自身の生活、信仰生活を振り返って、あるいはこれから洗礼を考えておられる方は、ここのところ意識をされるといいと思います。今日は一番最初に出てきたのが洗礼なので、洗礼の意味を少し見たいと思います。ローマの信徒への手紙、パウロという人が書いた。6章1節から「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」この最初のロ6:4「 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」何を言っているかというと、5章の終わりのところで、アダムとエバの対比で書いてある。たぶん聖書の中でも最も美しい言葉の一つなんでしょうが、5章20節「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」というのです。これが名文句の一つだと思います。罪が増したところには、普通は罰が増えるだけですが、罪が増えたところにイエス様が十字架にかかって罪を贖われたので、罪が増したところには、逆にめぐみがなお一層満ち溢れるという、常識を超えた救いが成就したということです。これは大きなお恵みです。だから皆さんの中で、罪がいっぱいあるとか、苦しみがいっぱいあるとか、悩んだり苦しんだりしておられるかもしれないですけれども、その罪がいっぱいあればあるほど、恵みがいっぱいあるということになるという、イエス様の救い凄さがある。この恵みだけでもよくよく味わえたら素晴らしいと思います。だから6章1節「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」というと、そういうことではない。もちろん罪は全て恵みに変わったとしても、わたしたちは「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受け」る。そこでわたしたちは何をしようかと言うと、イエス・キリストが十字架にかかって死んだ。そして復活した。わたしたちが洗礼を受けるということは、このイエス様の十字架にあずかって、イエス様と共に死ぬということなんです。イエス様と共に新しい命を生きる。死ぬというのは文字通り死ぬわけではないですけれども、何に死ぬかというと、古い自分に死ぬ。あるいは罪の自分に死ぬ、イエス様が十字架にかかって死なれたように。洗礼を受けるというのは川に入るのは、単に汚れを落とすのではなくて、死ぬということを象徴するために水に入るのです。古い自分に死ぬ、あるいは古い自分を洗い流して、水に入って、水から出てきてイエス様の新しい復活の恵みに、わたしたちが新しい命に生きる、その恵みにあずかるということは、洗礼を受けるということなんです。洗礼を受けるというのは、古い自分に死にたいという人なんです。今までの罪とか捕われとか。古い自分に死んで、新たに生まれ変わって生きたい人は洗礼を受ける。それはイエス・キリストの恵みによってです。自分の力で生まれ変わろうとしたら、イエス様の十字架と共に、古い自分を十字架につけて、葬ってしまって、自分の罪とか捕われと縁を切る。そして復活の恵みの中で、新しい命を生きていくようにわたしたちは呼ばれているわけです。使6:4「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」古い自分に死ぬということです。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」これが大きなお恵みではないかと思います。洗礼というのは一つの儀式ですけれども、中身がこういうことなんですね。イエス様の十字架と復活の後に洗礼が出てきた。イエス様が生きている間に洗礼がないというのが良く分かるわけで、イエス様の十字架と復活で救いの恵みが成就したので、それにあずかるために洗礼が生まれて、わたしたちもイエス様の復活の恵み、聖霊をいただくということになるのです。ですから古い自分に死ぬというのは、悔い改めて罪の自分に赦しを得るということになるわけです。だから大いにあるお恵みだと思います。15節「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」それはそうです。罪を犯す自分というのは古い自分です。そこと手を切って、わたしたちは新しいイエス様と復活の恵みと聖霊を頂いて生きる。新しい自分として生きていきたいと思う人が、洗礼を受ける。イエス・キリストの恵みによって。イエス・キリストに繋がってということです。これが大事なことです。これは葛藤があるわけです。洗礼式で一番ふさわしいのは、復活徹夜祭の時に洗礼を受ける。四旬節といって、イエス様が十字架につけられる前の四十日間は、悔い改めの期間なんです。だからその時に合わせて洗礼を受ける。イエス様の十字架の復活の聖週間に合わせて洗礼を受けるというのは、教え的には一番相応しい時でもあります。もちろん他の時に洗礼を受けられても大丈夫ですが、基本は洗礼のお恵みはここにつながっているということです。洗礼を受けているということは、すでに古い自分に死んでいるんです。わたしたちは絶えず古い自分に死ぬという気持ちが必要です。イエス様の十字架と共に葬るということと、イエス様の復活の恵みの内に、新たな力を頂こうという力強さは一生涯だと思います。洗礼を受けた時に完成するというより、そこから生き方が始まるというふうにして、受け取られたらいいのではないかと思います。その上で、パウロが詳しく書いてあるのは、この辺りです。ローマの信徒への手紙7章13節から「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ここも非常に有名な所なんですけれども、人間の苦しみについて書いてあるところです。19節「善いものがわたしにとって」善いものとは律法という事なんです。ユダヤ人にとってモーセが三千七百年前ぐらいに、エジプトから脱出してきて、シナイ山で十戒という十の掟を守りなさいというものを、神様から直接もらうのです。非常に大事なもので、十の掟から発展したのが律法という形になるわけです。神様からいただいた掟だから、それを守るということは、ユダヤ人にとっては最重要課題なことだったわけです。たとえば申命記にはっきり書いてあります。この掟を守ったら、皆さんが幸せになって恵みがいただけますよ。この掟を守らなかったら、辛い苦しみになりますよと言われて、だからちゃんと掟に従いなさいと諭しているわけです。それはわたしたちの感覚でもわかるわけです。日本人には律法がないけれども、日本人は非常に倫理的な、世界的にも道徳的意識の高い民族だと思います。どちらかと言うと真面目に生きている方だと思います。たとえば東京というのは世界で一番安全な街だと思います。カトリックの国が一番危ないのです。パリにしてもスペインにしろローマにしろスリだらけです。スリとか強盗だらけです。それは大変ですよ。このエルサレムの方がよっぽど安全です。こそ泥とかスリにあう率は、ブラジルだってカトリック国だけど、危ないんです。アメリカに住んでいましたけれども、日が沈んだら、街中危なくて歩けない。アメリカの州は田舎町でも日が沈んだら外を歩いたらダメなんです。いつでもどこでもピストルを突きつけられて危ないから。アメリカでも日が沈んだら自分を守るために外を歩いたらだめなんです。東京だったら女性でも普通の道だったらそんなに問題ない世界で一番安全です。こんなに犯罪率の低さは世界的に見ても、日本人はとにかく道徳的で倫理的な民族だと思います。しかも電車は整列して乗っているのだから、日本しかありえないと思います。日本人は掟を守りやすい民族ではあるけれども、どこまで守るかという問いはある。旧約聖書なんですけれども、何が書いてあるかといったら、ごく簡単に一言で言えば、その掟を守れない悲惨な歴史が書いてあるのです。つまりほとんど守れていないのです。ほとんど守れていないから、災いがいっぱい来るんです。申命記で神様に約束して守ったら祝福、守れなかったら苦しみますよと、その苦しみが延々と書いてあります。旧約聖書は読んでいたら落ち込んできます。人間ってどんなに愚かなものかという。神様を罰しているんですけども、泣きながら罰しているという感じです。あまりにもあわれすぎて愚かすぎて、という感じです。だからパウロが言っているということは、個人的な体験でもあるけれども、ユダヤ人の歴史でもあります。あるいはわたしたちのあり方でもある。つまりいいことと分かっているけども、できない苦しみがあるということです。でもそのできないということは、自分の性格的にもできないということもあれば、あるいは会社ぐるみで不正があったとして、結局逆らえないわけです。巻き込まれてやらざるを得ないということは。逆らったらクビだということです。何がいいか分かっていても、個人がどれだけそれだけできるか。自分のことを考えてもそうだし、周りの事を考えてもそうだし、何が罪で何が罪じゃないかを考えるのは、カテキズムか何かで、倫理的な問題で、世間的に一般的な常識が即、良いか悪いかではないですが、それでまたわたしたちは苦しむわけです。とにかく、わたしたちはずれているわけです。しかも使7:15ここだけなんです「わたしは」と書いてあるのは。ローマの信徒の手紙では、パウロはわたしたちは、とか、みなさんとかで、一般論で書いてあるのですが、ここだけは「わたしは」と書いてあってずっと苦しみを書いている。パウロは劇的な回心をして、性格的にはものすごい強いタイプなんです。自分で決めたことは周りが反対しても絶対やり通す意志が強くて、目的達成型の人間です。決めたことはやり通す。やや協調性に欠けてますが。ペトロは協調性はあったけど、意志がなかった弱いタイプですけれども、パウロは強い人間なんです。周りから言われたって絶対に変えないタイプでも、望まないことをやっていますと言わざるを得ないけれども、やはり心の中には葛藤があったわけです。この葛藤をわたしたちはどうすればいいのか。このような葛藤をしている人間、自分の思っていることができない人間の状態をここでは肉と言ってるんです。肉というのは肉体という意味よりも、神様から切り離された人間の生き方を肉というんです。結局できないんですよ。引きずられたり、捕われたり、流されたりしてしまう。だからこれに死ななければ、矛盾から出られないわけです。つまり自分の力で善いことができれば、イエス様の救いも必要なかったかもしれない。旧約聖書が正しいと人類全体ができれば、悲惨な歴史もなかった。日本人は特別に協調性がある民族だから、安全を作ったり、極めて優れている民族だと思います。他の国の人はもう少しいい加減ですが、日本人ですら響くわけです。善いことができるかと問われているが、できてないことがいっぱいあって、人によってはそれによっては葛藤になっているかと思われる。24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」というぐらい、お手上げなんです。自分の力ではできませんという。取り繕っては生きていけるけども、実際にはできない。なんと惨めな唱歌で終わってるなら、救いも何もないんですけれども、25節「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」つまりイエス・キリストによってその状況からパウロが救われてるということです。ここで感謝ができるんです。つまりこっちの情報ばかりでなく、こっちのお恵みをパウロは得ていたから、使8:1から「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」霊の法則によって、8:2「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」洗礼の恵みがここにあるということです。「肉の弱さのために律法がなしえなかった」律法でいいものがあっても、わたしたちは肉の弱さのためにできない。どこかでわたしたちは守りきれないところがあるけれども、霊の法則はわたしたちに与えられた。肉と霊が対立的なんです。こっちが肉の生き方としたら、わたしたちは霊の法則によって解放されます。霊の法則というのは、復活の恵みによって、聖霊の恵み、霊の恵みによって、わたしたちは神の恵みによって、自分自身の弱さや罪深さを捕われとか罪や苦しみとか、そういうものから解放されていける、霊の力を既に頂いている。急に働くか徐々に働くかは人によってまちまちですが、聖霊の恵みを受けて、わたしたちは変えていただくことができることを、パウロは感謝している箇所になるのです。この恵みを生きることこそが、わたしたちのクリスチャンとしての最大のお恵みだと思います。この恵みによってわたしたちは歩むことができる。だから古い自分に肉の自分に捕われているから、そこに死んで、手放して、そして一種の生まれ変わりというか、違う自分として霊の力で新しい命を生きていくように恵みを受けている人は既に与えられている。洗礼を受けようと考えている方々には、洗礼を受けるというのはこれが与えられるということです。そのために洗礼があるというか、この生き方ができるかということです。これは本当に大いなる恵みと思います。聖霊の恵みというのは、お金でこんなものは買えないと思います。誰にでも与えられます。悔い改めて洗礼を受けるならば、誰にでも聖霊の恵みを与えられるということです。ペトロの言葉にあったわけですから、これを生きれるということです。ちなみにローマ人への手紙の8章はいいところです。個人的に読まれたらいいと思います。ここが一番中心的な、パウロのメッセージだといわれているとです十

 

2016 年 10 月 17 日(月)
 第 十六 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記