カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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191013 傲慢さに気づく感謝と謙遜

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 17:11-19 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」+

 今日の福音書では、イエス様が十人の重い皮膚病を患っている人を 癒されるというところです。重い皮膚病とありますが、多分ハンセン病だったと思われます。当時は非常に恐れられていた伝染病で、一旦発症すると、共同体から追い出されてしまう。彼らはおそらく十人のグループで住んでいたんでしょう。 「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」とありますが、ハンセン病を患ってる人はそうでない人の近くに寄っていったらダメなんです。近寄れないので遠くの方から大声でイエス様に助けを求めたんです。するとイエス様は 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と言われるわけです。なんでそういうことを言うのかというと、現代のように保健所がないので、病が治った時には、祭司に体を見せれば、治ったという証明をもらって、共同体に戻ることができるわけです。だから「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたところから癒しを期待していたと思います。十人全員が祭司に見せに行く途中で癒されたわけですけれども、十人のうちたった一人しかイエス様のところに戻ってこなくて「神を賛美するために戻って来た者はいな」かったということです。なぜ九人はイエス様のところに戻らなかったのか。このお話の基本的な考え方は、イエス様は多くの人に救いのメッセージを送ったわけですけれども、九人のユダヤ人はイエス様のメッセージを受け取らず、外国人、サマリア人だけがイエス様のメッセージを聞いて、イエス様に賛美してひれ伏しました。つまり異邦人しか、イエス様のメッセージを受け取らなかったということをいっていると思います。 十人中たった一人だけ感謝のために帰ってきたということは、考えさせられる気持ちになります。十分一の人だけが感謝をささげたというわけですけれども、考えたらわたしたち一人一人は、神様から大きな恵みをもらっているわけですけれども、全部に感謝しているかというと、実際は十分の一ぐらいしか神様に感謝を返していないのではないかと思います。九割ぐらいのお恵みは当たり前として受け止めてしまって、そのままにしてやり過ごしているのではないかと思います。ありがたさとか恵みは、無くなってから初めて気がつく。典型的なのは健康ですけれども、健康な時はこれが当たり前だと思って生きている。でも健康ではなくなった途端に、健康であるというのがいかに恵まれていたのか、神の恵みだったかということに、健康でなくなってから初めて気がつくというのは、わたしたちはそうしがちでしょう。わたしが思うには健康と、親のありがたさです。親が生きている間はあまり気がつかない。親が亡くなってから初めて親のありがたさに気づいたりすることも多々あります。それを失わなければ気づけないということは、人間の弱さや不幸といえるかもしれません。 その最もたるものが、今回の台風です。あのような大きな被害を目にして、わたしたちが日々無事に暮らしていること自身が当たり前ではなくて、神の恵みの中で成り立っている。それを日頃わたしたちはちゃんと感謝しているかということを問われているような気がします。またこうも言えるかもしれない。東日本大震災の時には、わたしは被災地に行っていろいろ見たりしていましたが、一番思うのは何かと言ったら、大自然の恐ろしさもありますが、それ以上に大自然の力に触れた時に、人間の傲慢さが打ち倒されたような気持ちになります。つまりうまくいっている時には人間が何でもできるという傲慢に陥っているのではないかと強く感じます。あのような災害を見たときに、人間は何でもできるという傲慢そのものが、わたしたちの本当の問題ではないかと強く思います。わたしも調子が悪いことが多いんですが、健康な時は傲慢になってしまって、それが当たり前だと考えて、自分でなんでもできるという気持ちになりがちですけれども、病気になったとたんに、そうではないのではと。人間というのは、謙遜な気持ちで、神の恵みを感謝して生きるということに、本当の基本的な 姿勢があるのではと思います。わたしたちの基本的な姿勢は何かといったら、やはり神様に対して、謙遜さと感謝を抱いていく。うまくいった時であろうと、そうでない時であろうと、感謝の気持ちの中で、謙遜の気持ちでわたしたちが歩んでいけるかどうかということを、時々は振り返らなければならないかと思います。   以前見た映画で「天国からの奇跡」というのがあります。アメリカのキリスト教的な映画で、実話を映画にしたお話ですが、子供が難病にかかってなかなか治らない。あちこちの病院に行ったりお金をかけたりしても治らなくて、絶望的な気持ちになっていたクリスチャンの両親の子供は、ある日、穴のようなところに落ちてしまって、仮死状態になってしまった時に、神様の奇跡的な力が働いて、そこから救出された後に、難病そのものが治ってしまった、奇跡的な体験をした子の家族の話です。映画の最後にクリスチャンのお母さんがみんなの前で証しをするんですが、そのお母さんは、奇跡的な癒しを通して何を学んだかといったら、結局わたしたちの日常生活そのものが、神様の奇跡の中で生きている。わたしたちが無事に暮らしていることそのものに、莫大な神様のお恵みが憐れみが、神様の奇跡的な力が働いていることに気づいたと、そのお母さんが話します。個人的に本当にそうだなと思います。日々の何気ない毎日の生活の中にこそ、神様の恵みがいつも働いている。わたしたちはあれが足りないこれが足りないとか、不平、不満はもちろんあるんですが、 でも生かされていること自身に神様の大きなお恵みがあって、そこに感謝をささげている時に、わたしたちの本当の信仰の喜びと、謙遜な生き方が生まれるのではないかと思います。もちろん被災された方が一日も早く復興されることを願いますが、それとともに、わたしたちの日々の生活を感謝の心で過ごせるように、この一週間、願いたいと思います。今日の第二朗読の最後ですが 「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」わたしたちが誠実であったり誠実でなかったり、いい加減な事も多いですが、わたしたちはそうでなくても、「キリストは常に真実であられる」神様がイエス様が、わたしたちに変わらぬ愛を注いでくださっているということは、変わらないということです。なぜかと言うと 「キリストは御自身を否むことができないからである。」つまりキリストは、愛であるというご自分の本質を裏切ることができない。だから変わらぬ愛をわたしたちに常に注いでくださっている。人間の方が誠実、不誠実。人間の方がうまくいく、いかない。健康であったり 病気であったり、何か不運なことがあって、喜んだり悲しんだりしていますが、キリストは変わりません。いつでも真実であって、いつでもわたしたちも変わらなく支えておられる。その変わらない信仰に目を向けなければならない。移り変わる事象の中で、良かったり悪かったりに振り回されているだけでは、わたしたちの本当の信仰とは言えないでしょう。揺らがない神様の恵みに支えられているからこそ、わたしたちは今日の困難を乗り越えていける。今日の苦しみを乗り越えて、わたしたちも誠実であり続けることができるのではないかと思います。その神様の変わらない奇跡的な恵み、変わらない愛。そこに信頼を置いて、わたしたちも真実の道をまっすぐに歩むことができるように、このミサで祈りをささげましょう+ 

第一朗読  列王記 下 5:14-17
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

第二朗読  テモテへの手紙 二 2:8-13
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」+

 

2019年 10 月 13 日(日)18:00
 年間 第 28 主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記