カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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191019 神の似姿として認め合う

菊地大司教様 説教 イグナチオ教会 於  受刑者のためのミサ

マタイによる福音書 25:31- 40「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』+

 まもなく11月23日になりますと、教皇フランシスコが来日をされることになります。三十八年前にヨハネ・パウロ二世が初めて教皇として来日をされた時は、 まだ五十代後半の若々しい教皇でありましたから、その時と同じように、今年八十三歳になられる教皇フランシスコが、朝から晩まで精力的に行事をこなすというわけには、今回はいかないと思います。もっと色々な機会を各所に設けて、直接教皇様に会っていただき、教皇様の話を耳にしていただきたかったのですけれども、そのような年齢も考えて、今回は最低限の行事となりました。長崎や広島では核兵器廃絶や、平和に関するメッセージが世界に向けて発表されることでありましょう。そして東京では政府の行事として要人方とお会いになります。教会の行事としては東北の大震災の被災者の方々に慰めのメッセージを発し、青年たちと出会い、東京ドームでミサをささげられることになっています。教皇フランシスコが今回日本を訪れる一番の目的はいったい何なのか。今の段階では、国内外の報道を見ていても 、どうしても広島、長崎のメッセージに注目が集まっていて、 それは教会だけではなく、広く一般の方々や政府の関係者も、教皇様が核兵器に関するメッセージを述べることを期待し、重要視しているように感じます。しかしわたしは教皇様の今回の来日の目的はそれだけに留まるものではないと思っています。今回の訪日のテーマは「 すべてのいのちを守るため」とされています。わたしはこの「すべてのいのちを守るため」のテーマにこそ、今回の教皇様来日の一番の大切な目的が示されていると感じます。カトリックの信徒にとって教皇様はもちろん、この世におけるキリストの代理者ですし、世界にいる十三億人ほどの信徒を抱える巨大教会組織のトップではありますけれども、それ以上に教皇様には重要な役割があります。教皇の地位は、あのガリラヤの水辺で、主イエスご自身が、一番弟子であるペトロに、天国の鍵を与えて、 その首位権を宣言したことに基づいています。ですから教皇様にとって、この世界において一番弟子の後継者としての役割を果たすこと。すなわち教会、共同体という大きな羊の群れの先頭に立って、主から与えられた使命を率先して果たす姿を見せること。その姿を模範として、すべての人に示していくこと。それこそが重要な一番弟子としての使命なのではないかと思います。主イエスご自身が残された様々な教え、そして命令の中で、一番重要な命令はいったい何なのか。それは主イエスが十字架上の受難と死に打ち勝って復活され、御父の元へと戻られる時、弟子たちに対して命じた最後の命令。すなわち「全世界に行って福音を宣べ伝えよ。」「全ての人に父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」という福音宣教の命令であります。ペトロの後継者である教皇にとって、一番大切な務めは、皆の先頭に立って、目に見える形で具体的にこの福音宣教の命令を果たしていくこと。それを模範的に果たしていくことであります。2013年3月に教皇フランシスコが選出されて以来、今日にいたるまで、教皇フランシスコが率先して語り、行動してきたその最優先事項は、まさしくこの福音を伝える、福音宣教命令を率先して模範的に実行することであったと思います。
教皇フランシスコは選出後の最初の司牧訪問先に、地中海に浮かぶ ランペドゥーザ島を選ばれたのはご存知の通りだと思います。アフリカに一番近いヨーロッパ。地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島には難民が押し寄せ、今でも難民が押し寄せています。そこで教皇はミサをささげ、世界中に向かって「忘れられてよい人は一人もいない。排除されてよい人は一人もいない。」という教皇様御自身の福音に生きる姿勢を明確に示す 説教をされました。その説教の中で「世界中の人々が自分の生活を守ることばかりに固執し、困難を抱える他の人々への思いやりを失ってしまった。」と非難され「そういう姿は虚しいシャボン玉の中に閉じこもっているようだ」と指摘をされました。この説教で教皇は「無関心のグローバル化が進んでいる」とも指摘をされました。教皇フランシスコのこの姿勢は、その後に発表された「福音の喜び」という文章でさらに明確にされています。教皇は教会のあるべき姿として「出向いていく教会。外に向かって出向いていく教会であるのが大切なのだ。」と掲げられ、安楽な生活を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求められました。失敗を恐れずに常に挑戦をし続ける教会であります。しかもその挑戦は、むやみやたらな挑戦ではなく、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ真っ先に駆けつける挑戦であります。そして福音の喜びには「イエス様は弟子たちに排他的な集団をつくるようにとは言わなかった」という言葉もあります。その上で教皇は「教会は無償の憐れみの場でなくてはなりません。全ての人が受け入れられ、愛され、赦され、福音に従う良い生活を送るよう励まされる。と感じられるものでなければならない。」とも指摘されています。「神はこの世界に誕生する全ての命を愛しておられる。一つとして忘れられることなく、全ての命が与えられた使命を十分に果たすことができる社会が実現されることを神は求められている。だから教会は排除するのではなく、弱い立場にある人、世間から忘れられた人、誰からもかえりみられることのない人、困難に直面する人、命の危機にある人の元へ、 積極的に出向いていかなくてはならない。神の慈しみに満たされて、ともに共同体をつくり上げていかなければならない。」と説き続けられています。その後に開かれた若者たちのためのシノドス 。後に発表された「キリストは生きている」という文章には「和解」について述べた箇所があります。教皇はまず「 あなたの霊的成長はまず何よりも、兄弟的で寛大で、思いやりのある愛において示されます。」と指摘された上で、あの虐殺事件を経験したルワンダの司教たちの文を引用して次のように言います。「相手との和解にはまず、その人には神の似姿としての輝きがあると認めることが必要です。真の和解に至るためには、罪を犯した人と、その罪や 悪行を分けて受け止めることが 欠かせません。」と述べられています。教会は神の慈しみを具体的に表す存在として、社会の中にあって、和解の道を常に示す存在でありたいと思います。教会は互いの人間の尊厳、神の似姿としての互いの価値を認め合い、困難に直面する人々に手を差しのべあう共同体でありたいと思います。教会は神の慈しみをこの社会の中で具体的に示す模範的な存在でありたいと思います。ですからわたしたちは自らの過去を顧みながら、回心、そして赦しを求めている人に、善なる道が示されるように祈りたいと思います。と同時に、犯罪の被害に遭われた方々には、心と体の癒しがあるように、慈しみ深い主の御手が差し伸べられるように祈りたいと思います。 犯罪の加害者、そして被害者とご家族の生きる希望のために祈りたいと思います。そして全ての命が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に、支援の手を差しのべようとするすべての人のためにも心から祈りたいと思います。福音のメッセージをその言葉とそして行いで、はっきりとわたしたちのために示そうと、日本に来られる教皇フランシスコの日々の模範にならって、わたしたちも勇気をもって福音を証しし、神の慈しみを体現する生き方を選びとっていきたいと思います+

 

第一朗読 エゼキエルの預言 33:11-16
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる+

 

2019年 10 月 19日(土)14:00 受刑者のためのミサ
 年間第28土曜日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
  カトリック 東京大司教区 菊地 功 大司教様 ミサ説教記

 

            主催:NPO法人マザーハウス