カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-11-17 すべてのいのちを守るため

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於 

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ルカによる福音書 21:5-19(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 フランシスコ教皇の来日が間もなくになりました。今週、23日土曜日に来られるということです。教皇来日に合わせて来日のテーマが発表されています。 「すべてのいのちを守るため」ですが、 2015年刊行の「ラウダート・シ」では環境に関する教皇様の回勅で、巻末に「地球環境のための祈り」というのがあるんですが「すべてのいのちを守るため」という言葉があり、その一節が選ばれて今回の来日のメインテーマになっています。確かに今日の福音書を読んでみると、なぜそのようなテーマが選ばれたかというと、わたしたちの命がいかに脅かされているかという現実があるということです。それは今日の福音書によくあらわれていると思います。 神殿が崩壊したり、あるいは地震が起こったり、飢饉や疫病や、恐ろしい気象現象が起こるとか。わたしが若い頃はこういうところ箇所はあまり実感がありませんでしたが、東日本大震災や今年の台風による河川の決壊とか、いつ何が起こってもおかしくないような状況であるということは 認めなければならないでしょう。そして人間だけではなく、様々な動植物も様々な問題を抱えている。命をどう守っていくのかということを、わたしたちはよく考え祈り行動していかなければならないものであるということは確かだと思います。 命の危機的な状況になればなるほど、東日本大震災の時もそうでしたけれども、結局何がわたしたちが頼りになるのかということを考えざるを得ません。 当時のテレビのコメンテーターたちが語っていたことは、やはり家族のつながりだと、家族の絆を大切にしなければならないということを言っている人が多くて、確かにいざとなって頼れるものは家族しかいないということも確かなことかもしれません。わたしは教会で結婚講座を担当しているので、結婚関係の本をよく読むんですけども、ある男性の有識者に、なぜ人は結婚するのかと聞いたら、安全保障のためだと言うんです。人生では病気をしたり怪我をしたり老いたり色々なことがありますから、やはり結局頼りになるのは家族しかないので、命の安全保障のために結婚しなければならないと言っていました。でも本当に大きな災害が来たら家族も頼りにならないのが事実でしょう。 家族がバラバラになってしまうこともありますし、今日の福音書は厳しいです。 「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」と書いてあります。家族すら命の安全保障にならないと、聖書的には言っています。 ではわたしたちの命を本当に守ってくださるものは、支えてくださるものは何かといったら、わたしたちにとっては神様以外にないということです。そのわたしたちの信仰の一番の原点に戻らざるを得ないということです。 日常生活では家族とも少々喧嘩してもなんとかやっているわけですが、本当に命の危機にさらされた時にわたしたちが頼りにできるものは、結局は神様しかいないということです。 その信仰の事実にわたしたちは立ち戻らざるを得ないでしょう。そして命という日本語も考えさせられます。命の「い」は息をする、呼吸をすることだろうと思います。 命の「ち」はいろいろ意見がありますが、わたしの考えは人の体に流れている血 だと思います。血がなければ人間は生きていけない。 人間の命は息と血で成り立っている。それはわたしたち信仰者にとっては大きな意味があるでしょう。息というのは神様の息、聖霊の息吹によって保たれているという事と、血というのは人間の血の話しだけではなくて、イエス様が十字架上で流された尊い御血によって 、わたしたちの命が贖われているからこそ、わたしたちの命は神に守られているということです。神様の息とイエス様の尊い御血によってこそ、わたしたちの命がある。そこから日々の命ということをいつも出発させなければならないし、そこにわたしたちの基盤を置いて生きていかなければならないということです。喧嘩したり病気になったり仕事を失ったり収入が無くなったり、 いろんな命の危機は度々訪れますけれども、神様によって支えられている命であるというところから出発するならば 、わたしたちにとって本当に怖いものは何もないということです。それを思い起こしたいと思います。 そして命を守るというと 消極的な言葉ですが、ただ単に何もしないでじっとしていたらいいということではないでしょう。
今日の福音書の後半は様々な迫害の中でこう書かれています。 「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」つまり神様から与えられているわたしたちの命は、 証しをしなければならない。人々にその意味を証明しなければならないということです。 実際にパウロは王や総督の前で証しをしたわけですが、わたしたち一人一人も神様から頂いた尊い命をもらっている以上、証しをしていく必要性があるということです。それは一人一人置かれた場で違った形でしょう。
今度のフランシス教皇が日本に来られた時に、多分、教皇様が乗られる車は一番小さいでしょう。それは教皇様の一つの証しです。お付きの人の車は大きいのに、教皇様の車は小さい。いつも小さい車に乗られています。証しするというのは言葉と行いの両方でということでしょう。 どのような証しを日本でされるか 分からないですけれども、思い出すのは聖木曜日には洗足式があります。教皇様になられた一番最初の年の洗足式は、少年院で少年少女の足を洗ったということです。本当に大きな証しだと思います。 実はあれで典礼の規則が女性の足も洗っていいことに変わりました。 それまでは男性しかだめでした。教皇様の一つ一つの行いをあげたらきりがないでしょう。福音の生き方によって命は証しをされるからこそ、弱い人や苦しんでいる人の命に手が届くような、そのような恵みに広がるということです。
今日の第二朗読も好きなところですが「働きたくない者は、食べてはならない」働きなさい、とパウロはハッキリと言っています。働かないとだめだと言っているんです。働くという日本語は深い意味があります。語源は傍を楽にする。自分のためではなくて周りの人のために働く。周りの人を楽にさせるためにこそ働かなければならない。 命のつながりです。他の命を生かすためにこそ、わたしたちは働く必要があるということです。そのような気持ちでこの一週間、働きましょう。お金を得るような働きもあれば、奉仕活動もあるでしょう。様々な働きがありますから。それこそが命を養い、 命を育てていく大切な努めだと思います。
今日の福音の最後はこう結ばれるんです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」ぼんやりしているだけでもだめだということです。忍耐と愛の心と 奉仕の心を持って、命を豊かにするためにわたしたちはするべきことが多々あるということです。環境に配慮しなければならないこともありますし、命は危ないもので儚いもので壊れていくものでもありますから、わたしたちは本当に心を配って養い育てていく必要性があるのは間違いないと思います。
互いに命を守り大切にしながら神の御心にかなって養い育てていく。そのような心がけがこの一週間で きるように、教皇フランシスコと心を合わせて祈りをささげたいと思います+

第一朗読  マラキ書 3:19-20a
見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 3:7-12
(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい+

 

 

2019年 11 月 17 日(日)18:00
 年間 第 33主日〈緑〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記