カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-11-24 イエス様の凄まじい限りない愛の心

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於 王であるキリスト

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ルカによる福音書 23:35-43 (そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた+

  今日の主日は年間最後の主日で、王であるキリストの主日で終っています。王であるキリストというのは、毎年そうですがなにかしっくりいかない主日ではあります。なんでしっくりいかないかというと、現代社会には文字通りの王様がいないのに、わざわざイエス・キリストを王と呼ぶ必要性があるのかと疑問を感じるところではあります。たまたま今年はフランシスコ教皇の来日で、フランシスコ教皇が王様といえるのかどうか、なかなか難しいところではあります。特にフランシスコ教皇の場合は、バチカンの宮殿には住まないで、今でも宿舎に住んでおられるわけで、なるべくこの世の王様のように振る舞わないように、特に教皇様は心がけられていると思います。しかも王であるキリストの時に読む福音朗読が、王様に全くふさわしくないところがだいたい朗読されます。今日もそうですが、十字架にかかって亡くなるところです。つまり最も惨めなところを、わざわざ王であるキリストの日になぜ読むのかなと。先ほどの第二朗読みたいな、もうちょっと宇宙万物の王である、あるいは裁き主として世の終わりにくるとか、この世の王様らしいところを選んだら良いのではないかと思います。王であるキリストに限って、王らしくない聖書の箇所が選ばれているというのも考えさせられるところの一つではあります。でもイエス様が王であることをよくよく考えれば、結局は今日の福音朗読に表れているような 姿を思い浮かべるしかないと思います。
最近読んでいる本で、 ノリッジのジュリアンという中世の神秘家で「神の愛の啓示」日本語で訳されているので読んでいるんですが、その中でジュリアン にイエス様が現れてはっきりおっしゃるんです。あなたのためだったら、何回十字架にかかってもいい。1回の十字架ですら大変な苦労で大きな犠牲をイエス様ははらわわれたけれども、ジュリアンは立派な思想家でしたけれども、あなたを救うためなら、再び十字架に何度かかってもいいと語っています。このイエス様の凄まじい限りない愛の心、ジュリアンだけではなく、みなさん一人一人に対しても言っておられるでしょう。あなたのためなら何回十字架にかかっても苦しみでもなんでもない。あなたを救うためならと。王であるということの本当の意味はそういうことではないかと思います。つまりみんなの上に立って偉そうなことをしたりすることではなくて、 どれだけ一人一人のことに心配りをできるかということにかかっているのではないかと思います。王の務めの一つは、漢字でいったら支配するということです。王様の務めが支配するということです。支配するというのは手話では上から命令する形です。よく考えてみたら、支配という漢字の意味を考えたら、支配は支え配るです。支配するという本当の意味は、みなさんを支えて、そして必要なものを配る役目がある。それが本当の王の役目だということです。 それをイエス様は十字架上で支え、人々に恵みを配るということを徹底されたということでしょう。 今日の十字架上のイエス様は、三回自分を救ってみろと侮辱にされる。でもまさしくイエス様は自分を救わないで、わたしたちを救うためにこそ十字架にかけられた。だからこの三回の嘲りは、悪魔の最後の誘惑だともいわれています。最終的に自分を救うのか、人を救うのかという選択。その中でイエス様は自分の命を救わないで、他人であるわたしたち全人類の命を支えて、そしてご自分の命を配るために十字架に架けられました。これが王としての最高の務めを果たされたといえるのではないかと思います。それはよく考えてみると、王の務めだけではないわけで、結局は今回のフランシスコ教皇の訪日テーマは「すべてのいのちを守るため」ですが、でも命そのものを考えた時も同じなんです。わたしたちの命は究極的にはなんのために与えられているのか。ただ単に自分の命を守るために、自分のために与えられているわけではないでしょう。わたしたちの命は他の命をいかすためでしょう。結婚して子供を育てるのもそうだし、様々な働きをするということは、ほとんどすべては他の命をいかすためにわたしたちの命がある。だからわたしたちの命そのものは、他の人を支えて、他の人の命に必要な恵みを配るためにこそ、わたしたちの命そのものがあるということです。だから自分の命だけを守ろうとしたら、この悪魔の誘惑に引っかかってしまう。わたしたちの命は他者のために存在しているということです。野菜肉魚だって、人間に食べられているからこそ、わたしたちの命が支えられているわけで、人間以外の命も、他の命を支えるために多くは存在しているわけです。わたしたちの命だけを自分のためだけに使ったら、それはエコロジーに反しています。 わたしたちの命こそ他者のために配ったり支えたり、他のために使うからこそわたしたちの命が輝いてきます。本来の命の意味があるということでしょう。それ思いを起こしましょう。
今日と明日、フランシスコ教皇が沢山のメッセージを語られると思いますけれども、わたしたちが命を大切にし、命をどう生きていくのか、そのために大切なメッセージを語られると思いますから、それに心を開いてメッセージを聞きながら、一人一人の命が意味のある命になるように、本当の意味で命の輝きを持てるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います+

 第一朗読  サムエル記 下 5:1-3
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

第二朗読  コロサイの信徒への手紙 1:12-20
(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました+

 

2019年 11 月 24 日(日)10:00 王であるキリスト
 王であるキリスト〈赤〉C 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記