カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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3-22 神と人とのつながりに 霊的な目が開かれる

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 9:1-41又は9:1.6-9.13-17.34-38
(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。《弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、》イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。《そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。》
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。《それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」》
彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。《イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」》+

 今日の福音はヨハネ福音書の9章、生まれつき目の見えない盲人が癒されるお話で、かなり長いお話です。ある箇所は省略しました。この目の見えない盲人はイエス様によって癒されて目が見えるようになるわけです。目が見えるようになった事について、いったい誰が癒してくださったのかということが分らないというか混乱しているお話です。結局ファリサイ派の人々、ユダヤ人たちは彼を追い出してしまう。外に追い出されて癒された盲人はイエス様ともう一回出会って、イエス様をメシアとして信じるということを宣言するというお話です。この箇所についても様々なことが言われていて、盲人の癒しというのは一体何を言っているのかということです。最初は目が見えるという肉体的な癒しの話ですが、本当に目が見えるというのは一体どういうことなのか。結局イエス様を救い主として認められるかどうか。霊的な目が開かれるかどうかということに話が移っていくわけです。お話が重層的で考えさせられたり問われたりするところが多いい箇所ではあるわけです。
イエス様が最後の方に言われるのは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」見えないものが見えるようになり、一体何が見えて何が見えなくなるのかということがだんだん分からなくなってくるところがあるわけです。最終的にはユダヤ人やファリサイ派の人々が見えていると言っているけれども、結局はイエス様が分からないので見えなくなってしまったというお話がこの中に重なっています。だからわたしたちが自分自身へ問いかけることは何が見えるのか。あるいは何が見えないのかというごく単純に問いかけてみてもいいのではないかと思います。
今の新型コロナウィルスの問題で、わたしの頭の中も8割ぐらいはコロナの問題を考えています。これからどうするかとかばかり考えています。何が見えないのか。一つはウィルスが見えないということです。いつ感染するかしないか分からないし、どれほど注意したらいいのかもわからない。今現在ですけれども、日本はそれほど感染者が増えていないわけですけれども、これも本当に感染者が増えていないのか、見えていない状況で、不安感が募るわけです。そしてまた見えていないものは、いつ終息するかもみえていないわけで、いったいこの不自然なことをどれくらい続けたらいいのか。例えば仕事をするにしてもあらかじめ将来のことを考えたり段取りを考えたり、このイグナチオ教会でも年間計画を2月ぐらいに決めたんですが、今年その通りにできるかどうか全く見えない状況です。いつ何がどうするのか見えない状況です。見えないものも確かにこの状況の中で出てくることも確かでしょう。

いろんな人の話で、わたしの講座に来ている男性は洗礼式のことがあるから会ってお話しをしましたが、会社に出勤せず自宅でテレワークをされているそうです。彼が「人間と話すのは3週間ぶりです」と言っていました。ずっと家にいてテレワークでコンピューターで仕事をやっているだけだから、コンビニの店員と話した以外この3週間、直接人間的な会話を誰ともしていませんと言っていました。それはそれで一つの危機的な状況です。それは分断されている。

今、教会にも来れないので話す場もない。でも多分多くの独居老人もそうだと思います。以前からそうでしたが、教会に来て話す以外、話し相手がいないという人が何人もいます。イグナチオ教会にも何人もおられます。今教会に来られないから全く会話をる人もいないという人も実際におられて、見えなくて分からなくて不安になることは多々あります。当然わたしたちが立ち位置をどこにするかというと、目が見えるようになった盲人に、わたしたちの立場を置かなければならないです。目が見えるようになった盲人というのは初代教会のあり方を問うているのではないかという解釈もあります。外に追い出されたりとかあって、それでも信仰を捨てないで生き抜いた。ユダヤ人の改宗者でクリスチャンとして生き続けた人々のモデルではないかという解釈もあるわけです。そうしたらわたしたちにとって大切なのは何かというと、見えないものは見えなくなりますが、何が本当に見えるのか。このような中にあって、わたしたちは神の恵みの中にあって、皆さんは見いだしていかなければならないと思います。こういう時にこそわたしたちは信仰が問われるというか、信仰を見直す一つの大きなきっかけになるだろうと思います。
小さなことから言ったら、こういうことがあって見えるようになったのは、ヴェネチアの川がこんなに綺麗な水だったのか。泳いでいる魚まで見えるようになったり、何かのことによって見えてくることがあるわけです。あるいは中国の町の青い空とか。いつもスモッグで隠れていたものが綺麗な空になったり、あるいは信者さんの中にはいろんなことができなくなったから、かえって家にいてお祈りする時間ができたり、自分を見つめ直す時間がたっぷりとれるようになった。それは明らかに信仰的に新たなものを見えるようになってくる一つの機会であるとも言えるでしょう。だからある意味見えなくなるけれども、本当の意味でわたしたちが見えるになったというものは一体何なのかということを見つめてみたらいいのではないかと思います。
わたし自身が思ったことは何かといったら司祭、神父であるということは、信者さんとの関わりがあるから意味があるなと改めて思いましたし、このミサも非公開でしか今はできないのですけれども、やはり不自然だなと強く思います。ミサというのは誰にでも開かれていて、そこに集まった信者さんと共にささげるのが本来の意味だなと逆に強く感じ、はっきり司祭として見せてもらったことかなという感じがします。不自然さに痛みを感じますけれども、だからこそ本来のあり方が何かということを神様からはっきりと示されているような。ミサ本来の意味に立ち戻る。一人でミサをするのもいいんですが、皆で共にささげるのがミサだし、それが本当に教会だなと思います。一人一人が神と繋がることもそうだし、神父と信者さん、信者さん同士、このつながりの中でこそ教会というものがある。信仰というものもつながりの中であるし、司祭職、神父であるということも信徒とのつながりでこそ意味があるなと強く思うようになりました。だから盲人が外に追い出されはじめてイエス様と出会うんです。会堂から追放されて外に追い出されているんですけれども、いわゆるユダヤ人コミュニティから追放されていることですが、そこで初めて大切なものが、イエス様が見えるようになったということです。逆にそうやって一人一人見えてくるものが信仰の中で大切なことだと言えるのではないかと思います。それは一人一人わたしたちが見出していくことだと思います。見えない事は見えないなりで、どうこう言っても仕方ないですからそれはそれでいいんですけれども、今大事なものは、今、主がわたしたち一人一人に見せてくれているものは一体何なのか。特に大事なものは何なのか、どうでもいいものはどうでもいいのですけれども、本当に信仰の核となるということで、今、主がわたしたちに見せてくださっている。それは一体何なのかを見つけたいと思います。
思い出しましたが、もう一人の方は、家にいる時間が長いからお祈りする時間も長くなってお祈りしていると自然と十字架の形にしてひれ伏してお祈りするようになったというわけです。やはり十字架のイエス様と自然と近いお祈りになったということでしょう。それはその人なりにこの時期だからこそ見えてきたものであるともいえるでしょう。わたしたち一人一人はそういうものを見出しながら歩んでいけたらいいのではないかと思います。
今週の初めに菊池大司教様が今後の予定を発表されるので、見えてくるものがあるかもしれませんが、それを受け止めながら、主がわたしたちに示そうとしているものをしっかり見つけながらそれを大切にして、歩んでいけるように、共に祈りをささげたいと思います+

 第一朗読  サムエル記 上 16:1b、6-7、10-13a
(その日、主はサムエルに言われた。)「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5:8-14
(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」+

 

2020 年 3 月 22 日(日)
 四旬節 第 4 主日〈紫〉A 年 
  カトリック麹町教会 ザビエル聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記