カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-12-09 人は皆 神の救いを仰ぎ見る

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会

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ルカによる福音書 3章1-6節
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである十

  待降節の第二主日は、この洗礼者ヨハネのお話を朗読するというのが通例になっています。そして洗礼者ヨハネの務めは、悔い改めの洗礼を宣べ伝えているということです。それは預言者イザヤ書に書いてあることが実現することであるということです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」これはイザヤ書40章の引用からです。もともとイザヤ書では何かと言うと、40章から第二イザヤ書というところに当たるんです。第二イザヤ書は何かと言ったら、バビロン捕囚でこのイスラエルの地から離れている人々が、かなり遠く離れたバビロンにいたんですけれども、イスラエルに帰るところを予言するところです。だから主の道をまっすぐにせよということは、神様がエルサレムに帰って行く道をまっすぐに整えてくださるということを言っています。あるいは「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。」ということは、すべて神様がそのようにしてくださって、まっすぐで平坦な道に変えることができると言ってくださっています。だからわたしたちが道をまっすぐにしたり、平坦な道にせよと言っているわけではありません。神様がそうしてくださって、イスラエルの民がもともと住んでいたエルサレムの地に帰ることが可能だと言っているわけです。帰る道を主は保証してくださっている。でもなかなか考えさせられることです。彼らは70年ほどバビロンで奴隷の身分だったんですけれども、結局バビロン帝国は倒れて、ペルシャに帝国が変わった時にキュロス王が解放して、やっと彼らはバビロンからイスラエルに戻ることができる。彼らの気持ちを考えたらこうだと思います。かなり長い旅路だったでしょうけれども、気持ちは母国からの追放の身からやっと自分たちの国に帰れる。心の中は嬉しさと喜びでいっぱいだったでしょう。帰り道はまっすぐな道でしかも平坦だったでしょう。実際は曲がりくねったり、山を越えなければならない道もあったでしょうが、まっすぐで平坦な道を帰った。なぜならば心は大きな喜びで満たされていた。追放の身で外国に暮らしていたのに、今からやっと自分の国に帰って自分達の居場所に戻ることができる。安心感と大きな喜びがあったから、帰り道はどれほど足取りは軽く、少々の山があっても全然気にせずに、しかもイスラエルに帰るというまっすぐな道を、少々のことは苦労とも考えずに戻ることができるということを語っている場所です。洗礼者ヨハネがどうしてここを引用したかと言うと、わたしたちも奴隷状態というか、神様なしの苦しみにある世界から、わたしたちの神様の国、それがわたしたちの本当の居場所であって、帰っていくことができると、洗礼者ヨハネは言っているわけです。そしてこれを待降節に朗読するということは、まさしくわたしたちの迷いとか捕われ、人生の苦しみ、忙しさ、そういうものもありながら、わたしたちは神様の国に帰ることができるということを、主が保証してくださる。神様への帰り道はまっすぐで平坦で歩きやすいということです。そこにわたしたちの救いが本当の平安と安らぎが保証されているということです。これは慰め深い神様の約束だと思います。わたしたちの人生は実際は曲がりくねっているし、山あり谷ありだし、楽しいこともあれば辛いこともあるし、どっちに行っていいか分からなくなったり迷ったりすることも度々でしょうけれども、わたしたちの信仰の道はいつもまっすぐ、いつも平らな道を心から喜びのうちに歩んでいくことができる道だということです。この主が示してくださっているまっすぐで平坦な道を歩んでいくということを思い起こしたいと思います。わたしたちの道は神様のもとで安らぐためのその道のりを、まっすぐで平坦な道を歩んでいます。その道があるからこそ、わたしたちは日常生活の苦しみや人間関係の煩わしさ忙しさに振り回されずに、歩んで行くことができるということです。   まっすぐな道と言ったら、30年以上前、わたしがイエズス会に入って、最初修練をします。その時だけはかなり厳しい生活でしたが、その中で巡礼をするという実習がありました。わたしの場合は広島から長崎まで徒歩巡礼をすると言う、20日間かけて400 km 歩きました。まだ20代でした。広島から長崎への道というのは、実際歩くとまっすぐな道が時々ありますが、かえって厳しいと言うか、先の先まで遠くに見えて気分が落ち込みます。でも1、2時間かけたら着くんですけれども、でもまたその先に長い長い道のりが待っています。いくら歩いても歩いても遠い道のりもあったし山道もあったし、ちょうど今ぐらい12月の上旬に歩いていました。日によっては雪混じりの雨が降ったり、雪が降ったり、思い起こせば厳しい道のりだった。お昼ご飯は托鉢ということでした。すぐにもらえる日もあれば、十軒ぐらい断られてご飯がなかなか食べられないとか厳しいこともありました。思い起こせばほほえましい思い出の巡礼でした。考えればその全てはまっすぐで平坦な道だったと思います。なぜかと言ったら、神が共にいてくださったから。神と共に道を歩むならば、それまっすぐで平坦な道を歩むことができる。そしてイザヤはこう約束しているんです。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」その道を歩むことによって、わたしたちの信仰の道でも必ず神の救いを仰ぎ見ながら、わたしたちは歩むことができるということですから。この待降節、主を待ち望みながらですけれど、主が備えた道をこの一週間まっすぐに歩めるように、神様と共に、神様の救いをまっすぐな気持ちで、苦労のない平坦な道をまっすぐ歩むことができるように、主の照らしを受けながら祈りを捧げ、そのように生きられるように共に祈りましょう十

第一朗読  バルク書 5章1-9節
エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。神は天の下のすべての地に お前の輝きを示される。お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、その名は永遠に残る。エルサレムよ、立ち上がれ、高い山に立って東の方に目を向けよ。お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、西からも東からも 聖なる者の言葉によって集められる。お前の子らは敵に追い立てられ、徒歩でお前のもとを去ったが、神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。それはイスラエルが神の栄光に包まれ、安全に歩むため。森も、香り高いすべての木々も、神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1章4-6、8-11節
(皆さん、わたしは、)あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように十

 

 

 2018 年 12 月 9 日(日)7時ミサ
  待降節第二主日〈紫〉C 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記