カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-01-27 貧しい人に福音を告げ知らせる

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 1章1-4節、4章14-21節 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。(さて、) イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた十

 今日のルカの福音書の冒頭のところは、ルカの一章の最初のところが朗読されました。ルカが何のために聖書を書こうと思ったかということが書いてあります。「物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」多くの人がイエス様のことについて物語を書いている 。そしてルカも初めから詳しく調べて、イエス様の物語を書こうと思っていると書いてあるわけです。イエス様の物語が福音書になったのは当然です。物語ということについてですが、去年の年末、ある新聞のコラムに、精神障がいの人の人生が書いてありました。個人的には病気の方と付き合いも多いし関心もあるので、切り抜きにして取ってあります。精神障がいを持っている家族の人の話なんです。その物語はどれほど辛い厳しいものであるかということが書き記されています。病気を抱えている人の苦しみと、その家族の物語がどれほど厳しいものであるか。それを読んでいるだけでわたしの胸がいっぱいになります。そして後半の方は「べてるの家」ご存知の方もおられるでしょうが、北海道にある精神障がい者の方々の 地域活動拠点で、そこの物語が示されています。確かにわたしたちは大きな病気があろうとなかろうと、何かの苦しみや辛さを背負いながら、あるいは大きな喜びを感じながら、一人一人にわたしの物語があるのは事実でしょう。その物語を人前で語ることができる人もいれば、いろんな理由で自分の物語を語れない方もおられるでしょう。この教会ではお葬式が多いのですが、そのお葬式ですべては分かりませんが、一人一人に人生の物語があるということはひしひしと感じます。この聖堂の地下に納骨堂がありますが、そこで納骨式を行うことが多いですが、時々思うのが遺骨を保存するよりわたしの物語を保存した方がいいのではないかと思います。物理的な骨よりも、その人が生きた人生の物語を納骨堂に保存した方がより価値があるのではないかと思います。わたしたち一人一人に物語があるのですが、ルカの福音書に書かれている物語というのは、イエス様の物語が書かれています。それを直接体験した人も 物語を書いているわけですが、ルカは直接イエス様と出会っているわけではありません。ルカは人から聞いたイエス様のことを記しているわけです。でもルカはイエス様の物語を何でこのようにして記しているかというと、イエス様の物語が自分の物語と重なっているからだと思います。 イエス様の物語が 他人の物語ではなくて、自分の物語になっているからこそ、こうやって福音書が二千年間も朗読されています。今日の聖書の最後の所にこうあります。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」皆さんの人生の中で御言葉が実現したと書いてあります。それはイエス様の救いの物語が、皆さんの中で実現したとイエス様は述べておられます。これはわたしたちにとってのお恵みだと思います。わたしたちの人生はわたしの物語があるだけではなくて、もっとも貴重なのは 、わたしの物語とイエス様の物語が重なっているところがある。あるいはわたしの物語そのものがイエス様の物語だと言えるところがある。わたしたちクリスチャンの本当の物語だと言えるのではないかと思います。具体的にはイエス様がイザヤ書を朗読されます。 「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされた。」 とイエス様はおっしゃるのだから、自分が貧しい者として、いつどのように自分に福音が告げ知らされたか。そしてもっと具体的に言うならば、 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし」た。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」皆さんがいつ捕らわれから解放されたか。あるいは見えなかったものがどのように見えるようになったのか。あるいは圧迫されているものからどのように自由になったのか。それが皆さんの救いの歴史の中で今までのどこかで実現した事でしょう。だからイエス様の物語が皆さんの物語になっています。それがクリスチャンの喜びだと思います。そしてそれはこれからも続くでしょう。 ルカの福音書の中で、今日実現したとはまさに今日なんです。二千年前ではなくて、今日それが実現しているわけです。わたしたちが生きているのはイエス様の救いの物語を生きている恵みが与えられているということです。わたしたちはただ人間としての自分の物語を生きているだけではなくて、神の物語を生きています。罪を犯してしまう時もあるかもしれない。神から離れてしまったという時があったかもしれません。でもその物語ですら、放蕩息子のたとえ話のような物語になる可能性がいつもあるわけです。だからわたしたちは救われていると言えるでしょう。 過去も今日も明日も。さらにこの言葉が実現するとしたら、場合によっては皆さんが貧しい人に福音を告げる側に立つこともあるでしょう。あるいは捕らわれている人の解放を手伝う側にまわることもある。それも皆さんの中でイエス様の物語が実現するということです。自分が救われて人を救う手伝いをすることもある。その両方が皆さんの生活の中で実現していくわけです。イエス様がこの言葉が実現したとはっきりと宣言して下さっています。 この宣言をわたしたちは生きていくようにしましょう。この一週間、イエス様の御言葉が実現するように、わたしたちはイエス様の物語を生きることができるわけです。そのお恵みをいただきながら、それを願いながら、この一週間を神と共に 神の物語を生きていくことができるように、救いの物語を実現していくことができるように、お祈りを捧げたいと思います十

  第一朗読  ネヘミヤ記 8章2-4a、5-6、8-10節
(その日、)祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。(次いで、レビ人が)神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 第一 12章12-30節
(皆さん、)体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。《足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。》あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。《神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。》十

 

 2019年 1 月 27 日(日)18時ミサ
  年間第 3 主日〈緑〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記