カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190721 必要なことはただ一つだけ

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 10章38-42節(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」+

  今日は幼児洗礼式ということで、 赤ちゃんは泣くのが仕事なので、泣いてもらって全然問題ありません。この教会には、お子さんが居られる泣き部屋があるので、日頃は静かすぎる教会と言うか、日曜日のミサというのは赤ちゃんからおじいちゃん、おばあちゃんまで、みんなで一つの輪を囲むというのが一番自然な事なんです。だから静か過ぎるミサというのは少し違っているところではあります。
今日の福音書について少しお話したいと思います。マルタとマリアという二人の姉妹の家に、イエス様と弟子たちや仲間が十人か二十人ぐらい大勢で泊まりに行ったんだと思います。するとやはり食事の世話とか、泊まる準備とか大変でしょう。それでマルタが一生懸命、立ち働いていたわけです。家庭の仕事というのはあれこれしなくてはならないことがたくさんあるのは、来客の時だけではなく、子育てとかでも大変な仕事がたくさんあると思います。マリアの方は全く手伝わずに、イエス様の前に座って話しを聞いていました。それでマルタが怒って、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言った。普通の人だったら、あなたもマリアを手伝いなさい、と言ったと思いますが、でも驚いたことに、イエス様はマルタをいさめて「マリアは良い方を選んだ。」と言われるわけです。ちょっと承諾できないことではないかと思いますが。どちらかというとマルタのように、忙しく働かなければならないことの方が実際は多いわけです。忙しく働いていないマリアの方を褒められてしまったら、立つ瀬がないというのはあるのではないかと思います。よくよく考えてみたら、クリスチャンとしての生き方の基本は一体どこにあるのかと考えなければならない。マルタのように忙しく働くのはある意味あたりまえだと思いますが、でも一番大切なのは、クリスチャンとしてイエス様の言葉を聞く。あるいはイエス様の考えを聞いて、それを生きていくということをイエス様から学ぶ、それをわたしたちが一番の基本にしなければならないのは確かでしょう。マリアの信仰心を全く無しにしてしまうと、わたしたちが信仰者として生きていくポイントが無くなってしまうと言えるのではないかと思います。
今日の第二朗読では、 コロサイの信徒への手紙ですが、パウロはこう言うのです。 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が」とあります。隠されて秘められた計画がある。 それが「今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」とありますが、わたしたちの生活は明日のことを考えても、実は秘められて隠されている計画なので分からないわけです。今日、洗礼を受ける子供たちがどのように育つのか。どういう大人になるのかは、全く秘められたままで、わたしたちには分からない、分からないことの方が多いと言えるでしょう。わたしたちは分からないことが多いからこそ、いつも神様に聞きながら、神様の御旨は何なのか、どのようにわたしたちが心がけていくのか。やはりマリアのように、イエス様の言葉に耳を傾けるということが、わたしたちの生き方の基本でしょう。
第一朗読が創世記だったんですが、 アブラハムの所に三人のお客さんが来たという話なんですが、それは天使を迎え入れたという話でした。その後の話がおもしろくて、アブラハムの「妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」とその 客の一人が言いました。「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており」「 サラはひそかに笑った。」まさかそんなことはないと思って、あり得ないと思って笑ったんです。でも結局子供のイサクが生まれる話に繋がっていくわけです。わたしたちは分からないことだらけで、 まさかそんなことがと言いながら、笑い飛ばしたりすることは多々あるでしょう。けれども実際に神様の計画は、その人や家族に対して実現していくということです。それをわたしたちは心がけましょう。人間の計画を超えた神の計画があって、わたしたちはそれにいつも心を開き、その恵みに、呼びかけに応えていくということです。
今日は幼児洗礼式ですけれども、一番思うことはなんなのか。やはり神から学ぶということと、言葉がおかしいかもしれないですけれども、子供から学ぶ。子供が一歳になったら、お父さんお母さんとしても一歳ですし、子供が二歳ならば、お父さんも二歳、お母さんも二歳になる。つまり子供と共にご両親も学んでいく、成長していく。人間的にも信仰の面でもということです。幼児洗礼を受けた子供たちのために一番考えてもらいたいことは、信仰教育です。子供たちが信仰を持って育っていく。それを考えた時に、結局お父さんとお母さんの信仰生活のことになる。どのようにわたしたちが信仰を生きているのか。子どもと共にどのように信仰生活を送って行くのか。マルタのように忙しいのは当たり前の上で、マリアのようにいつも神から学ぶということ。学びながら子供と共に成長していく。そのような気持ちでいかれたらいいと思います。大人になっても同じです。どの人も学んで成長していかなければならない。おじいちゃんおばあちゃんでも、日頃起きる出来事を受け止めながら、神に聞いて学んで一生涯、成長していくようにわたしたちは呼ばれている と思います。
今日の幼児洗礼式と共に、わたしたち一人一人も 学んで成長していけるように、共に心を合わせて祈りをささげましょう+

 第一朗読  創世記 18章1-10a節
(その日、)主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」

第二朗読  コロサイの信徒への手紙 1章24-28節
(皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています+

 

2019 年 7 月 21 日(日)10:00   幼児洗礼式
  年間 第 16 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記