カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆このブログは、イエズス会の英(はなふさ)神父の公式サイトと連携しています☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2016-10-31 入門講座 17 秘跡

英神父 入門講座 17 秘跡


 使徒言行録の1章の37節「 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのです。」と言った。 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」イエス・キリストが宣教活動されて、十字架にかけられて亡くなった。けれども復活したという衝撃的な出来事があって、そこからいわゆる聖霊降臨2章1節から、英語で言ったらペンテコステというんです。けれども、聖霊降臨というのが2章1節から描かれています。ペトロの長い説教があって37節のところから、どうしたらいいのですかということで、聖霊を受けた人々の話がここから語られるのですが、簡単に言えばペンテコステで何が語られたかというと教会が生まれたということです。教会というのは建物ではないです。けれども、信じる仲間三千人がその時洗礼を受けたと書いてあります。多くの人はイエス様を信じる群れができてきた。そこにメンバーになるということの一つは洗礼ということです。それでは何かというと、罪の赦しが与えられるということと、一人一人に聖霊の恵みが与えられるということが約束されているわけです。そして初代教会、最初の教会として42節「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」四つの大事な教会生活、信仰生活が始まるわけです。一つ目が使徒の教えです。二番目が相互の交わり、コイノニアというのですが、それから三番目がパンを裂く。四番目に祈りと、四つのことが最初の彼らの熱心だったということです。この使徒の教え、イエス様は天に昇られているので、イエス様の教えを語っていたのですが、使徒の教えから聖書が生まれてくる。ちょっと後になるわけです。新約聖書という形で、福音書とかパウロの手紙が生まれてきて、その後ぐらいにキリスト教の教義という教えが固まる。聖書が書かれた後ぐらいに、しばらくして教えが固まって、そして伝統的なキリスト教の教えというのは、ここから発展していくわけです。この中でプロテスタントの方でカトリックに興味がある方は、この辺りからカトリック的な話をしていくことになるわけです。特に伝統的な教えがカトリックとプロテスタントが違うところになると思います。コイノニアというのは、教会生活とか教会の人々の交わりということです。これは書かれている通りに最初のことです。「すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」分かち合いというです。お互いを助け合うというか、財産分かち合っていたということです。それがわたしたちの教会生活の基本にあるということです。それから三番パンを裂くというのが、これも何回もいっていますけれども、現在でいったらカトリック聖餐式になるわけです。ここにある通りに「家ごとに集まってパンを裂き」と書いてあります。まだ聖堂がないわけですから、信者の大きな家に日曜日の朝早く集まって、パンを裂くというのがミサの原型というわけです。そのような式をしていた。これからだんだん二千年間かかってミサの形になっていくわけです。これは二千年間しているというわけです。祈りというのはここでは「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」最初は神殿でユダヤ教のお祈りをした特に、特に詩篇を唱えたり歌ったりした祈りが中心だったんです。けれども、これがカトリック的なお祈りが出てきたというわけです。この辺りのことの発展みたいなところです。一言でいうと秘跡ということです。英語でいうとサクラメントです。これはかなりカトリック的なものがあって、字の通りなんです。けれども、秘跡の秘というのは、秘密の秘、つまり隠れているという意味です。表に出てこないという、秘という言葉です。跡というのは何かというと足跡、こちは見えるものなのです。秘の方が見えなくて、後の方が見えているわけです。誰がこの訳を考えたか、なかなかよくできています。秘跡の一番簡単な定義は、神様の恵みの目に見える印。つまり神は愛とか神の恵みとかは、どちらかというと抽象的で表れてきていないと思われていますが、それを目に見える形にして味わえるようにしたのが、後なんです。ある形に表して目に見える形にしてという効果が、秘跡ということです。現在は七つの秘跡があります。一番目は洗礼です。二番目は洗礼を受けてからの堅信式。この教会ではだいたい一、二年後に受けます。いわゆる秘跡的に受けるという形になります。三番目が聖体の秘跡です。ミサそしてご聖体というものです。この三つが入信の秘跡であって、成人の方が洗礼を受けた場合は123を受けるというステップになっているわけです。幼児洗礼の場合は赤ちゃんで洗礼を受けて、初聖体を受けて小学校2年生ぐらいで初聖体を受けて、堅信式はだいたい中学2年生ぐらいにある。大人の場合は一緒にする。今日は三番の話をしますが、後は赦しの秘跡が四番目で、告解とか神様が罪の赦しを告白するところです。五番目が 病者の塗油といって病気の人に油を塗るということです。こういう習慣もあって月に一、二回ぐらい病院に行って、病者の塗油を授ける時があります。月二回ぐらいか、来れないぐらいの悪い人のところに、病院か自宅か訪ねていって油を塗る、癒しを願うということです。七つあって、あと二つあるのです。コイノニアと深く関係があって、特別な役割を担う人もいます。叙階の秘跡という神父様や司教様が叙階される。七番目が結婚の秘跡です。婚姻とか結婚の秘跡ということで、七つの秘跡があります。後はお葬式です。クリスチャンが亡くなったら教会でご葬儀をやりますけれども、秘跡ではありませんが習慣がありますし、修道者やシスターとか修道会誓願というのもこれに似たものがありますが、秘跡には入っていないです。七つの秘跡がありますが一番の基本はイエス・キリストは当たり前ですが一番大事。イエス・キリストのことを「原秘跡」というんです。なぜかというと秘跡の定義は神様の恵みとはなんらかの形で表わさなければならない。つまり目に見える印なわけですから、一番の印はイエス様です。イエス様の行いとか、イエス様の言葉を通して、神様がどういう方であるか、神様がいかにわたしたちを愛しているか、イエス様の存在を通してわたしたちは知れるわけです。イエス様こそが秘跡というか、他の秘蹟を原秘蹟という言い方をしているわけです。それが基盤になっています。もう一つは秘跡が成り立つのは、教会があるからです。教会のことを「根本秘蹟」というんです。なんで教会があるかと言ったら、これもそうです。けれども、神様の恵みというのは何らかの形で、一人で表さなければならない。つまりみんなに知ってもらうためには、目に見えて表れている形でなければならないから、教会は秘蹟としてあるわけです。だから教会の神父様、信者さんを通して、教会の祈りを通して、神様とはこういうことなんだなとか、そういう風にできるわけで、だからイエス・キリスト教と教会があって、七つの秘跡が成立するということです。当たり前といえば当たり前です。プロテスタントとは違う、教会理解から違います。今日は聖体の秘跡について話したいと思います。 コリント人への第一の手紙11:23「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」コリント人への手紙です。けれども、何なのかと言ったら、使徒言行録で2章から教会が始まって、活動が始まるわけです。けれども、使徒言行録は主に十二使徒の中でも、特にペトロとかパウロの活動を中心に描いています。9章でパウロという人が劇的に回心して、敵対者だった人が突然イエス様を述べ伝える側になって、活動が使徒言行録に書いてあるんです。けども、ギリシャとかの町を周るわけです。17章でアテネに行くんです。ギリシャ哲学の本場の地で、ソクラテスとかアリストテレスとか、ギリシャの立派な人々がいて、ギリシャ文化の中心地みたいなところで彼は宣教するんです。けれども、アレオパゴスの広場で説教するんです。アレオパレスの説教という有名です。最終的にイエス・キリストが死んで三日目に復活したというだけで笑い出して、アテネの人というのは教養のある文化人だから、イエス様の話や福音宣教もあまりうまくいかなかった。それでがっかりしてコリントという所に行って、コリントというのは新興都市で、商売も活発だし盛んな町だったんです。その時のことが使徒言行録18章にあるんです。コリントへの教会では割とうまくいったんです。教会といってもアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦と仲良くなって、その人の家に泊めてもらいながら、活動していた。かなりの多くの信者さんが日曜日のミサに集まっていたと思うんです。その教会というか信者宛に書いたのが、このコリントの教会への手紙です。一と二があるぐらいで、成功したとも言えるけれども問題も多い教会だった。だから二つも手紙を書かなければならなかった。それで23節「 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」十二使徒たちは最後の晩餐の時にこの事を伝えられているんです。その時にパウロはいなかった。パウロにどう伝わったのかはっきり分からないんです。「主イエスは引き渡される夜」受難に向かう夜、逮捕されるその晩に最後の晩餐の時に、一コリ11:24 「パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」がこれが「ご聖体の制定」と言われることなんです。パンといっても今のミサでは、元々パンというナンのようなもので、過越の食事だったんです。けれども、パン一枚といって、裂かないと、とても大きいものです。裂いて皆に渡したということです。この裂くというところがイエス様の十字架の象徴なんです。パンを裂く式というのはイエス様の苦しみを表しています。だから今日の最後の所に「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」パンを裂くと言葉的に似ているのです。「パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」ということを命令されたので、だから初代教会の最初からパンを裂いて食べるという式が始まった。だからミサの最初からあったのは間違いないです。しかも使徒言行録の2章から考えたら、これは AD 50年ぐらいではないかと思います。福音書が書かれるよりも前のことです。初代教会のことをやってたことは間違いないと思います。イエス様の体としてその御聖体をいただくということです。何のためかと言ったら「記念としてこのように行いなさい」ということなんで、記念という言葉を使っているわけです。わたしたちがどういう時に記念を行うのか。世俗的な中でも、どんな共同体も、どんなわたしたちも記念なしには生きていないです。例えば誕生日というのは記念になるわけで、一年間成長したことを感謝するという意味もあります。これからもすくすく育ってほしいという意味もあって、誕生日の記念としてお祝いするのは普通のことだと思います。あるいは結婚記念日にしても、それを何のためにするかと言ったら、二人の関わりを思い起こすためなんです。頂いたお恵みを思い起こしたい。あるいは足らなかったことを反省したりして、そしてもう一度ふたりの関わりを見つめ直すという、意義を見出して、そしてまた二人は頑張っていけるようにと。たとえば結婚記念日があるわけです。会社でも学校でも教会でもなんでも、創立記念日をお祝いするのはあるんです。やはり創立の原点に立ち返って、どういうお恵みがあったのか、振り返ったりして、どういうところが足りなかったのか、振り返ったりした。また気持ちを新たにして、切りかえていくため。なんでクリスチャンの場合は記念を行うかというと、このイエス・キリストの救いの出来事を、もう一度思い起こすということです。思い起こしてどういうお恵みをいただいているか。あるいはイエス様の生き方に、ずれてしまったところはないか反省して、イエス様からお恵や勇気とか励ましとか希望をいただいて、また歩む。その新たな気持ちがあるということで、ミサの御聖体は記念として行われます。しかもイエス様の場合は単に思い起こすだけでなしに、神学的に現在化というんです。過去のことを思い出すだけはなしに、神父様がここで祭壇の前で聖変化をするということは、救いがもう一度起きている。現在化というんです。それがそこで行われて、キリストの体として、わたしたちはいただくわけです。それは現在化というと過去を思い起こして、未来に向かっていただく力をいただく。そのためにこそ記念を行うということがあるわけです。思いますけれども日曜日毎に集まってパンを裂くというのは、一週間に一回ぐらいは記念しないとだめだということです。月曜から金曜日まで、神様のことを忘れたり神の恵みというのは、なかなか目に見えにくいから忘れてしまうわけです。だから毎日曜日に記念し直して、思い起こしてその恵みを、明らかに目に見える形で、御聖体を食べるとことによって、そのお恵みをいただくとするわけです。このような一つの秘跡として残してくださっているから、お恵みだと思います。しかも食べるんです。単なる抽象的に分かるわけじゃなくて、食べるという形。目に見える形で、食べるという行為までするから、秘跡だということになるのです。「食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。』」新しい契約であるということで、もう一つの考え方は何かと言ったら契約であるということです。この御聖体と御血ということです。何が新しいのかと言ったら、古い契約の話をしなければならないです。日本語で契約という言葉はあまりいい言葉かどうかが議論があって、あまり日本語では契約というは、良い響きではない。なんでかというと契約社員とか、悪い響きでいつでも切っても良い契約というのは、期間があるからということです。けれども、ここで契約というのはそういう意味ではないから、普通の日本語で直したら、絆とか切っても切れないものだという意味で、使っていると考えた方がいいと思います。だから使わないけれども、結婚の契りを結ぶという。契りという言葉も使わないけれども、むしろ切れないような繋がりという意味で、契約ということがあるんです。日本語だったら絆を結ぶと言った方がいいかもしれないと思います。旧い 契約とは一体何のかといえば、旧約聖書なんです。古い旧約の約は新約の約束の約で、契約のことなんです。旧約は契約の約の方です。旧い契約とは出エジプト記の24章に書かれています。イスラエルの民がエジプトから出てきて、モーゼという指導者によって解放されて、奴隷状態から救われて、シナイ山でモーセが十戒を、十の掟を神から受けます。その後24章でシナイ山の麓あたりで、モーセを仲介者として、イスラエルの民と神様が契約をするのです。そのことが旧い契約というものになるのです。どういうものとかと言ったら、モーセが掟を説明するんです。契約の抄を読むとあるんです。とにかく神様のメッセージを伝える。つまり契約ということは、契約内容が明らかにならなければならないとだめだから、神様の契約内容をモーセが語るんです。神はそれを聞くわけです。それでそのことを守りますと約束するんです。その後は契約というのは印が必要です。どういう印かというと馴染みがない、和解のいけにえをささげる。つまりいけにえをささげる儀式があるんです。それは雄牛を殺して、雄牛の血を取るんです。雄牛は免償として、全焼のいけにえをささげる。全部燃え尽きるまで燃やす。血の方はどうするかというと、血の半分は祭壇にかけるんです。神様にかけるという意味で、もう半分の血は神にふりかけるというんです。契約にはいけにえがつくんです。あるいは何かの形がつくんです。契約の内容が分かって守ることと、もう一つはいけにえなりなんなり、印がいるんです。三番目は何かというと、そのあとに神様と共に食事をするのが入るんですけれども、日本人も同じなんです。必ず契約するというのは同じなんです。例えば結納の式とか、一つの契約だと思いますけれども、言葉を交わしてから結納品を交換するわけです。いけにえの代わりに、場合によっては結婚式だったら杯を交わす。それは一種のいけにえみたいなもので、神様に対してお供え物をするとか。大体何か印なりいけにえなり、ささげる儀式をするというのは万国共通で、その後一緒に食事をするというのが共通で、契約するというのはそういうことです。絆を結ぶといってもいいかもしれない。それで来たんです。長い長い旧約聖書でいっている事の一つは、人間の側が契約を守れなかった歴史が延々と語られています。神様からこうやって守りますと言ったんです。けども実際はほとんど守らなかったり、時々は立派な人がいて時々守れているんです。けども守りますとこたえたけれど、ほとんど守れていない。守れてないから、人間の側が契約不履行なんです。申命記などには契約を守ったら、祝福を与えます、といって契約を守たらなかったら不幸が来ますよと、神様に言われていたんだけれど、守れないから不幸の歴史が旧約聖書に描かれています。それでも神様は助けようとされているのです。旧い契約が結局守れなかった。だからイエス様が新しい契約を結んでくれているのが、ここのお話につながるわけです。それはイエス様の血によって十字架に流された血によって、わたしたちに新しい契約、新しい絆を結んでくださった印であるということです。新しい契約であるという。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」というのです。残念ながらイグナチオ教会は大きすぎるから、ワインの御血は神父しか飲めないけれども、御血を、イエス様のぶどう酒を、契約を更新する。契約を思い起こすということと繋がるわけです。それで思い起こすのもそうですし、契約、記念もそうですしが、記念として思い起こす、あるいは契約内容を起こすために、御言葉の祭儀があって、ミサの聖書朗読を聞くわけです。契約内容を思い起こすという意味もあるし、神様の恵みを思い起こして記念するという意味も含まれていると思います。そして後半はパンとぶどう酒が、イエス様の体と御血に変わっていただくという式になるわけです。それはいけにえをささげるという意味と、主の食卓を囲むという意味の、二つの意味を重ねている。ユダヤ人は残念ながら神殿がなくなってしまったので 、AD 70年にローマ軍によって神殿を破壊されたので、いけにえをささげられていないんです。二千年間近く。彼らにとっては残念だと思います。神殿というのはお肉屋さんなんです。そこで牛とか羊とかをほふって、血を出して、全てのいけにえを、全焼ではないですが、燃やしたりする。朝と夜に二回、祭司の仕事というのはお肉屋さんみたいで、煙がすごくて、日本人の神社みたいではないです。残念ながら神殿は滅びてしまったので、ユダヤ教は 二千年間いけにえをささげられていない。残っているのはラビだけです。つまり御言葉を伝える人しか残っていない。今のユダヤ教の礼拝は御言葉の祭儀だけということです。どちらかというとプロテスタント的なんです。プロテスタントは御言葉が中心ですからユダヤ教はそちらに近寄っている感じです。そのような意味があるということで、特にこの契約といった時に、いけにえといったことが契約の中には不可欠なんです。どういう形でするかというのはそれぞれですけれども、いけにえはなんだったという時に、これはイエス・キリストであるということが、一つの大切な考えになるということです。それはヘブライ人への手紙 7章26節「 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、 人間ではなく主がお建てになった聖所、また真の幕屋で、仕えておられるということです。 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」ヘブライ人への手紙というのはタイトル的に不思議なんです。普通はコリントの教会への手紙とかある場所に向かってですが、ヘブライ人への手紙という、ユダヤ人に宛てに書いてある。誰かに特定して書いていない。一種の論文のようなものなんです。特殊なんですが、ユダヤ教とキリスト教の違いをはっきりという。ユダヤ人に対して書いてあるのは間違いない。ユダヤ教の知識のある人たちのために書いてある。お話をしたのがまさしくそこを説明するためでもあったのですが、イエス様は元々生きているために今のカトリック教会のカテゴリーでいえば信者だったんです。つまり祭司とか職業的な宗教家ではなかったわけです。イエス様は祭司だったとしたら、それは神殿でいけにえをささげたりしなければならなかったわけです。けれどもそれは一度もしていない。祭司ではなかった。ヘブライ人の手紙ではイエス様こそ本当の祭司であると書いてあります。つまり大祭司であるという言い方をしています。なんでイエス様が大祭司かといったらごく簡単に言えば、ヘブ7:27「このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」と書いてあるんです。本当のいけにえをささげたのがイエス様だからというのです。その前の所に27節の前半「ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。」大祭司たちは朝と夕、行っていけにえをささげたんです。自分の罪の為と民の罪のために神様に赦しを願うために、いけにえをささげていた。それも毎日毎日ずっとささげていたわけです。神殿が無くなったからできなくなったんですけど、神殿がある間はずっとされていました。でもイエス様がどうかと言ったら十字架上でご自身を、自分自身をいけにえとしてささげた。これが本当の契約のためのささげものだったということを、ヘブライ人への手紙には書いてあるわけです。これがあるから非常に大事なところなんです。ミサ聖祭でいけにえは何なのか。新しいいけにえの契約は何なのかと言ったら、イエス様の十字架の上の死。命を自らささげられたということがいけにえなんです。これ以上のものはない。つまりこの世界でささげられる一番尊いものは、神様自身が人となって自分をささげる以上のことはないと思います。例えばわたしの家が仏教でしたから、普通はいけにえをささげるのは人間から神様なんです。子供の頃にお寺さんに行ってお供え物をするんです。お米とかお酒とかお菓子とか 、人間の方から神様の方にささげる。いけにえは感謝のつもりでささげるものもあれば、罪の赦しのためにささげるものもあるし、収穫祭で一番いいものを神様にささげるとか色々あります。キリスト教の新しい契約は、イエス様自身がつまり神様自身がいけにえとしてささげられた。それをわたしたちは感謝して受け取るだけであるということなんです。だから一応パンとぶどう酒をささげたり、献金を集めたりしますけれども、本当のいけにえはイエス様だけなんです。それをわたしたちは記念をして新しい契約をもう一度いただくということは、このパンを裂く式と御聖体の一番大切なポイントになるということです。十

 

2016 年 10 月 31 日(月)
 第 十七 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記