カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

190923 神の現存であるともし火

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於 いやしのミサ

ルカによる福音書 8:16-18(そのとき、イエスは人々に言われた。)「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」+

 今日の福音書は、ともし火をともしなさい。というイエス様の教えですけれども、今の時代、あまりともし火というものがないですけれども、祭壇にろうそくをともすような、ろうそくをともして「器で覆いかぶしたり、寝台の下に置いたり」する人はあまりいないでしょう。そして 「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」このともし火というのは比喩でイエス様がお話しされています 。ともし火をともさなければならないのは一体どういう時なのか。昼間にともすわけではなくて、夜になったらともすわけです。 祭壇のろうそくは神様の現存のしるしで、礼拝の時に灯りとりのために使っているわけではありません。最近の話であるならば、千葉の停電で、電気がなくて困っているから、ろうそくをともしたり懐中電灯などを使うわけです。だからともし火をともすというのはそういうことなんです。つまり暗い時にこそ、ともし火をともさなければならないということです。ともしたともし火を テーブルの上に置かなければならない。この「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。」というわけですが、このあかりは神様の現存とか、神様の恵みをあらわしているとしたら、覆うことが多いからわたしたちはイエス様がこのお話をしているということなんです。先ほどの話で続けていうならば、昼間はともさなくていい、夜だけともさなければならない。昼間とは何をいうならば、今日のいやしのミサでいうならば健康なんです。健康な時は元気だから何もしなくていいです。ではともし火をともさなければならないのは、まさしく病気の時です。あるいは人生に苦難や困難がある時にともし火をともさなければならない。明かりが必要だからです。 健康で物事がうまくいっている時は、順調なんだから特にいらないわけですが、暗闇の中でわたしたちは負けてしまうということです。あるいは暗闇に振り回されて、ともし火を器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりしてしまっているということです。暗闇に負けて振り回されて、病気に振り回されて、あるいは人生の困難に振り回されて、ともし火をともすことを忘れていたり、せっかくあるともし火を隠してあったりすることが、日常生活では度々あるということを反省しなければならないと思います 。わたしたちに暗闇が迫ってきても、 暗闇を追い払ったり戦うことはできない。 暗闇を追い払おうと努力したって、闇と戦うことはできません。闇は闇です。闇の中ですることはたった一つです。火をともすことです。火をともしたら闇は消えるということです。多くの人は光のことを忘れて闇のことばかりを考えています。闇のことばかり考えて、闇をどうすれば片付くだろうかとか、闇を箱に入れて部屋から追い出そうとしているけれども、そんなことをしても無駄です。光をつければ闇は勝手に消えてしまいます。わたしたちがやることは、自分の心と体にともし火をともすというたった一つのことです。神の恵みを机の上や祭壇の上にろうそくの火をともすことで、勝手に闇は消えていきます。 最近では千葉の停電の話ですが、今まではスイッチを入れれば電気がつくと思っていたら、 つかないから不便ですというわけです。わたしたちの健康もそうでしょう。スイッチを入れたらすぐつくから、それが当たり前だと思うわけですけれども、病気になるということは、スイッチを入れてもつかなくなるということです。ではどうするかといったら、ろうそくをともせばいいということです。部屋のスイッチがつかないわけだから、 ろうそくの火をともせば、 真暗闇の中ですごく明るくはならないですが、つけた分だけ闇は薄くなります。わたしたちも信仰生活の歩みの中で一番大事なのは明らかで、ともし火をともすことです。皆さんの生活と心の中に、ともした分だけ明るくなって闇が消えます 。ともし火をともすということは神様の現存のしるし、神の恵みのしるしをわたしたちは意識的にともして、それを大切に生きていこうとする中で、自ずと闇が消えてくるということです。それを心がけましょう。とにかくみんな闇の方ばかり見て、 こんなに苦しくて大変だと言われ、それはそうだと思いますが、闇が深ければ深いほど 、光をともしていくのかということを考えた方が、ずっと積極的だし意味があるのではないかと思います。もちろん医師の指示に従って、できるだけの治療をするということ自体が火をともすということでしょうし、あるいは自分の健康に良いことをしたり、心の状態をよく保ったり、いろんな面からわたしたちはともし火をともしていくことがいつも可能だということです 。それをわたしたちが心がけるならば、わたしたちの日常生活は、どれほど前向きで恵み豊かなものになるのかということを一番心に刻みたいと思います。
 また今日はピオ神父様のお祝い日です。日本ではあまり知られていませんが、現在のカトリック教会の聖人で人気を二分しているのは、マザーテレサとピオ神父様です。この二人は突出して人気があります。 ピオ神父というのは、イタリアの地方の教会でずっと働いていただけの神父様でしたが、何が特別かといったら、聖痕(スティグマ)ですが、イエス様の受難のしるしを五十年間受けていたんです。両手両足と脇腹に五つの聖痕を受けていました。しかも病弱で、 胃潰瘍、腸チフス、腎臓結石、気管支喘息、肺結核、非常に病弱な上に十字架のしるしを受けていたんです。だからなのか、ものすごくたくさんの人をいやし、霊的指導をした有名な人で、奇跡物語ばかりという 極めて特別な方だったんです。はじめてピオ神父様の小さな記事を読んだ時に、わたしは自分と同じ病弱な聖人がいると思いました。わたしには聖痕はありませんが。病弱な聖人にわたしは親近感をずっと持っていました。今でもピオ神父様に執り成しを願っている人はいます。 ピオ神父様のすごいところは いやしをしたということより、イエス様の受難を身に帯びていたところです。五十年間イエス様の苦しみを背負い続けられて、ピオ神父様はともし火どころではありません。ものすごい光で人々を照らして、いまだにいやされる人がいます。やはりそういう姿勢が大事だと思います。だからピオ神父様の執り成しを願われたら恵みがあるかなと思われますが、でも大事なのはともし火をともすというか、イエス様の苦しみを自らも背負って、神の恵みを生きていく、その方が尊い。ピオ神父様はあまりに奇跡の数が多すぎて、そういうことに目を向けてばかりいたら仕方ないですが、二ヶ所同時存在があります。 ずっと村にいたんですが、ある日バチカンに現れて人を助けたとか、飛行機事故に遭っている人に急にピオ神父様が現れて、助けられたとかという話は山のようにあります。なんでそのような恵みの力が働くかというと、自らがイエス様の苦しみを身に帯びていたからです。わたしたちもそのような姿勢でイエス様の受難を苦しみを自らの病のうちに背負うことで、復活の恵み、神の現存の恵みを生きる、証しをする。それこそが本当に一番尊い、わたしたちクリスチャンの生き方ではないかと思います。もちろんわたしたちは弱いから、苦しみとか闇に振り回されてしまいがちですが、そこにとどまらないで イエス様の受難とともに、わたしたちはイエス様の復活の恵みに向かっているのだと、その積極的な 気持ちを失わずに歩んでいけるように、このミサで祈りを捧げたいと思います+

第一朗読  エズラ記 1:1-6
ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。周囲の人々は皆、あらゆる随意の献げ物のほかに、銀と金の器、家財、家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。

 

2019年 9 月 23 日(月)16:00 いやしのミサ
 年間 第 25 月曜日〈緑〉C 年 聖ピオ(ピエトレルチーナ)司祭 記念日
  カトリック麹町教会 マリア聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記