カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-03-03 心の丸太 

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

ルカによる福音書 6章39-45節 (そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」十

 ここ最近は、ルカによる福音書のイエス様の説教のお話です。平地の説教とよばれるところが順番に朗読されています。 「盲人が盲人の道案内をすることができようか。」でもやはり目が見えるようになればそれができるようになる。 「だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」とイエス様がおっしゃっています。「盲人が盲人の道案内をする」一つの例は「 兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」とイエス様がおっしゃるわけです。目の中におが屑があったら痛いですが、丸太があるというんですから大変です。ユダヤ人の表現では、目というのは心を表しています。目が濁っているということは、心が濁っていること。あるいは目が澄んでいるというのは心が澄んでいると、ユダヤ人の表現にあります。おが屑があるのは目ではなくて心である。そして心からあらわれている行動の中に、おかしなところがあるということでしょう。でもそのおが屑は他の人のだから見えるのですが、自分の心の中には丸太があるというんです。丸太を切った時に少し出るのがおが屑でしょうが、丸太そのものが自分の心の中にあるから大変なことだと思います。丸太みたいに大きすぎると、かえって気がつかないのではないかと思います。さらにもし、自分の心の中に丸太があるのだと気が付いたとしても、大きすぎて出すことができません。おが屑だったら簡単に取れそうですが、何メートルかの丸太があったら、一人で担ぎ出すこともできないでしょう。皆さんの心の中に丸太があると思えるか、思えないかは皆さん次第でしょう。 あまりに大きな捕われで気づくこともできなければ、出すこともできない問題が人の心にはあるということです。わたしたちは他人のおが屑ばかり気にしているけれども、自分の心の中の丸太を見つけられるか、取り除けるかという大きな課題を抱えていると言えるでしょう。    例えば、イエズス会に入会したり司祭叙階されたり何か重要な段階 の時には審査があります。その時には英語でインフォメーションという、四人にその希望者についての調査書のようなものを書いてもらって、そして管区長が最終的にはその人を許可するかどうかを決めるという習慣があります。インフォメーションを書く人は自分の好き嫌いで書いたら大変だから、神様によく祈って、その人はふさわしいのか、問題はあるのかを、一生懸命お祈りして、自分の偏見とか捕われを置いて 、中立に書いて提出して、そして責任者が四人の意見を聞いた上でよく考えて、その人の司祭叙階などを認めるかどうかを見極めるシステムがあります。昔、ある先輩神父様で 神学院の院長をされていた方がいました。その神父様は人間観察に優れていて、神学院長なので神学生に対して大きな責任があります。司祭に認めるか認めないかの最終決断に関わる役職になるわけで、その神学院長がおっしゃっていたのは、司祭叙階などを申し込んでいる人の四つのインフォメーションを読んで驚いたのは、四人が書いている内容は、叙階するかどうかの神学生のことではなくて、四人とも自分のことを書いていたと言うんです。その四人は一生懸命その希望者のおが屑とか問題を、よくよくお祈りして、自分の捕われとかを置いて中立に書くんですが、院長が読んだ時には、そこには書いた人の丸太について書いてある。あまりにもはっきりと自分のことが書いてあって驚いたと、院長がおっしゃっていました。わたしたちはどれほど客観的に人を見ていないかということです。わたしたちが人を評価している時に、結局は自分の何かを通してその人を見ていて、何かというのは、その人の心の中にあるものだけが認識できるということの一つの例でしょう。大切なのは丸太があるということを、どれだけ気づけるかということです。わたしたちはいろんな出会いとか関わりがあり、なんでこんな人と仕事をしたり、結婚したり友達でいなければならないかとか、色々悩んだり考えたりして、何とかしてその人のおが屑をとりたいと思うけれども、でもその人と出会い関わっているということは、深い深い意味があるということです。つまり人間はつながりの中で生きていて、そのつながりを通して、あるいは出会いを通して、自分自身に気づくと言うか、自分が成長したり、自分の殻を破ったり、自分が乗り越えていくきっかけを与えられていると考えざるを得ません。 だからイエス様がおっしゃっていることは、まさしく本当の真実そのものだと書いてあると思います。わたしたちは本当のことを、どう受け止め実践していくかが大きな課題で挑戦であると言えるでしょう。 一人一人の出会いや関わりから、大きな恵みや大きな気づきの機会が与えられています。それがなければ気づかないまま、一生を過ごしてしまうことになってしまう。わたしはこの教会で働く前は、黙想の家で働いていて静かな生活でしたが、イグナチオ教会に来たら、毎日あまりにもたくさんの人と会ったりして、生活が全く変わりました。どちらの生活が心地良いかと言ったら黙想の家にいた方が、神様と共に過ごせて恵み深かった気がします。でもこの教会に来て沢山の人と出会って関わり合って、一番の恵みは、自分の中の丸太が何なのかということが、はっきり分かるようになったことではないかと思います。いろんな人との関わりからこそ、自分を発見する。自分の限界や至らなさが、より鮮明に分かるようになったのが大きなお恵みだと思います。ただ丸太を取り除けるかどうかという問題は依然としてありますが。わたしは心の中にある丸太を取り除くにはどうやったらいいかよく考えてみました。一つのたとえですが、目であったら、回心の涙を溢れんばかり流したら丸太が取れる。丸太は水に浮くからです。そのまま持って行こうとしたら、大きすぎて動かせないけれども、たとえば心の中が聖霊の水で満たされたら、丸太は浮いてきて流されていく。神の恵みが溢れれば、やはり丸太は自然に出ていく。恵みの中で 流されるでしょう。人の目の中にあるものは目薬をさせばすぐ取れるということです。わざわざ指を使わなくてもいいということです。わたしたちは恵みのうちに変わっていくことができるということです。 だからイエス様はここでお話をされているんだと思います。そして「そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」だから相手も変わるわけです。自分が変わることによって、相手もちゃんと変わるとイエス様が約束してくださっています。本当に大きな真理だし、大きな恵みだし、大きな挑戦であるかもしれません。わたしたちはいつも神の憐れみの中で 生きています。人との関わりの中で生きています。わたしたちは絶えず神の憐れみによって変えられていく。神様に向かって変えられていく。自分だけではなく相手もお互いの関係もすべてです。そのような恵みにわたしたちは生きていけるように願いましょう。そしてそれを意識しながら、みなさんの生活で少しずつ実現していく、特にこの一週間にそのような恵みが与えられるように、心を合わせて祈りながら、わたしたちの目が澄む、心が澄むよう祈っていけるように、ともに祈りをささげたいと思います十

 

 

第一朗読  シラ書(集会の書) 27章4-7節
ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、人間は論議によって試される。樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる。話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 第一 15章54-58節
(皆さん、)この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです十

 

 2019年 3 月 2 日(土)18:00 ミサ
  年間第 8 主日〈緑〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記