カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-05-19 かがんでいく 

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

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ヨハネによる福音書 13章31-33a、34-35節 さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」+

  今日の福音書はヨハネの13章、イエス様が十字架にかかられる前の最後の晩餐でのイエス様の説教の一部分です。このユダがなんで出ていったかといえば、イエス様を裏切るために出て行く。ここからイエス様の受難が、イエス様の十字架の苦しみが始まる。そこのところでユダが出ていったらイエス様が 「今や、人の子は」つまりイエス様が「栄光を受けた。」「 神も人の子によって栄光をお受けになった。」ユダの裏切りに対して、イエス様の発せられる言葉は「栄光を受けた」栄光ということをイエス様がここでおっしゃる。不思議な気がする言葉をここで言われるわけです。イエス様が十字架にかかられること自身が栄光であると、ヨハネの福音書ではイエス様がおっしゃっています。栄光とは何か。ヨハネの福音書において、はっきりしているのは、十字架にくだっていくということが 栄光であると語っています。普通で考えれば栄光というのは、成功したり、うまくいったり 、どちらかというと十字架ではなくてのぼっていくことが栄光だと普通は考えられるわけです。でもイエス様にとって栄光というのは十字架の死に向かってむしろくだっていく、それこそが栄光であると、とても不思議な表現をしています。  この前の木曜日にジャン・バニエという人の葬儀がありました。ジャン・バニエは ラルシュ共同体といって、知的ハンデを持つ人と持たない人が、共に暮らすラルシュ共同体を創立した方で、 91歳で亡くなられました。一時期、キリスト教には三大カリスマと呼ばれる方がいて、マザー・テレサとテゼ共同体の ブラザー・ロジェとジャン・バニエの三人が三大カリスマと呼ばれていました。これで三人とも亡くなられました。個人的にはジャン・バニエは恩人のようであるといえます。わたしが司祭になってしばらくして1990年代後半ですが、彼が日本で最後に行った黙想会に、わたしは参加することができて、直接ジャン・バニエのお話を聞きました。わたしはイエズス会に入って十年以上たっていたんですが、 ジャン・バニエの話を聞いて、福音書に書いてあるとはこういうことかと初めてわかりました。例えば聖書の中には不思議に思うことが皆さんにはあるでしょう。心の貧しい人は幸いだとか、天国で一番偉いのは子供のような人だとか、 あるいは一日中働いた人が、1時間しか働いていない人と同じ賃金とか、いろんなお話があって、意味がよくわからない箇所が福音書の中にはいっぱいあったのですが、ジャン・バニエの話を聞いて、イエス様がおっしゃっている意味が全部わかりました。ジャン・バニエの言葉と存在で全部わかりました。福音書にはこういうことが書いてあったのかと、だからジャン・バニエはある意味で恩人なんです。クリスチャンとしての恩人です。会うことができた人の中で一番尊敬していたのは、間違いなくジャン・バニエです。それを別の言葉で言えば今のことなんです。 くだっていくところに栄光があるんです。そこに福音の本質がある。イエス様のメッセージの本質があるということです。 それがわからなければ、何もわからないのです。 逆にそれがわかれば全てわかるとも言える。ジャン・バニエは海軍出身でその後、哲学の先生をしました。最終的に、二人の知的ハンデを持つ人と一緒に共同生活を始めたのが最初でした。そこで彼は 知的ハンデを持つ二人の青年からキリスト教の一番大事なことを学んだんです。それはまさしくくだっていくという言葉の中に、神の本当の栄光があるということです。この聖書の栄光があると書いてある後に、今日の聖書の箇所は何を言っているかと言ったら 「互いに愛し合いなさい」という言葉が引き続き出てきます。もしこの栄光が、単に立派になっていくとか、成功していくとかであるならば、その後に来るのは、互いに競争しなさい。という言葉が来るはずです。人よりも優れて立派になるということですから、その後に来るのは、互いに競争しなさい。という言葉が来るはずです。実際にこの社会はそう動いているわけで、スポーツでも何でも競争して一位をとるということです。なんでもより優れたものになるために、他人より優れたものにならなければならないから競争が生まれるわけです。互いに競争しなさいという言葉が来るはずなんです。でもイエス様の言葉は「互いに愛し合いなさい」という言葉になるわけです。わたしたちがただ単に立派に生きていくということではなくて、わたしたちが小さなものに、あるいは十字架に向かって、かがんで行くと言いますか、くだっていくからこそ互いに愛し合うということがどれだけ大事なのかということが、はっきりしてくるわけです。ものすごく論理的にイエス様が話されているということになるわけです。もし栄光は人間が優れたものになるためのものだけを言って、互いに競争し合いなさいと 言及されるとしたら、そろそろ三年になりますが、津久井やまゆり園の事件になってしまいます。弱い者小さい者はいらないから隠してしまえ。という優生思想になってしまいます。優れたものは生きる価値があって、優れていないものは生きる価値がないとしたら、そういう人々を無きものにするとしたら、優生思想が生まれかねません。津久井やまゆり園の犯人はいわば世の中の風潮を代表している人だと言えるでしょう 。それに対してジャン・バニエは、逆の世界を代表している人だと言えるでしょう。フランスのラルシュ共同体は大きくないので、ご葬儀に来られる人数は限られていて、日本からは二人行きました。その様子は YouTube で見れます。互いに愛し合っていた人の葬儀には、カトリックの司教様も来られていましたし、ギリシャ正教の方とか、プロテスタントの女性の牧師も祭壇を囲っていてエキュメニカルでした。福音朗読は視覚ハンデの助祭。点字で福音朗読をしていて、手話通訳付きでした。わたしは少しだけ手話ができるのでフランス語の手話を見ていましたら、「光」というのは十字架で表していました。車椅子の方もたくさん来られていて、障がい者もたくさん来られていました。互いに愛し合うというのはこういうことだなと思いました。ジャン・バニエの葬儀を見ているだけでわかったような気がします。弱い立場の人がいるから、互いに助け合う世界が生まれるんです。あるいは自分が弱い小さいものだから、誰かに助けてもらう余地が生まれるわけです。だから互いに愛し合う世界が生まれるのがわたしたちの一番の行動原理とする時に、そこに復活の栄光があらわれるということでしょう。そして本当の命の喜びを分かち合っていけることができる。イエス様はそのような栄光を わたしたちにくださったんだと思います。ジャン・バニエが亡くなって、葬儀の動画を見ているだけで心が温かくなるような感じがして、何とも言えない気持ちです。でもイエス様の言葉は 滅びることはない。ジャン・バニエのような人が再び現れるかもしれないですが、でもイエス様の御言葉は真理で、わたしたちにいつも語りかけているわけです。本当の栄光を求めなさい。互いに愛し合う中でこそ それを見つけられるようにと、イエス様は今もわたしたちに語りかけているわけです。ジャン・バニエの生き方自身がわたしたちに語りかけてくださっているわけです。このような恵みの世界を生きていきましょう。もちろん能力のある人が努力をして立派なことをすることも大事なことですけれども、基本はわたしたちが弱さや苦しみを互いに理解して、補い合いながら互いに愛し合っていく。そのような世界にこそ神の恵みがあると思います。そのような恵みにわたしたちが生きていけるように、このミサでともに祈りをささげたいと思います+

 

第一朗読  使徒言行録 14章21b-27節
(その日、パウロとバルナバは、デルベから)リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。

第二朗読  ヨハネの黙示録 21章1-5a節
わたし(ヨハネ)は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言った+

 

 

2019年 5 月 19 日(日)18時ミサ
 復活節 第 5 月曜日〈白〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂 於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記