カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-02-27 入門講座 27 使徒信条Ⅲ

英神父 入門講座 27 使徒信条Ⅲ  

 今度の水曜日が灰の水曜日と言って、この日から四旬節で、カトリック教会で悔い改めの節制を灰の水曜日から始まります。四十日間やるんですが、この日を境に祈りの生活に入る気持ちで過ごされたらいいのではと思います。カトリック信者の洗礼を受けている方は大斎小斎藤を守る義務がある日です。大斎小斎というのは、十分な食事を一日一回にして、あとの二回を軽めにするということです。それが大斎。小斎というのはお肉を食べないことです。大斎小斎を守る義務があるわけです。洗礼を受けている方はそれを守るようにしてくださったらいいと思います。そして朝7時昼12時夜6時、いつもの平日の時間帯のミサで灰の式、悔い改めの式を行われますので、時間のある方は、興味のある方は受けられたらいいと思います。額に灰を受けて自分自身が塵に過ぎないものということと、悔い改めることを意識する。灰というのは悔い改めの象徴ということです。日本ではあまりしないです。ほぼ全員がカトリックの国では、灰と水を混ぜて額に十字架を黒々とつけて一日過ごす習慣があります。日本では額に乗せるぐらいです。そういう式に預かることもできます。北半球はしんみりした季節でちょうどいいですけれども、南半球の人は真夏であまりしんみりした四旬節は合わなくて、節制の前に盛大にしてカーニバルなどをしています。四旬節の第一主日は10時ミサで洗礼志願式があります。そして復活祭の日の15時半から洗礼式が行われます。    そして使徒信条をやっていたんですけれども、最後の方です。使徒信条 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。」父なる神を信じる。ほとんど大部分はイエス・キリストを信じる。そのイエス・キリストがどんな方であるかということが述べられています。そして「聖霊を信じる」聖霊を信じますというのは、父と子と聖霊、これで三位一体の神様として信じるということになります。聖霊を信じるということをお話したいと思います。聖霊というのは霊と書いてある、神様の創造の力、もともとは息と言う意味なんですけれども、神様の息吹、神様の力、創世記の一番初めの所から聖霊の力で、万物を造ったと言えるわけです。使徒信条の真ん中に出てくる、主は聖霊によって宿り、マリア様によって聖霊が働いて、イエス様が誕生した。聖霊というのは想像の力そのものだということです。イエス様は洗礼を受ける時に聖霊を頂いて、イエス様の言葉と行いは、いわば聖霊の力で果たしていたと言えるわけです。そしてイエス様が十字架にかかって復活されて、五十日後、聖霊降臨、聖霊が弟子たちに降る。そこで聖霊の力がはっきりと働くようになって、その聖霊の力をわたしたちも引き続き頂いているというわけです。ただ信じるということは三段階分けて、一つがその存在を信じるということと、二つ目が働きとか意義とか恵みとか、そういうものを信じるということと三つ目はそれに従って生きていくことを言ったと思うんですが、聖霊の存在を信じるというのはなかなか難しいところがある。あまり固定的なものではありません。聖霊そのものは聖霊の恵みや力を感じるとか、自分の生活の中で実感できるような、そのようなものとして受け止られたらいいと思います。洗礼を受けたらすぐにそうということはないけれども、信仰生活を歩む中で、聖霊の力と恵みとかを徐々に感じたり、それに気づいたり、そのようにして聖霊の恵みと親しくなるように歩んで行かれたらいいと思います。そして三つ目でいうなら、聖霊の恵みに従って、生きていくことができる。それを語っているところ見たいと思います。ガラテヤの信徒への手紙5章16節 「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」このガラテヤの信徒への手紙というのは、パウロの手紙の中でも最も重要な手紙の中の一つです。興味があれば短いので読んでいただいたらいいと思います。主に3章から4章にかけてなんですが、わたしたちが救われるのは律法を守ることなのか、信仰によるのか、重大な問いかけをして、わたしたちはイエス様を信じることによって救われるんだとはっきり言われています。律法を守らなくていいことに、特に男性は割礼を受けなくていいということです。ユダヤ人はイエス様もマリア様も十二使徒もユダヤ人ですから、自分たちの文化から出るというのは難しいです。元の文化や習慣に戻るようなことがあって、ペトロでさえも非難して信仰によってわたしたちは生きていくということをはっきりいうんです。5章のところからは、わたしたちは自由になるんだ。イエス様を信じることによって、自由になる。奴隷のように縛られて生きることがわたしたちの目的ではない。~すべきとかに捕われているわけではない。でもその自由は何でもやっていいという自由になってしまう危険性もあるということで、そこで今読んだ16節のところが「霊の導きに従って歩む」ということがわたしたちにとって大事だということです。聖霊を信じることの最終的な中身は霊の導きに従って生きているということにつながるということです。このところはローマ人の手紙の7章8章のところでやっている。わたしたちの心の中に肉の欲望のようなものがあって、肉体的というより、人間の心の中にある自己中心的な欲求がある。そういうようなものなのですが、17節の後半に行くと「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。ということを言っていて、人間の中には肉の働きに捕われているところとはあるから対立してしまうということです。わたしたちは肉の働きに捕われているところがある。それがあるからどうしても対立してしまう。でもわたしたちが霊に導かれているならば、肉の働きから脱出する事ができる。肉に捕らわれた生き方は何かといったら、19節からです。パウロはこういうリストを書くのが好きな人で、一番初めと最後はあまりみなさんに関係ないと思いますが、真ん中「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、」やはり人間関係やトラブルは自分の力でというか、自分中心、人間中心にやると仲間争いとか妬みとか敵意とか、しばしばわたしたちは巻き込まれてしまうということで、霊の働きがなければ人間というのはどうしても利己的なものに捕われがちだと言っています。だからこそわたしたちは、聖霊を信じて聖霊の働きの中で生きなければいけない。それが22節以下で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」これが9つの霊を結ぶ実が、わたしたちの生活の中で結ばれてくる。自分自身の心の中でこういうものが生まれてきたり、あるいは人と人との人間関係が、自分自身の仕事を通してとか、そういうことの中にこのような実が結ばれていく。それは 霊の導きに従って生きるということの一番大切なことであろうと思います。聖霊を信じるということは、霊の導きに従ってこのような実を、自分自身の生活や周りに結んでいくということ、これを目指して行くことです。わたしたちが日頃やっていることは実を結ぶことなのか、あるいは不和なのか。仲間割れにつながることなのか、そういうことをよく見極めていく必要性があると思います。24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」だからわたしたちの中に捕われとか霊に反するものがあるから、それは十字架と共に十字架ににつけて葬ってしまうとか、それは洗礼を受ける時に古い自分を葬るということと同じことです。わたしたちはそのようなものに、人によっては絶えず、また時々は悩まされたりする。それを十字架と共に葬ってそれを手放す。そしてわたしたちは霊の導きに従って、いつも歩んで行くように心がけるということです。だから25節「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」少しずつ少しずつ、この霊の実りが結ばれていく方向性に、一歩一歩、歩んでいきましょうということです。急にはなかなかできないこと。いつのまにかそういうものが生まれてくるような、そのような方向性で、わたしたちは歩んでいく。それが聖霊を信じるということの中身ということです。そのために聖霊の導きを願って行ったらいいのではないかと思います。たとえばこういう講義をやる前は、聖霊の導きを願う。聖霊の働きを願うと言うか、誰かに会う時も聖霊来てくださいと、聖霊の働きを願ってから、ひとつひとつの仕事を果たすことができたらいいと思います。カトリックの昔の祈りに、始業の祈りがあって、仕事を始める時にお祈りがあって、聖霊来てくださいからと、日々の生活の中で聖霊の導きとか聖霊の働きの中で今日一日の仕事に聖霊が働きますようにという気持ちで始めるような、そういうところからスタートするといいのではないかと思います。もちろん自分がすることも一生懸命しますけれども、そして少しずつ前進していけるようにということです。だから聖霊を信じるということも非常に大事なことになるわけです。そして何を信じるかといったら、聖なる普遍の教会を信じるということです。聖なるというのは聖であるということですが、聖霊の恵みから来ているから、聖性が働いているということ。普遍のということば、これは英語訳にしたらカトリック、普遍的という意味です。聖なる普遍の教会を信じるということです。教会の何を信じるかということは、案外難しいと言うか、盲信するとか、神父の言うことはなんでも聞かなければならないとか、そういうわけでもないし、教えや掟を鵜呑みにしてそのままやるわけでもない。教会を変に理想化する、聖霊は明らかにいいものですし、神様は100%いいものですが、教会を信じるという時に ニュアンスは変わるわけです。神様には問題ないけれど、教会には問題が色々あるので、神様を信じるというのとは違う意味があるということです。聖なる普遍の教会を信じるということは何かと言ったら、神様を信じるとは違う意味になるのです。では聖なる普遍の教会を信じるとは何かといったら、基本は二つあって、教会の起源なんです。始まりはどこにあるかと言うと、聖霊の働きにあるということです。教会は聖霊の働きの中で聖なるものであって、普遍的なものとして生まれました。普遍的ということをある意味よく表しているのは、使徒言行録2章、聖霊降臨のところです。聖霊が降ったら世界中から来ていた人々が言語の違いを超えて何を言っているか理解しあえたということです。それがある意味普遍的ということの一つの表れです。普遍的の逆は何かと言ったら、ギリシア人はギリシア人だけとか、教会はユダヤ人だけとか他の人は来ませんとか。つまりある言葉が喋れないとしたら普遍的ではないということです。どんな言葉でもどんな民族の人も真理に触れることができることが普遍的ということです。だからわたしたち教会は、狭い民族とか人種とか男女の違いとか、そういうものを超えて普遍的なものとして、始まったということです。非常に大事なことだと思います。仲間内だけで仲良くしたいとか、そういう民族の違いを乗り越えるとか、簡単なようで簡単ではないと思います。言葉の違いを乗り越えるだけでも大変ですけども、もともとそういうことが始まっていることと、もう一つは何かと言ったら、そういうところに向かっていると言えると思います。聖なる普遍の教会になるように、わたしたちは目指さなければなりません。教会というのはもともと聖なる普遍の教会だからそうなるように、わたしたちは心がなければならないと言うことができるでしょう。そのような聖なる普遍の教会を信じる。それに基づいて生きる。あるいはそれを目指して生きると考えてもらえたらいいと思います。エフェソの信徒への手紙4章2節「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。 『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 」ガラテアの信徒への手紙は早い時期に書かれたといわれています。エフェソへの手紙はパウロという人が晩年に書いた手紙ですが、パウロの活躍は使徒言行録の後半の方、9章以下を読むとよく出てきます。4章1節「主に結ばれて囚人となっているわたし」パウロです。牢獄にいる時に書いたと言われています。そういうところから獄中書簡といわれています。「高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。高ぶることなく柔和で寛容の心を持ちなさい」ニュアンス的には分裂があったのかと、だからこのようなことが書いてあるのか、教会で喧嘩があったから書いているようなのです。霊による一致ということがあって、「体は一つ、霊は一つ」これは聖霊は一つです。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって」一つであるとよく強調しています。だから分裂を乗り越えて一つにならなければならないということを強調しているわけです。そしてその後に7節「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」聖霊の賜物が一人一人に与えられています。一人一人に賜物や才能が恵みを使って与えられているのでそれをいかしなさい。つまり11節「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」ということで、これも一人一人違うわけです。皆さん一人一人に役割や使命が与えられているから、それを一人一人が果たすようにしなさいということです。それをしていくことによって、12節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」ということです。キリストの体ということが教会ということです。時々言うことですけど、教会は建物だけではありません。ここにも綺麗な聖堂がありますけれども、聖堂が教会ではない。わたしたち一人一人が教会です。聖堂が無くなったって教会が無くなるわけではない。この教会の信者さんの登録が0になったら教会ではなくなりますが、建物は本質的ではありません。これから洗礼を受けられる方々は、教会のメンバーになるということが大事です。教会の一員として生きていくことが大事です。教会の一員になるということは何のためかと言ったら、キリストの体を作り上げていくということです。聖なる普遍的な教会を一人一人が助け合って築き上げていくということです。これが一番大事だということです。教会を建てるのは大変な労力がいるでしょうけれども、本当の教会はわたしたちの中に聖霊の実り、愛、平和、善意、誠実、柔和、節制というような実りが作り上げられていくことで、教会を作っていくということがもっと大事なことだし、わたしたち一人一人に与えられている 使命だということです。建物というのではなくて、キリストの体を成長させていくものだということです。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、」「もはや未熟な者ではなくなり」わたしたち一人一人が未熟なものからだんだんと成熟した信者に少しずつなっていくように、少しずつ成長していくように呼ばれていく。洗礼を受ける人は受けるなりに、長い人は長い人なりに、より成熟した人間に成長するように呼ばれている。それが教会と共に歩む、教会を形作るということが具体的な中身です。一人一人が成熟していくことが実際は教会を形作って行くことになります。なかなか簡単なようで難しいことです。何が難しいかと言ったら、当たり前ですが特にこれから洗礼を受ける方でつまずきがある。何かと言ったら、教会は聖なる普遍の教会のはずなんだけれども、実際は罪がいっぱいあります。この肉の業がいっぱいあります。妬みとか不和とか争いとか嫉みとかあって、特に洗礼を受ける方々はつまずきに出会った時に、教会というのはいい人とか立派な人ばかりだろうというつもりで入ったら、変な人がいっぱいいて傷つけられたりがよくあることです。だから聖なる普遍の教会というのは、作っていかなければならないです。そうなっていくようにわたしたちは、そうでない者はもちろんなくなった方がいいわけですけれども。だから成熟した信者のわたしの定義ですけれども、何かと言ったら一つは信者につまずかない、ということです。変な信者がいるのも分かった上で、それでも誠実に歩んでいくことができるというのが、信仰の成熟のひとつです。つまり変な信者がいるから教会が来ないというのは未熟な信仰心です。どこにでも変な人はいますから。教会の中のそういう人につまずいて、教会に来ないというのはわたしたちが未熟な印です。もう一つの成熟のしるしは神父様につまずかないということです。つまりどんな神父様であろうとそれに振り回されないで、自分の信仰をしっかり持って教会に行く。つまり人に振り回されないで、自分の信仰を持って歩めることが、成熟した信者だというのがわたしの定義です。神父様も神様ではありません。イエズス会の修道会で多くの神父様と住んでいますけれども、時々聖人のような素晴らしい人もいる。時々どうしようもない人もいる。時々普通の人は、いいところと悪いところが混ざっているのが普通だと思います。そのようにして信者とか神父様を偶像化しないということです。神様ではないんだからいいところ悪いところが分かって、しっかり自分は神に向かって、自分の信仰を歩んでいくことができる、そういうのが成熟した信者の生き方ではないかと思います。ここで言うのはその通りなんです。「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」わたしたち一人一人それぞれで様々ですが、色んな面で少しずつ成熟していくように努めるし、教会を通しその恵みを与えられているのです。 未熟な人はどうかと言ったら、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく」なんです。風のように変わりやすい態度に振り回されて、こちらがふらふらで、悪いものに振り回されて、持て余されたり引き回されたりしていたら未熟なわけです。そういうのに振り回されないように、世間的な考えとか、あるいは一時的な流行の思想とか、いろんなものがありますけれども、そのようにわたしたちが振り回されているとずれてしまう。だんだん振り回されなくなってそして「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」わたしたちはいろんな面で成長していく。信仰の面であるいは心の豊かさの面で理解をすればいいし、自分自身の行動とか行いを通して、全ての面でキリストに向かって成長していくように、わたしたちは呼ばれている。愛に根ざした真理です。そこに自分自身の土台を置いて、そこから一歩一歩ということです。16節「 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」つまりキリストの体の全体が作りあげられていく。教会が更なる聖なる普遍的なものになっていくように、神の恵みとわたしたちの祈りや補い合い、組み合わされて結び合わされて分相応で、自分が出来る限りの努めをして、体全体を成長させていく。これがわたしたちが教会を信じるということだと思います。つまりみんな微力ですけれども、お互い助け合いながら教会を形作っていくように、みんなで助け合っていくということが、聖なる普遍の教会を信じるということの中身です。みんなが少しずつそのものを一人一人が成長していくということによって、お互い助け合う事によって、このようなものを作り上げていくように、わたしたちは呼ばれている。教会は現実はそうなっていないです。罪人の集まりで、罪もあるしたくさんありますが、悔い改めて少しずつ歩んでいかなければならない。現実を認めた上で、少しでもいいものになるようにみんなと力を合わせなければならないということです。   それともうひとつの教会の問題は何かと言ったら、この普遍的という元の意味に反していますが、教会は分裂している。大元はカトリック、プロテスタントと東方教会、ギリシア正教会とロシア正教会いわゆるオーソドックスチャーチです。三つに分裂しているということです。これも神様の御心ではないということです。イエスの御心ではないということです。4節「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、」「神は唯一」全部一つなのに人間は罪のために三つに分かれてしまっているのは大いなる不幸、わたしたちが反省しなければならないということだと思います。長い歴史があるから、一つにはなかなかなれないですけれども、それに向かっているということも意識して、他の教会を安易に批判するべきではないです。今のところはカトリック、プロテスタント、正教会では戦争はないと思います。少しずつ一致に向かって歩めるように、わたしたちは心がけなければならないと思います。そんなに簡単なことではないと思います。お互い歴史を背負っているので、なかなか難しいと思いますけれども、目指すところはひとつの教会に戻るということです。それもわたしたちの時代にできるかどうかと思いますが、それに向かっているということも、大切な教会を信じていくということです。分裂したままだったら普遍的ではない。部分的なままにとどまっているわけですから、それもわたしたちが心がけなければならないと思います。現実的な教会の問題も受け入れながら、理想的な教会になるように力を合わせて歩んでいく必要性があると思います。   その次なんですが聖徒の交わり。聖徒の交わりは何を言っているか。聖人のことです福者のことです。教会の立派な人々で、亡くなった人々です。そういう人々とわたしたちは交わりがあるということです。この交わりという言葉を英語で書くともっと強い言葉で、コミュニオンと言って共に一つになるということです。交わりよりももっと強い言葉です。コミュニオンというのはミサの中でどこで使うかと言ったら、聖体拝領です。聖体拝領をコミュニオンと言うんです。つまりそれは神様とイエス様とひとつになるということです。コミュニオンというのは強い言葉です。交わりというのはちょっと弱いんですけれども、でもわたしたちは亡くなった聖人たちとひとつなんだということです。一つの恵みの中に生きているということを信じているということです。これは別の言葉で言うと、教会は二つあると考えます。一つは地上の教会。もう一つは天上の教会、教会は二つあって、それが繋がっているということです。地上の教会というのは問題だらけで、罪とか堕落したりするわけですけれども、それに対して天上の教会は聖人たちの交わりのつながりの中であるから、ここに理想的ないわば姿があって、わたしたちもそれに支えられているということです。それに繋がってるというのが生徒の交わりを信じるということです。何で皆さんが洗礼名を付けると言ったら、聖徒の交わりがあるからなんです。つまり聖人が特別に守ってくれると言うか、助けてくれるということです。だからロザリオでアヴェ・マリアの祈りで、マリア様の執り成しをなんで願うかというと、聖徒の交わりが成り立っているから。だから繋がりがあるからということです。そのようなものに支えられて、高山右近は列福されましたけれども、キリシタン時代の殉教者、そのような人々につながりの中で歩んでいると考えます。これも非常に大切な考え方だと思います。聖徒の交わりから、聖人たちの考え方を無視して、わたしたちは勝手に生きているものだけで、教会のものごとを変えるのはよくない。あるいはわたしたちの生き方そのものは、わたしたちが生きている今だけではなくて、昔からいる聖人たちの流れの中にわたしたちがつながりの中にあるということです。そういうことが 大切な考え方で、いわゆる聖人伝、マザー・テレサとか自分の好きな聖人のそういう人たちの本を読んで自分の生き方の参考にするということはあるわけです。自分の好きな聖人の生き方とか精神を学んで、今生きていく力とか模範にするのは多々あるわけです。それは全て聖徒の交わりの成りたちの中で、わたしたちは亡くなった素晴らしい人たちとのつながりの中で、恵みをいただいているし、そのような中でわたしたちは歩んで行く必要性がある、それが聖徒の交わりという形になるんです。それもなかなか宗教的な考え方と思います。 無神論的な考え方ではどうでもいいとなりますが、わたしたちはそうではない立場に立っています。たとえば探し物はアントニウスに頼むというのはあります。聖徒の交わりだからです。物を無くして見つけたい時は、パドアのアントニウスに頼んで、使徒信条三回唱える間に出てくるのが普通です。でもあんまり行き過ぎると偶像崇拝的になるから、控えましょうということになりました。あまりおまじないみたいにするものではないです。過去の聖人たちとのつながりの恵みの中でわたしたちは歩んでいくということです。それはわたしたちにとって大切なものだと思います。そしてその次です。「体の復活永遠の命を信じる」ということが最後にくるわけです。これは終末論につながっていて、なかなか日本人に馴染みがないのですが、コリント人への手紙第一15章は 復活の話をまとめて書いてあるところです。全体的にみてもらったらいいと思います。12節「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」ということでまだ意見がまとまっていなかった。つまりイエス様は復活したけれども、わたしたちが復活することに対しては混乱があるわけです。だからパウロが改めて、わたしたちみんな復活するんだということを、ここではっきりと書いてあるわけです。復活がどういうものかと言ったらわたしたちの人間の復活は35節ぐらいから書き出すんですけれども42節から「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、次の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」前回も話した終末の世の終わりというのが、ここにも出てくるわけですけれども、42節「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」全然違うものに復活するということです。わたしたちの復活、体の復活、体が生き返るわけではなくて、蒔かれた者が復活する。わたしたちが生きているのは種みたいなもので、それが復活した時に花が咲くように復活するということです。簡単に言えば想像を絶しているということで、単に生き返るというわけではなくて、全く違うものになる。だからわたしにすれば、毛虫が蝶になるような、全く違うものに復活する。初代教会の後にでてきた偉大な人々なんですが、オリゲネスがギリシア教会で一番有名なんですが、オリゲネスがいうには復活した体は球体であるというのです。想像を絶していて分からないけれども、あまり現実的に物質的に考えると、ちょっと違うようなものだと思うのですが、そのようなものにわたしたちは変えられるということです。それはわたしたちがこの世界の中でどう生きていくかということと、深い繋がりがあると思います。52節「最後のラッパが鳴る」黙示録では七つ目のラッパが鳴ったら、一瞬のうちにこの復活したものに変えられるということです。しかも54節「死は勝利にのみ込まれた。」死がなくなるのです。生まれるということもなくなるかもしれない。生まれて死んで生命の繰り返しというものがなくなる、死がなくなるという世界にわたしたちは想像を絶している次元に世界全体が併用するというものである。それを永遠の命という言い方で言っています。だから永遠とは時間的ではないということです。時間がない世界だと思います。神様がいる世界は永遠の今しかないです。わたしたちは現在過去未来と時間が延びて、延びた中に過ごすわけですが、神様の世界は現在過去未来はないんです。今しかない。そういう世界にわたしたちは入るのではないか。そうすると永遠の今しかないので死がない。だからそういうのは永遠の命ともいう。でも推測ですからはっきり分からないわけですが。58節「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、」この世のものとか過ぎ去っていくものに振り回されないようにして、「主の業に常に励みなさい。」ということです。聖霊の恵みを受けてわたしたちが果たすべき使命を役割をするように努めなさいということです。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」つまりこの世では苦労が実ることもあれば実らないこともあるし、案外苦労していない人が成功したり、悪い事をした人が成功したり、この世的な意味ですが。でもわたしたちがこの世でしている苦労は復活の恵みと関係ある。この世的にはバランスが取れていない、うまくいってないことがあったとしても、わたしたちがこの世界で愛をささげたことは、復活の恵みの中で輝きを増すような意味があるので、苦労が無駄にならないということです。わたしたちはこのような日々の中でくだらないことがあると思うけれど、すべては無駄にならない。復活の恵みに何か大いなる輝きとして与えられるということだと思います。それも希望につながるものではないかと思います。最後に体の復活を祈るとは、日本人としては現実感がありませんが、世の終わりがいつ来るかわからない。わたしたちは希望に支えられて、今日することを大切に歩んで行きましょう、ということにはなります十

 

2017年 2 月 27 日(月)
 第 27 回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記