カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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191019 東京教区菊地功大司教様 講話

菊地功 大司教様 講話 イグナチオ教会 於 死刑に対するメッセージ


 教会は信仰の中で命の大切さをはじめからずっと言っています。特にさまざまな歴史的背景を探っていくと、いろんなことが起こってきたのが分かります。特に第二次世界対戦 の後から、一人一人の命の大切さを深く考えて、特に1960年代半ばから行われた第二バチカン公会議の中でもとりあげられました。現代社会の中で 人間の尊厳を振り返ってみて、何かの理由をつけて命を奪うということが、赦されるのかというのを改めて考えてみると、どう考えても命を奪うということが赦されないのではないか。なぜならば創世記1:26 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」神というのはキリスト教の信仰の中では100%完全な存在であります。その限りなく近い存在として神は人を造られたと書いてあります。創世記1:31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」人間の命は神の似姿として造られたところに、人間の尊厳の根源がある。だからこそ 神は良いものとして、命を人に与えられたと考えた時に、与えられた人間が人の命を勝手に奪ってしまう、という権利はあるのだろうかといろんな議論がありました。当初は正当防衛なら赦されるのではないかという考え方があって、自分の命を守るために何らかの形で他人の命を奪ってしまうのは、赦されるのではないかという考え方の議論が出てきました。社会の共同体を守るために、共同体の正当防衛として犯罪者を死刑に処することが赦されるのではないだろうか、という考え方が根底にありました。でもそうはいっても 社会がだんだん進化していく中で、いつまでもそういう形での正当防衛が認められてよいのだろうかという議論が出てきた中で、教皇ヨハネ・パウロ二世の「いのちの福音」が発表されました。その中で特に人間の命は神からの賜物であり、尊厳のある存在であって、命の始まりから終わりまでどの段階においてもすべからく尊厳を守られなければならない。人間にはどの段階においても、人の命の価値を判断する権利は与えられていないということを明確に示されました。 人生の局面にはさまざまな問題がでてきます。現代社会では、高齢化社会での高齢者の生活の問題、障がいのある方の命の問題、医療技術の進化によっての安楽死、尊厳死などの人間の命を どう捉えていくか。 人間の命は始まりから終わりまで徹底的に守らなければならないことを根本においた時に、では死刑はどうなのか。 ヨハネ・パウロ二世は国連の場で控えめの表現でしたが、死刑は赦されるものではない。死刑を選択する必要性はもうないのではないか。ということを語り始め、次のベネディクト十六世もそうですし、今の教皇フランシスコにまで引き継がれていきました。その中で教皇フランシスコは、カトリック教会のカテキズムというものは、 教会の教えを要約、集約したものであり、教会のさまざまな教えを学ぶときに使われますが、その中で正当防衛を認める文脈があり、社会の正当防衛として死刑を認める一文が残っていたので、そこを書きかえるようにと指示されました。そして書きかえられ、死刑は赦されない 。人間の命はどんな理由があっても、人が命を奪うことは赦されないということを明確に示されました。ですから今のカトリック教会は命の尊厳という観点から、常に今の社会の中で人間の刑罰としての死刑は、 賛同するべきではないという立場を明確にとるようになっています。議論が分かれるところなので、すべての人がすぐに納得することではなく、問題があるところとは分かっていますが、論理的に考えると、どうしても命は大切だといっているのであれば、 その命が 何かに限定されるわけではない。誰かの命だとか、 この段階の命だとか、 どこかに限定されるわけではありません。普遍的に命は大切だといっているのであれば、それに見合った 行動、選択を教会はせざるを得ませんし、言わざるを得ません。さまざまな状況をみたとしても、社会の中で死刑というものを選択することは赦されるのだろうかと考えた時に、信仰の立場から、赦されるべきことではないと言わざるを得ません。そういう意味でも、11月23日から26日まで教皇様が日本にお見えになり、25日26日と東京におられます。その間にさまざまな会合が設定されミサもある中で、それぞれのメッセージがバチカンで準備されていると思います。教皇様はどこで何を話されるかというメッセージのテーマは決められていていますが、内容まではまだ確定していませんが、その中に死刑廃止問題を含まれるようにと、さまざまな方面から働きかけが続けられているところです。どうしても核兵器廃絶に関してのメッセージ に注目が集まり、内外のメディアの方々からも必ずそのことから聞かれ、広島、長崎での平和メッセージの中の核兵器廃絶についてはどう思いますかと聞かれます。 いつもお答えしているのは 、核兵器廃絶を意識するのはとても大切なことであるし、広島、長崎は原爆被害を受けたという歴史的背景がある場所を世界に向かって発信するのはとてもよいことだと思います。と同時に、社会の中でさまざまに抱えている命の問題ということに対しても、教皇様からさまざまな形で話されていただきたいと思います。と答えます。そして個別の問題に関して、一つの大きな問題は、ローマ教皇というのはバチカン市国の元首なので、他の国に行って、その国の内政について直接干渉することを控えるのは当然です。ですからその国に対して、直接この政策が良い、悪いとおっしゃることはありえません。一般的な話しとして、命を大切にするということに対して、何らかの力強いメッセージが教皇様から発せられることをわたしたちは期待しているところであります。ですからそういう意味も含めて、ただ単に核兵器廃絶の問題だけにとどまることがないようにという意味で「すべてのいのちを守るため」「PUROTECT ALL LIFE」という今回のテーマがあります。非常に今の現状をかえりみた時に意義のある大きなテーマがそこには込められていて、それはとてもありがたいことだと思います。 それは死刑の問題だけに限らず、今さまざまな問題により人間の命を危機におとしいれられている。世界の人々から見たら、こんなに発展して豊かで安全で安心できる国はないと思われていますが、その中で人間の命がさまざまなかたちで危機にさらされている。たとえば少子高齢化が進む中で、 高齢者の方々が誰からもかえりみられることなく孤独死されたりとか、生きる希望を失った方々が自死を選んでしまうとか、若い子供たちが人生が始まったばかりの段階で自ら命を絶つところまで追い込まれてしまう。また少子高齢化だと叫ばれる中で、せっかく生まれてきた幼い子供達が虐待の中で命を落としている。貧困の中で孤立して誰からも助けられずに命を落としている。さまざまな意味での人間を危機におとしいれている状況にあります。わたしたちの毎日の生活の中で報道されているものを見ただけでも、いくつもの命を危機におとしいれることが存在していると思います。それに加えてここ数年の間は、 障がいを持つ方の命を軽視した重大事件に対しては、命の価値をどう考えているのかと思わさせられるような事件がありました。それを見ていると、わたしたちが生きている環境の中で、人間の命に対する理解、価値観の把握ということがしっかりとできていない 中で、何かの理由で命の価値を自己判断することができるというように思い込んでしまっている、 誤った思い込みをしてしまっている。そういう流れの中で刑罰としての死刑も赦されるものではないかというのは、それはもう本末転倒ではないかと感じています。そういう意味では、教会は人間の命を大切にしよう、命を守ろう。それは人間の始まりから終わりまでの全ての段階、条件において、人の命を大切にするのだということを止めることなく主張していきたいと思います。今日は死刑廃止という問題提起ですけれども、それ以外のさまざまな局面においても、人間の命を大切にする、守っていくということをあくまでも追求し、主張していきたいと思っております+

2019年 10 月 19日(土)15:00
 受刑者のためのミサ後 講話
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   カトリック 東京大司教区 菊地 功 大司教様 講話記

   

          主催:NPO法人マザーハウス