カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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3-29 復活であり命であるイエスを信じ 私達は蘇る

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英神父 ミサ説教 イグナチオ教会 於

ヨハネによる福音書 11:1-45《ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。》
(ラザロの)姉妹た ちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
《弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。》
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。《ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。》
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
《マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、》
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた+

 今年はA年ということで日曜日の四旬節の福音朗読は、ヨハネによる福音書の朗読です。全体的にはマタイですが、ヨハネによる福音書が続いています。今日はヨハネの11章ですけれども、今朗読したように、死んでしまったラザロが蘇るという非常に不思議なお話です。人々は驚いたし、多くの希望を抱いたと思われます。命は蘇るという非常に信じ難いけれども、希望に満ちたメッセージが語られていると思います。今のコロナウィルスのことで私たちは命の危険にさらされているわけですが、その中で命の蘇りというお話をしっかりと受け止めていきたいと思います。
命ということで一番に思い出すのは、去年の11月の終わりにフランシスコ教皇が日本に来られて、そのテーマが「すべてのいのちを守るため」という言葉は、私たちに与えられた一つの大きな恵みであり、チャレンジである ということをつくづく感じています。教皇様の来日の時期がちょっとでもずれていたらコロナで駄目だった。ギリギリのところでパパ様が来てくださって、あたかもこれからの苦しみの準備をするかのように、パパ様が恵みを与えてくださったようです。訪日の時系列で考えても不思議な気持ちになります。私たちの一つの課題は命を守るという非常にシンプルな課題が与えられているといえるでしょう。もろん一人一人が気を付けて感染症にうつらないように自分の命を守り、そして周りの人の命を守るということが大切なことは言うまでもないと思います。今は行動がかなり制限されてきて、厳しい状況には置かれていると思います。一番シンプルに命を守る方法は、朝、起きた時のお祈りで聖霊が自分の体を包んでくださるようにというお祈りで、聖霊はいわばマスクがわりというか、防護服のように包まれる祈りです。単純ですけどもこれが一番いいかと思っています。毎朝聖霊によって自分の体が守られて、感染症にならないようにという聖霊の防御をしているというお祈りをされたらよいのではないかと思います。命の基本は自分の体の命を守るということです。
二番目に大事なのは心の命を守るということもよくよく考えたらいいと思います。体のダメージよりも心のダメージだと思うんです。自粛が続いてコロナ鬱とか言われていて、そっちの方が命を脅かしているという気がします。自分の心の命を保つ工夫を心がけるべきだと思います。基本は生活ペースを崩さない。やはり十分な睡眠とか祈りの時間とか、屋外での運動もやりにくくなってきましたが、でも自分の心の命をどう守って、メンテナンスするか、一人一人の工夫が必要と思います。
私は週に一回休みですけれども、普段は美術館や映画へ行ったりすることが多いのですが、今は自粛傾向なので屋外の公園へ行ってバードウォッチングをしています。今ちょうど春で鳥が出てきて楽しそうに鳴いていて、コロナと全く関係なく鳥たちが嬉しそうに鳴いています。割と野鳥の集まる公園で、双眼鏡で鳥を眺めています。それは一つの例ですけれども、普段日頃と違うかたちでも自分の心を命を自分なりに保つことをしていかないといけないと思います。これからもっと厳しい自粛制限がかかって屋外の公園にも行けなくなったらまた別のことを考えますが、心の命を保つ。日頃できないこういう時だからこそできなかったことをしてみようと。私も難しい本にチャレンジして、こういう時だからこそ読み出しました。コロナ、コロナとあまり考えないようにして、かなり難しい本を読んでいます。命を保つ工夫を絶対しなければならないことと思います。
もう一つ思うのですが、命というのは必ずつながりがあると思います。単独では命はないと思います。生まれた子供は親とかとの繋がりがなければ育たない。結婚で夫と妻と暮らして子供を授かって、命というのはどこかでつながっている。今回の伝染病の問題はつながりを切っています。いろんな集まりができないとか。だからこそ大事なのは、命のつながりをつける工夫が日頃よりも倍ぐらい必要です。それが命を守るポイントだと思います。お互い会うのが難しくなってきましたが、親しい人と長電話したりしてもいいでしょうし、日頃ご無沙汰している人にあらためて手紙を書いてみたり、ネットを使えばいろんなコミュニケーションできますが、つながりだと思います。こういう時こそしっかり繋がりを持って行ったらいいのではないかと思います。
また大事な繋がりが何かと言ったら神様とのつながりです。今こそしっかりとつなぎ直す、しっかりと結び直すことが必要だと思います。今日もイエス様がはっきりおっしゃっています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」このことを信じるかとマルタにおっしゃっています。復活であり命であるそのイエス様を信じるかとはっきりと聞かれています。世界的に今みんなラザロになっています。病気にかかっていないだけでみんな憂鬱な気分でみんなラザロになりかけているわけです。その中でラザロの蘇りです。それを信じるかどうか。イエス様が復活であり命であるからです。ラザロに聞いてなくて、姉妹のマルタに聞いているわけです。私たち一人一人がイエス様に問われていると思います。復活であり命であるイエス様を信じるかどうかです。私たちが今こそそのイエス様を信じるならば、急にではないけれどもラザロは蘇るということです。復活であり命であるイエス様を信じ続けるならば、必ず蘇りの時は来るということです。それが本当に信仰者に問われていることです。一人一人問われていることです。まさしくマルタのようにすぐに信じられるかどうかわからないけれども、信じていく、それこそが私たちの霊的な命の一番の方向にあると思います。
困難の中でも復活であり命である主を力強く信じ続けていくことが出来るように。そしていつか世界全体が今のウィルス感染から立ち直って、あらたな蘇りを迎えられるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います+

 

第一朗読  エゼキエル書 37:12-14
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」

答唱詩編 30:1.2.3.7.8

主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。

神よ、深いふちからあなたに叫び、
嘆き祈るわたしの声を聞いてください。
あなたが悪に目を留められるなら、
主よ、だれがあなたの前に立てよう。

イスラエルよ、神により頼め、
神は豊かなあがないに満ち、
いつくしみ深い。
神はすべての罪から、イスラエルを救われる。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:8-11
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう+

 

2020 年 3 月 29 日(日)
 四旬節 第 5 主日〈紫〉A 年 
  カトリック麹町教会 ザビエル聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記