カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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4-19 あなたがたに平和があるように 聖霊を受けなさい

 英神父 福音朗読とおはなし

 みなさんこんにちは。イエズス会の英神父です。コロナウィルスの騒動の中で、公開ミサができなくて、今は非公開のミサしかできていません。イグナチオ教会としては日曜日の9時から神父様が交代でライブ中継でミサを流しています。当番でやっているので、わたしの当番がまわるのが一ヶ月半か二ヶ月に一回程度しかないなので、あまりに少なすぎると思いましたので、この期間中はミサの説教ではなくて、わたしが特別にお話しするような形でブログに載せたらいいかと思いました。主日の福音を読んでそれを分かち合って、説教の代わりにしたいと思います。今日は復活節の第二主日です。今日の福音書を読んでお話ししたいと思います。

ヨハネによる福音書 20:19-31 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである+

  今日の福音書は最初のところが傑作です。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」というわけですから。わたしたちは今、ユダヤ人を恐れているわけではなくて 、コロナウィルスを 恐れていて、ほとんどの人は家の中に閉じこもざるを得ない状況で、今日の福音書の状況にあまりにぴったり当てはまっていると言えるかもしれません。でも恐れて閉じこもっているだけでお話は終わっていなくて、わざわざ鍵をかけて閉じこもっている時に、突然復活したイエス様が現れてきて、皆の真ん中に立って、「見ないのに信じる人は、幸いである。」そう言って自分の杭の後の手と脇腹をお見せになったということです。

わたしたちが恐れてコロナウィルスを警戒して家の中に閉じこもれば、ほとんどうつる可能性はないでしょう。物理的な問題ですから、接触とか触れなければうつる可能性は限りなく低いと思います。そのように防御していても、何がわたしたちの方に来るかと言ったら、復活したイエス様は警戒を乗り越えてわたしたちの真ん中に来てくださるというわけです。こんなに何か慰め深い救いの力というのは、本当にないのではないかと思います。わたしたちはイエス様の復活を信じている以上、コロナウィルスに恐れているわたしたちの更に内側に来て、わたしたちを励まし助けてくださるというわけです。ここでイエス様がおっしゃるのは「あなたがたに平和があるように」シャロームという事ですが、今日の朗読した箇所には三回言うんです。「あなたがたに平和があるように」平和があるように、平和があるように。このコロナウィルスの自粛生活が三週間以上ぐらいになりますが、なんとなく疲れたり、鬱々したり、イライラしたり、様々なネガティブな気持ちが沸き起こってきます。でもそれを超えてイエス様がわたしたちに平和を与えてくださっている。本当にイエス様を信じていきたいと思います。どうやって日々の生活の中で平和を生きていくかという事ですが、一つの簡単な提案は非常に簡単なことですが、できることとできないことを分けるということだと思います。できないことは諦める。今のこの状態の中で自由に出かけるとか、仕事に行くとか、レジャーに行くとか、友達とご飯に行くとか、日頃と違うけれども、できないことは色々とあるわけで、できないことは諦める。できないことはできないと、すっぱりここで諦めてそれを放棄するというか、それをわたしたちの心に平安をもたらすということだと思います。できないことをああしたらとか、こうしたらとか、できないことはできないと割り切ることでしょう。それで当然その反対ですが、この中でもできることはいろいろあります。できないことを諦めてできることを果たしていくということです。できることは多々ありますから、出来ることを忠実にあるいは心を込めて、あるいは遊び心で何か創造的なことで自発的な気持ちで、それを楽しんでやろうとする気持ちを大事にされたらいいのではないかと思います。幸いだと思いますが、この話を聞いている方の大半はそうでしょうと思いますが、神様を信じているクリスチャンであるということは、祈ることができるというお恵みが与えられているということで、心に平安が湧き上がってきます。神様を信じていない、あるいはイエス様を信じてない人々が、不安になったりイライラしたり、どうそれを乗り越えて行くのか、実は創造し難いところがあって、というのはわたしたちクリスチャンは不安だったりイライラしたり、恐れがあるからこそお祈りをして、神様に助けを願うということができる。他の人ができなくてもわたしたちはできる大きな恵みが与えられています。そしてまさしくイエス様はコロナよりももっとわたしたちに近づいて来てくれて、わたしたちに平安を与えてくださる、そのお恵みが与えられているということです。
今はとにかく濃厚接触を避けるというわけですが、でもわたしたちはイエス様にこそ濃厚接触できるということです。今日のイエス様は手と脇腹をお見せになったり、トマスに対して「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」ものすごい濃厚接触で、遠ざけているのではなくて、もっと近くでイエス様に触れていいとおっしゃってくださっているわけです。今は神様とイエス様と濃厚接触するチャンスでしょう。できることが少ないだけ、逆にこのお恵みが与えられていると思います。イエス様との個人的な心からの親しみを込めたふれあいを、わたしたちは今その時を持つことができて、実際そのお恵みが与えられているということです。その中でこそわたしたちの心の中に本当の平安の安らぎや落ち着いた心を取り戻すことができると思います。そのような平安は世の中がうまくいってる、あるいはわたしたちの生活がうまくやっているから安心だという外面からくる安心ではなくて、内面からくる安心です。やすらぎを主が与えてくださっている。復活したイエス様がわたしと共にいて、そのイエス様にわたしたちは触れて交わって関わることができるということです。これは本当に大きな恵みの時が与えられているのではないかと思います。このイエス様との親しみ交わりを深めて、そこからわたしたちは平安を得るようにしましょう。
イエス様がトマスに言うんです。「見ないのに信じる人は、幸いである。」イエス様の姿はもちろん見えるわけではないですけれども、物理的な濃厚接触ですはないですけれども、見ないのでわたしたちは信じることができる。心の中の祈りを通して。あるいは聖書の御言葉を通して、わたしたちは今もイエス様に触れることができる。このイエス様と触れ合えるからこそ、わたしたちの心に平安が与えられると思います。この平安は心の平安だから、外面がどうだって、外側がうまくいこうがいかまいが、コロナウィルスがもっと蔓延しようがおさまろうが、それと関係なしに与えられる平安です、平和の心です。これをわたしたちにイエス様がくださるというわけですから、そのイエス様に信頼したりできるように、ともに祈りながら、神様との交わりを深めながら、また共に歩んでいきたいと思います +

 

第一朗読  使徒言行録 2:42-47
(信者たちは、)使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

第二朗読  ペトロの手紙 一 1:3-9
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです+