カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-02-20 入門講座 26 使徒信条Ⅱ

英神父 入門講座 26 使徒信条Ⅱ 

1・存在を信じる 2・恵みを信じる 3・従って生きる

 使徒信条。 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。」使徒信条は前回も言いました、初代教会の人々が意見の違いも色々あったので、自分たちは何を信じているかということを、はっきりとまとめて、決められたものです。わたしたちの信仰のいわば根本的なものになります。しばらくしてから二ケア・コンスタンチノープル信条ができたんですけれども、使徒信条はプロテスタント、カトリック、ギリシア正教会、どこも全部共通しているもので、洗礼志願式の時にこの紙を貰う。前回は最初の4行をやりました。父なる神を信じるということと、イエス・キリストを信じるということをやりました。今日は5行目から、主はと書いてあります。主イエス・キリストの事を、この後書いています。英文だったら複文になります。「イエス・キリストを信じます」というイエス・キリストの関係代名詞です。つまり代名詞でつながってイエス・キリストはこういう方であるということを述べるようなかたちです。それをわたしは信じていくということ。5行目6行目、「主は聖霊によってやどり おとめマリアから生まれ」た方であるということを信じる。これはクリスマスの意味になる。簡単に言うと、イエス様の特別な形での誕生、つまりイエス様は神様は特別なかたちで生まれたということです。クリスマスの意味であるし、受肉の神秘という形でいうことになる。つまり神様という特別な方が人間になって生まれるという神秘をひとつの形で表現しているわけです。聖霊の恵みと、乙女マリア。今の言葉でいったら処女であるマリア様から生まれたということです。それを信じるということが一つです。その次にポンティオ・ピラトの下で、ここはだいぶ間が空いているんです。イエス様が生まれた後、様々なことを語ったり、行なったりしている。イエス様の言葉と行いがここに入るわけです。だから間に入っているところをかなり詳しく説明して、使徒信条そのものにはこれは入っていません。 非常に重要なところです。たまたまこの前高山右近の列福式で大阪の教会で祈りの集いをやって、その時に本棚を見たら教会が作った信条か大阪教区が作った信条があって、主にそれを書いていました。わたしたちが信じるものの中に、イエス・キリストは貧しい人に心をかけたとか、罪人の赦しを信じるというものです。教会が独自に唱えている信条でしょう。何を信じているのか共同体としてもあります。カトリックは二ケア・コンスタンチノープル信条で終わりなんですけれども、度々プロテスタントはそういうのをつくるのが習慣になっています。「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられて死に、葬られ、」イエス様の受難のお話です。イエス様が十字架にかかって亡くなったということをはっきりと書いてある。ポンティオ・ピラトの名前まで書いてある。 この人は誰なのか、パレスチナ地方のローマの総督です。一番の権力者で、彼の元でイエス様は死刑判決を最終的に受けることになりました。皮肉なんですがマタイによる福音書は、死刑判決をポンティオ・ピラトが出す前に自分には責任がないって言って、ユダヤ人に向かってお前が責任を取れと言うんです。結局責任逃れができなくて、悪名で名前が二千年間残りました。責任をとらないことがいかに問題であるか。何で名前を載せるかと言ったら、これが歴史的な事実であると証明している。初代教会の人がポンティオ・ピラトの時代にそのような苦しみがあった。歴史の証明として名前が載っています。イエス様が十字架にかかったことは歴史的事実として認められてい、クリスチャン以外の人も歴史家が書いているからです。前回説明したことですけれども、信じるというのは三つの段階があるということがあります。まずは一番目はその存在とか事実を目に見えなくても信じるということです。神様を信じると言った時に、神様が存在しているこを信じるとか。二番目は意味とか意義を信じる。神様の素晴らしさとか、神の愛を信じる。神様がどういう方であるのか。意味とかそういう素晴らしさを認めて、本当に自分にとって意味のあることだから信じるという言葉を使うわけです。三番目は意味とか意義にそれに従って生きるということも入ります。神が愛であると認めたら、神の愛に従って生きるということまで信じるということは、わたしたちの在り方とか生き方まで関係しています。そこまで信じるということを考えないと、信じるという意味はないわけです。神が愛であると言いながら、兄弟を憎んではいけませんと、ヨハネの第一の手紙ででてくるんです。信じる一、二、三の段階があると思います。「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、」は信じるということはそれが事実だったら信じることはあまり意味はないです。何を信じるかと言ったら、イエス様の受難と十字架のその死の意味や意義を信じることです。それは何かと言ったらなかなかピンと来るかわからないですが、わたしたちの罪を贖うために死なれたという意義の話になります。死んだ意義は何なのか、意味付けの話になります。それを信じているんです。イエス様の十字架の死がどれだけわたしたちの生き方の助けになっているかということを信じる。これを信じるのは前にも言いましたが、急にはなかなか出来ません。意義とか意味があるということは、頭の理解ではだんだんと思えてくる。つまり洗礼の準備とか、洗礼を受けた中で、徐々にピンと来て、だからそれを信じられる。それも少しずつだと思います。そして三も入ってきて、十字架を信じるとはどういうことかと言ったら、聖書の言葉にあって、自分の苦しみを受け入れて生きることにつながる。つまり自分の十字架を背負ってイエスに従うということ。自分がどう生きていくかということに、二と三が繋がっていくんです。二は価値とか意義の話ですから、それによって自分はどう生きていくかとかいう生き方まで繋がってくるということです。それが信じるということの意味です。十字架の事実としてだけのレベルもあるけれども、本当に大事なのは二と三のようにだんだんに思えて、それをだんだんと生きられるようになるということが、大切なポイントになるわけです。その後、「陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、」復活する。イエス様が三日後に完全に死んで葬られてしまって、陰府という世界にまでいったあと、三日目に死者のうちから復活したということを信じる。一番が存在を証明できない、復活については。証言があるのは信仰者しかいないから。客観的事実としても証明できないと言われています。では信じるということはどういうことかと言ったら、本当のところは二を信じる。それによって力点が移るということです。イエスの復活を信じるとはどういうことかと言うと、いくつかの意味があります。苦しみは苦しんで終わらない。苦しみを超える世界がある。あるいは死が死で終わらない。死を超えるものがある。罪は罪で終わらない。赦されるということです。あるいは滅びゆくものではなくて、滅びゆかないものがあるということを、いろんな意味があるのですが、それを信じる。それがそうだと思って、それを信じるという。だから三は、復活の恵みを生きるということになるわけです。神の恵みのうちに復活の喜びなり、復活の恵みを生きるというのが三に入る。これがあるから喜び、救われた気持ちで人間は生きるということができます。この世の罪とか苦しみとか、死とか病気とかで捕われない世界を生きれるということです。それが復活を信じるということの大きな意味としてわたしたちに与えられているということです。これもわたしたちが信じる中で少しずつ 深まっていけばいいのではないかと思います。それが重要なんで一番長く書かれてるのは十字架と復活です。そしてその後天に昇る。それは主の昇天と呼ばれるものですけれども復活したあと四十日後にイエス様が天に昇る。オリーブ山の頂上から天に昇られるということです。そして全能の父の神の右の座につく、これは何かというと、右というのは大事なところで、神の右の座というのは、神様とほとんど同等なところになる。神の右の座につくというのは、まさしくイエス様が神様になったとも言えるし、神様に戻ったとも言えます。そのような方であるということを信じる。それは全能の父である神を信じるという事と、主イエス・キリストを信じる中身になるわけです。そして次の行、「生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。」というのを信じるんですけれども、多分これを信じるのは一番難しいかもしれない。細かく考えたらどれも難しいかもしれないですけども、生者と死者を裁くために来られるというのは、ユダヤ人が当時思っていた、週末思想というものがあって、つまりいつか世の終わりが来るという考えが前提にあって、世の終わりの前にイエス様が再臨される、天におられるイエス様が降りてこられる。そして天から降りてきイエス様は、生者と死者を裁くために来られ完成するという考えです。だからそこが分かりにくいところかもしれません。その前にもうちょっと説明したいところが、「十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、」陰府とは一体何なのか、ヘブライ語でセオールというんです。特に旧約聖書の時代のことですが、人間が死んだ後はどうなるかというのは、あんまり考えなかった。つまり人が死んだら暗くて地の下の所に行くんであろうと、陰府いう世界を想定したということです。亡くなった人が行くところということで、どういうところか書いていないのでわからないですけれども、それが陰府であると考えたのです。陰府の特徴は何かと言ったら、詩編88に載っているのですが、神様の恵みが及ばない世界が陰府であるという。陰府にいる人は神様の領域から離れているので、神様を讃えたり賛美することはありえませんと描かれています。陰府というのは神の力も及ばない暗くて冷たいような所だというイメージがあるのです。そういう世界にイエス様が降ったというのはどういうことか。意義は何かと言ったら、旧約聖書までは、つまり死後の世界は神様の恵みが働かないという雰囲気で書かれているものなんですけれども、イエス様が降ったということは、神の恵みがそこまで行き渡るということになった。死後の世界にまで神の力が働く希望を示していることになります。実際は全能の神であるイエス様が降るという事は、神の恵みがそこまで行きわたるということです。死後の世界にまで神の力が働く。希望を示しているということになると思います。全能の神であるんだから、死後の世界は全部支配されているわけですが、神の恵みは死後の世界まで働く。だからイエス様は陰府の国まで降ったというのが意義だと思います。二番目のことで言うならば。だからわたしたちは死が終わりではないということを言うことできる。死を絶望的なものとして受け止められなくていいということになります。それがあって陰府というのが曖昧とした概念が、旧約聖書の終わりには善人が助かって悪人が裁かれるということにだんだんとなって、キリスト教になったら陰府が三段階に分かれます。一つは天国、善人や救われる人が行く世界です。悪いことをした人が行くのが地獄です。ギリシア正教会とカトリック教会は間に煉獄というものもあるようになった。バーガトリーと言うんですけれども、清めという意味になります。裁きは二つあります。一つは亡くなった直後に私審判という考え、死んだ後に一人一人が裁かれる。神様の恵みでいい人は天国に行く。非常に悪い人は地獄に行く。実際のところほとんど多くの人は、良かったり悪かったりするから、すぐに天国へ行けるわけじゃないけれど、地獄に行く程ではない人は煉獄に行く考え方が出て来た。ローマ人は裁判とか法律の世界で考えるので、法律的に罪を犯して罪を償いきれなかったものを果たすみたいなふうに考えた。ギリシア人はそういう考えはないので、再教育の場みたいなのです。人生の補習授業をする場所として考えて、清められたり必要なことを学んだら天国に行くという形で考えがあって、一応陰府というのは曖昧模糊でしたがキリスト教でははっきりと天国煉獄地獄という三つの段階に行くと、今は信じている。ただ煉獄というのは聖書にはないのでプロテスタントは否定しています。プロテスタントは天国と地獄だけです。ついでに地獄とはどういうイメージかと言ったら、ギリシア語でゲヘンナと言うんです。ゲヘンナというのはもともとヘブライ語でゲンヒノムから来ているということです。西と東にヒンノムの谷というのがあるんです。ゴミ焼き場にしていたんです。そこで物を焼いていたんです。もっと前の時代は旧約聖書の時代の異邦人は人を捧げたりする儀式をそこでやっていた。火を燃やしていたので、地獄のイメージは火を燃やすというのはほぼ固定されています。永遠の火で焼かれる。それはヒンノムノ谷でゴミを焼いていたところからきているといわれています。今でも火で焼かれるというのがイメージになっています。この三つに分けて考えます。煉獄も火で焼かれるイメージがありますが、期限付で天国ですが、地獄は永遠の火で焼かれるというものです。ルカ福音書16章19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」イエス様は例え話で話されているので本当の話ではありません。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」紫の布というのは当時すごく高価でした。紫貝という小さな貝から色素を取りますが、膨大に貝を集めないと、布地に染める染料はとれませんでしたので、紫の布を着ている人というのは、とてもお金持ちの印です。使徒言行録ではティアティラ出身のリディアという紫布を扱う大金持ちだというのが分かるんですが、紫というのは高貴な色です。お坊さんの袈裟も階級が高いと紫色だと思います。カトリックでは紫は悔い改めの色が紫です。紫の色を着るということは悔い改めを表します。わたしの推測ですが紫は悔い改めの色になったかというのは、一番お金持ちの印だったからだと思います。祭服として一番綺麗なのは紫だと思います。それをわざわざ悔い改めの色にしたのは、ラザロのここから来たのではないかと思います。当時紫布は高価でお金持ちの象徴だったから、高価であるというのは富に捕らわれないようにむしろ捕らわれずに、悔い改めの色に変えたのではないかと思います。金持ちの門前にラザロがいた。今で言うホームレスです。できものだらけで貧しくて金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思うぐらいで貧しかったと思います。相当貧乏で苦しんでいたということです。やがて貧しい人は死んでどこに行ったのか。裁きという言葉は出てこないけれど、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」旧約聖書で有名なユダヤ人の一番初めの人です。創世記の12章から出てくるところです。今のユダヤ人の最初のご先祖にあたる人です。アブラハムと一緒に宴席に座ることができた。パーティーをするというのが天国をイメージすることが多い。パーティーはご馳走を食べて楽しく過ごすイメージがありますが、貧しいラザロは生きている時は苦しくて、亡くなったら天国でパーティーを楽しむ。「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれ」「大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」地獄のイメージは炎の中で苦しんでいるから、喉が乾いて乾いて仕方がないというのは一つの描写になって、ラザロがごはんを食べたりいい暮らしをしているんだから、自分のこの渇きをいやして欲しいと頼みます。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」天国と地獄というのは真二つに分かれていて、お互いに行き来ができないぐらいハッキリしているものと言います。行ったり来たりができないので途中で変わることができないくらい厳しいところであると描かれています。天国や地獄を信じるということはどういうことか、意味と意義とは一体何なのか、とそれを問わなきゃならない。それを問うとしたらラザロがなぜ天国に行ったのか。なぜお金持ちが天国に行ったのかということを問うということです。お話だからイエス様が謎をかけているので、こうだとは決めきれないけれども、一つはお金持ちが贅沢に遊び暮らしていた富への執着とかがあるかもしれません。でもわたしが思うに一番のポイントは何かと言ったら、ラザロに施しをしなかったことが一番の問題であると思います。ラザロがなぜ天国なのかというのを、貧しいだけで天国かというのも。お金持ちにならなければ全員地獄ということになってしまう。あるいはホームレスだったら全員天国というのも。ホームレスの中にもケチな人はいるでしょうけれども、お金持ちの中にも良い人はいるでしょうけれど。一概にお金だけでは決められない。そうしたらここで問われていことは何なのか。結局その意義は何なのかということにあります。言えるのは推測が入りますが、ラザロの場合は貧しさの中で貧しい人と助け合って生きていたということです。愛を分かち合っていたから天国ではなかろうかと思います。逆に金持ちの方は貧しい人が目の前にいるわけだから、見て見ぬふりをしていたところに問題があるのではないかと思います。このお金持ちが本当に悪い人でもない。自分中心的にばかり考えている人ではありません。なぜかと言ったら28節「わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」つまり兄弟思いなんです。家族のことはよく考えていますけど地獄なんです。どうしたらどういう愛を問われているかと言ったら、やはり貧しい人とか苦しんでいる人に心を向けているかどうかが、決定的ではなかろうかと思います。アブラハムは否定するわけです。ラザロをよこしてくださいと、生き返ったラザロを見たら悔い改めるでしょうと言いましたが、それは駄目だというんです。幽霊が出てきても驚くだけで、その人が自分自身の人生にどういう影響があったかということになるわけで、それがその人の生き方に繋がっていくかということに、大きなポイントがあると思います。砂漠というのはなにか、裁きの基準というのはどういう意味か。そこにどういう意義がどこに意味があるのかわたしたちは見て、どう生きるのかということを説いています。例えばイグナチオ・ロヨラがこう言っています。霊操という本の中の一番最後ぐらいに、結局はよく生きるために三番ですね、よく生きるためにどうするかということになりますが、彼が言うには、神の愛、神様からどれくらい愛されているかと言う恵みから、わたしたちが愛を生きていくということが一番良い事だと言うんです。でもそうではないこともある。二番目の選択は地獄に行くのが恐ろしいから悪いことはやめろという神様に対する恐れから、悪いからやめて良いことをやるのも悪くないと書いてあります。神の愛から何かいい事をするのはいいけれども、地獄の存在があるから怖くて、行きたくないから悪いことをやめるのは、それも大切なことだというのです。セカンドチョイスとして。天国と地獄を生きるというのもそういうことです。つまり地獄へ行くのを避ける生き方をして、天国に行ける生き方を今選ぶということです。天国と地獄を信じるというのは、神の裁きを信じるというのは、結局よく生きるための三番につながっていく。裁きの基準が今、わたしが生きていく基準になるということです。それをわたしたちは信じていることになります。それが私審判です。もう一つが公審判でこれが世の終わりに行われるもので、使徒信条はそれを書いてあります。生者と死者を裁くために来られるというのは世の終わりに生きている人はもちろん、死んでいる人ももう1回復活させて、全員出てきてそこで改めて、その時は煉獄なしですけれども、天国か地獄かに決めてどちらかにイエス様が裁いて行くというのが公審判です。公審判の恐いのは何かというと、それが最終的な審判だからです。聖書でこれがどう載っているかと言うと、マタイ福音書25章の31節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 有名な聖書の箇所ですが、マタイ24章のところに終末論が反映した世の終わりの前の苦しみはどういうものであるかというのをおどろおどろしく書かれていて、読んでいるだけで気が滅入るところがあります。24章で世の終わりの前の混乱みたいなものをはっきり書いてある。ただ聖書が救いなのは世の終わりだけの話をされると気分が落ち込んで、自暴自棄になってしまうけれど、世の終わりの前の混乱があるからこそどう生きるべきかを24章の真ん中辺りから25章にかけて、ではどうすればいいかを書いていて一番後に今読んだのがお話になるんです。31節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」これがイエス様の来臨のお話です。もう一度天からこのように降ってくる。人の子と書いた時は終末のメシアの姿を書くときに人の子とイエス様は自分のことをおっしゃいます。人の子という時は週末の話になるわけです。「栄光に輝いて天使たちを連れてくる」のだから相当神様の姿を伴って、この世に降りられて栄光の座につく。「すべての国の民がその前に集められる」だから言葉通りにとったら全人類になる。しかも死んだ人も蘇ってこの世に連れてこられる。どの宗教もどの人種も全ての国の民がその前に集められる。全ての国の民だからこれは全人類になるわけです。しかも裁きは簡単です。羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分ける。羊は右に山羊は左に、右はいいところなんです。左は悪い方です。右側にいる、つまり天国に行く人々にはこう言うんです。「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国」でこれはどういう人たちかと言うと、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」貧しい人に対して親切にしたのはイエス様に親切にしたことになるので、天国に行くという裁きを受けるわけです。逆に左側の人41節から左側にいる人には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある」何が驚きかというと、裁きの基準が貧しい人に愛を示したか、愛を示さなかったかということが、この最後の裁きの基準になるということが考えさせられるところがあるように思います。個人的には仏教のエンマ大王の方が論理的であると思います。つまり死んだら私審判の方ですね。エンマ大王の閻魔帳を開いてこういう悪いことをしたとか。嘘を何回したとかで舌が引っこ抜かれたり、ハリセンボンの山へ行ったり、つまり悪いことに合わせて刑罰が降るんだから論理的で個人的には納得がいきますけれども、こちらは愛をしたかしなかったかです。しなかった人が地獄なんです。これは恐ろしい基準だと思います。家族とか身内は愛するというのは入っていないんです。飢えたとか旅人とか困っている人を助けるということだけが基準だと言うんです。これで最終的な裁きが決まるというのはものの見方がすごいと思います。洗礼を受けたか受けないかなとは問われていない。日曜日にミサに行ったか行かないか問われていない。貧しい人を愛したかどうかです。ある意味公平だけれども、ある意味怖いです。裁きの基準です。こういう裁きの基準は何かと言ったら、世の終わりの裁きの基準は、今この裁きの基準に従っていきなさいということです。裁きを信じるということはこの基準に従って今生きようと、それを信じることにつながるのを考えざるを得ないです。天国と地獄を信じるならそれは信じるのではないということです。神様の裁きを信じていると言いながら、無視していたとしたら、信じていないということになるから裁かれるということです。そのように信じるということを突き詰めて言うならば、世の終わりを信じるならば、神の裁きを信じるならば、天国と地獄を信じるかどうかということの一番大事なポイントは、今どう生きるかということに本当のところは全部繋がっていきます。世の終わりに問われることは、今、問われています。今、生きていけるように呼びかけられています。それがわたしたちにとって大切なことになると思います。使徒信条そのものを100%納得して洗礼を受ける人はいないと思いますが、信じられないというのはもちろんで、これはどうかと思うところもあるでしょうが一番大事なのは三に従って生きていこうとするかどうかが一番大事だと思います。徐々にここに書いてあることが分わかっていければ十分ではと思います。信じることはプロセスですから少しずつ分かって、少しづつ実践していければいいと思います。2月の初めに高山右近の列福式であちらこちらで話していることですが、当時はヨーロッパでキリスト教がどちらかというと堕落ぎみでした。プロテスタントが起きるか起きないかぐらいの時代で、カトリックが堕落していたからなんですが、その時にマタイの24章のような戦争も多かったり飢饉もあったりで多くの人が教会の多くの人は堕落していたので、多くの人は世の終わりではないかと思っていました。神父様たちも堕落していて、信者が 少なくとも世の終わりに備えて、しっかり生きなければならないという危機意識があったと思います。それでいろんな信心会が、信徒の団体ができたんです。一番初めはなんとむち打ちの団体です。男性が上半身裸でみんなの前で罪の償いをしなければならないというのです。ヨーロッパ中に広がりました。みんなの前で血まみれになるまでムチを打って罪の償いをするということが流行ったりしました。もう一つの団体はミゼリコルディアで、同じような世の終わりが近いからこのマタイ25章を実践しなければならないと真剣に思ったんです。今でいうボランティア団体ができた。それでミゼリコルディアの2016年の慈しみの特別聖年、憐れみという言葉ですが、彼らのモットーは何かと言うと、六つのタイプの世話をすることに加え七つ目に死者を葬る、つまり身寄りのない人の死者を葬るのを入れて七つの愛徳の業をするのがミゼリコルディアのポルトガル語でいえばコーンフラディア、英語ではコミュニティを作って、キリシタンの宣教師と共に日本にも入ってきて、高山右近がミゼリコルディアのコミュニティを高槻に作ったんです。これを文字通りやった。当時でいちばん人々を驚かせたのは七つ目です。戦国時代だからどんどん人が死んでいくわけで、ほったらかしでした。キリスト教の考えは死体は汚れの考えはないので、お父さんのダリオと右近が自ら棺桶を担いで死者を葬りました。それが多くの人々に強い印象を与えて、キリスト教が広まるようになりました。高山右近がマニラに追放されて亡くなりました。お棺を担ぐのは誰かともめて、ある所は誰が担ぎ手はどうするとかだったんですが、あるフィリピンのミゼリコルディアのグループが担いだ。つまり高山右近がミゼリコルディアのグループであるのはみんな知っていた。だからぜひともわたしたちがということで、ある部分はフィリピンのミゼリコルディアのグループが彼の棺桶を担いだ。フィリピンの地位の高い人が担いだ部分もありました。だから高山右近がミゼリコルディアのグループだと世界中の人が知っていた。有名なことだったということです。全てはマタイの25章から来ています。結局は三を言っています。わたしたちはどう生きるかということを問うているので、結局使徒信条はどう生きるかということをわたしたちに問いかけて促しているわけです。わたしたちが少しずつ信条、信仰の一番基本になるところを信じて実践していくことを少しずつでもいいからできて行ったらいいのではないかと思います十

 

2017年 2 月 20 日(月)
 第 26 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記