カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-10-06 お互いを大切に仕え合う

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 17:5-10 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」+

 今日語られたイエス様の後半の方ですね。僕(しもべ)の態度についてイエス様が語っています。僕の仕事はまずは畑を耕すか、羊を飼うか、家の外で仕事をしていたわけです。家に帰ってきたらその僕にすぐに来て、食事の席につきなさい。とは言われない。むしろ逆に「すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。」と書いてあります。みなさんはこの話を聞いてどう思うかです。僕として外で働いてきて、家に帰ってきて、家の中でも食事の世話をしなければならない。家の食事の仕事も当たり前だと思うのか。ここを読んだ時に皆さんがどう思うかということは、小さなグループだったら聞いてみたい気持ちです。今日は結婚感謝ミサで、夫婦のことを見直してみるのもいいかと思います。わたしは結婚講座を担当していて、主に結婚するカップルにこれからのことをお話をすることが多いです。その中で男性と女性がいかに違うかというお話しを必ずするように心がけています。それは生物学的なものなのか、あとから教育で身についたものなのか、よく分からないところがありますが、男性と女性とではかなり違うところがあります。今日のお話でもそうですが、僕が家に帰って仕事をしなければならいというのをどう受け止めるかということです。結局男の人がこの話を読んだらゲッソリしてしまう。家に帰ってきて、食事の世話をしなければならないのかと男性は思いがちです。でも女性は家に帰ってから食事の世話をするのは当たり前というふうに考えているのではないか。この話一つとっても男性と女性で受けとめ方が案外違うということです。一般的に言って、家というのはどういうものか。大体男の人は休憩するところだと思っています。外では働いて、家は休むところ。女の人にとって家とは何か。休憩していたら生活がまわらないわけで、女性にとって家というのは、むしろ愛を育むところです。ここからも大きなズレがあって、夫婦喧嘩のネタになっていくということを結婚講座でお話しをします。それをよくよく考えてみなければならないです。この僕は主人にどう仕えるかということですが、もちろん夫婦であるならば仕えるという言葉が当てはまるか。夫婦で助け合っていくかということですけれど、いくら外で立派な仕事をしても、この僕のように食事の世話をして仕える心がお互いになければ、結婚生活者失格ではないかと本当のところは思います。たとえば、わたしは修道生活をしていて、立派な神父様は先輩方に大勢います。心から尊敬できる神父様はどういう方かというと、修道院の外で立派な仕事を沢山している人に対して尊敬できるかと言うと、あまりないです。むしろ修道院の中でお互いにコミュニケーションをとったりとか、助け合ったり、仲間を大切にしたり、そのような神父様に対してこそ、尊敬の気持ちが湧くんです。どこを大切にしているのか。お互いの交わりを大切にしている神父様のほうが心から尊敬できます。いくら外で立派な仕事をしても、修道生活そのものがワガママで他人のことを考えないで、自分のやりたい放題やっている神父様を尊敬できるかといったら、あまり尊敬できないと強く感じます。結局家庭生活も結婚生活もそうでしょう。もちろん立派な仕事を外でしなければならないですけれども、それだけでいいとは言えない。この僕のように家に帰ってからも、食事の世話をしたり、仕えたりするという気持ちがあるかどうか。それはお互い様で両方です。そのような気持ちがあることが、家庭生活、結婚生活の最も大切なところではないかと思います。この主人は「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。」というんです。本当は給仕だけを望んでいたのか。この主人は僕と話し相手になって欲しかったのかもしれません。今日一日の事を分かち合うことを望んでいたのかもしれません。でも今日は二十五周年と五十周年の結婚記念日ミサですが、本当のところは日々の生活の中で夫婦の関係は仕え合う心を大切にしているかどうか。それを問われているかというところではないかと思います。そしてこう言うんです。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』」と謙遜な態度をとれということですが、夫婦関係も全くそうです。これをやったからとか、誇る気持ちがあるならば、本当にまずいでしょう。「取るに足りない僕」というのはご夫婦では言い過ぎかもしれない。でもお互いを助け合っていくような、そういう謙遜な気持ちが大切でしょう。これだけやってやるとか、これだけやってるのにとか、自分の業を誇りにすることは、一番意味のないことではないかと思います。本当に謙遜な気持ちを持って、お互い助け合っていく。それぞれの夫婦は違うから、一概にこうだとは言えません。でも外の仕事と共に、家の中をお互いが大切にしていくということが、結婚生活をしていくことの大切なことだと思います。そして信仰生活も同じです。立派なことをいろいろやる、目立つことをやることが信仰生活の全てではありません。毎日毎日の一つ一つを謙遜な心で果たしていくような気持ちです。特に身近な人を愛して、身近な小さなことを心を込めて仕える心で果たしていけるかどうか。これが結婚生活もそうだし、信仰生活で最も大切なことだと思います。そのような結婚生活、家庭生活、わたしたちの信仰生活の全てにおいて、小さな一つ一つの事を、奉仕の心を、謙遜な心を持って助け合っていけるように、特に今日は結婚記念を迎える方に、特別な神様の祝福があるように、祈りを共にささげげたいと思います+

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい+

 

2019年 10 月 6 日(日)10:00
 年間 第 27 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記