カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2-23 ありのままを認める完全さ

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

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マタイによる福音書 5:38-48(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」+

  最近の日曜日の説教の朗読箇所は、マタイの福音書の山上の説教の中から朗読がとられています。今日の朗読の中でも有名な言葉は「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」です。敵を愛しなさい。非常に厳しいというか、実現がなかなかできないような、どうやったらいいのか考えさせられるような言葉が多々出ていると言えるでしょう。それについて多くの人ができるとかできないとか言っていることも事実です。特に最後の「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となれ」神様の完全さにどのように私たちがあずかって、完全なものになれるのかという事は、なかなか出来ないということになってしまうでしょう。この完全なもの、完全であるというのは、ある聖書学者が言っていますが「間違っている訳ではないけれども、間違った訳である」翻訳の難しさになってしまいますが、イエス様自身がギリシャ語を話されたわけではなくて、聖書はギリシャ語で書かれていてそれも翻訳です。イエス様が実際話されたのはアラム語かヘブライ語で、ギリシャ語が話されたわけではありません。ギリシャ語では「完全な」という意味で日本語でも「完全な」でいいんですが、ヘブライ語で完全という意味はギリシャ語と日本語と違うんです。イエス様はヘブライ語では多分「シャレム」とおっしゃったんだろうと思います。ヘブライ語でシャレムとはいったいどういう意味だったのか。何を完全だと思っているのかということですが、ヘブライ語のシャレムは、例えば出エジプト記では、祭壇を築く時には土を盛って祭壇にするか、あるいは天然の石を祭壇にしなさいと書いてあります。祭壇といってもこの祭壇のように綺麗なものでなくていいんです。動物を屠るので今の祭壇とは違います。祭壇に大きな石を置くときに、掘り出したままの石がシャレムなんです。完全なんです。その石を平らに削ったり、ノミを当てたりしたら不完全なんです。そのようにしたら駄目だと書いてある。つまり不完全な祭壇を使わないように、完全な祭壇を使うようにと書いてある。完全な祭壇というのは自然のままが完全なんです。人間が手を入れたら不完全なんです。だからここは、あなたがたの父は完全で、あなたがたの父はシャレムだから、つまりありのまま、そのままだから、あなたたちもありのままのそのままでいなさい。と本当の意味で書いてある。これを旧約聖書で人間にあてはめて書いてあるのは大洪水で生き残ったノアなんです。ノアはシャレムだと書いてあります。 これをどう訳すべきか色々調べてみると、新しい聖書協会共同訳では「全き人」であった。やはり完全に近い意味です。フランシスコ会の訳では「非のうち所のない人」やはり完全な意味です。でも新共同訳では「無垢な人であった」と訳してあります。「無垢な人」というのが雰囲気的には一番近い言葉です。無垢であるとかありのままであるとかです。ノアだけがありのままの、つまり人間的な余分なはからいがなかったので、ノアだけが助かったんです。ヘブライ語の不完全とはどういうことかというと、人間的な知恵を働かせると、どんどん不完全になってしまう。つまりこの人が敵でこの人は味方だとか、あるいはこっちが良くてこっちはダメだとか、人間が勝手に裁いて尺度をあてて良いとか悪いとか言い出すと、不完全だということです。なんでかというと、神様は善人にも悪人にも雨を降らせて、全ての人に恵みを与えてくださる。それが神様のシャレムなんです。シャレムからどういう言葉ができたかというと、皆さんのご存知のシャロームなんです。シャロームと挨拶する時に平和と訳されますが、シャロームというのはシャレムからも来てるから、ありのままであれとお互い言い合うことです。自分たちが勝手に差別したり区別したり、いいとか悪いとか、お前は敵だから排除するとか、お前は味方だから仲良くしましょうというような、そのような考え方が全部不完全なただの人間の思いだということです。だから私たちは一番大事なものは右の頬を打たれたら左の頬を出せるか出せないかではなくて、神様のシャレムの中に生きているということをまず私たちはそこを生きなければならないということです。神様はありのままを全て認めてくださっている、その完全さを持っておられるから、私たちもそのような人間的なはからいにおいて、区別したり差別したり、こっちがいいとか悪いとか、こうするべきであるとかべきでないとか、それで人を裁いていくような、自分を裁くのをやめて、ありのままの自分で生きて行く。それを心がけたいと思います。それ自身も難しいことですが、でも神様の大きな心を私たちは生きていくということです。小さな私たちで物事を考えないで、神様の大きな尺度で日々の出来事を、私達が敵だと思っている人達は本当に敵がどうかわからないわけで、これが良くてこれが違っている、その間違っているということも、自分の小さな中で間違っていると思っているだけかもしれません。神様の大きな心でありのままを認めてくださる大きな心で私たちが歩むようにしましょう。そして相手のありのままを認めて、自分のありのままを認めて、認め合うところからシャロームが生まれるわけです。平和が生まれるわけです。このシャロームを生きなさいということが、山上の説教の一番のポイントだと思います。その恵みを私たちは願いながらいきましょう。カッときたり、恐れに捕らわれたり、振り回されたりすることは多いですが、感情的に思考もそうですが、神様の大きなシャレムの中に自分の身を置いて、そこからどのようにシャロームをつくっていけるのか。お互いを認め合って本当の神様の平和を実現できるかどうか。それを私たちは心がけたいと思います。そのためにこそ主は私たちにいつもシャロームをくださっているわけですから、ありのままでいいのだと私たちに対して言い続けてくださっているわけです。その恵みを私たちは生きていけることができるように、このミサであらためて祈りたいと思います+

第一朗読  レビ記 19:1-2、17-18
主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 3:16-23
(皆さん、)あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、
「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです+

 

2020 年 2 月 23 日(日)7:00
 年間 第 7 主日〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記