カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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5-3イエス様の門をくぐり 新たな本当の生き方を見いだす

英神父 福音朗読とおはなし

ヨハネによる福音書 10:1-10(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである+

   復活節の第4主日は、必ずよい羊飼いのたとえ話が語られることになっています。わたしたちが羊であるということですが、まさしく今はわたしたち人間というのはつくづく羊のような存在に過ぎないんだなと思い知らされる気がします。羊はか弱い愚かな動物で、狼が来たらあっという間にやられてしまうので、隠れたり逃げたりしなければなりません。狼というには小さすぎますが、コロナウィルスというものに怯えてしまって、わたしたち人間はまさしく羊のように囲いの中に閉じこもらざるを得ないわけです。羊たちも昼間は野原で草を食んでいるわけですけれども、羊飼いに導かれて夜は囲いのあるところで、まさしくこの狼からの外敵から守るために閉じこもるわけです。つくづくわたしたちは羊のようなものだと思います。このような危機的な時になれば思わされるようなところがあります。そういう時には羊飼いの言うことを聞くしかないわけで、コロナウィルスという目に見えない危機が迫っているわけで、わたしたちは専門家の言われる通りに、あるいは政府の指示に従うしか他に何もないと言えると思います。こうやって8割人との接触を減らすとか、三密を避けるとか、羊のようにするしかないわけです。特にわたしたちはほとんどが素人ですから、こんなことがあったらどうすればいいかも分からないので、そのような専門家の人々の言う通りにしなければなりませんでした。でも今日の福音書ははっきりしていて、もちろん専門家や政治家の方針もありますが、やはりわたしたちの羊飼いはイエス様だということです。それをわたしたちはあらためて思い起こしたいと思います。羊飼いであるイエス様が1人1人の名前呼んで連れ出したり呼んだり。私たちは羊飼いであるイエス様に聞き従っていくかどうかということです。どこに焦点を置かなければならないかということも問いかけなければならないことだと思います。それで言うならば、日頃私たちは危機に陥る前はイエス様に本当に聞きしたがっていたのか。あるいは違うものにとらわれていたのか、どうだったのかということを少し振り返ったり反省したりすることができる、そういう時ではないかと思います。
この狼は今のコロナウィルスみたいなもので、羊みたいなわたしたちの命を脅かしているといえますが、別のことから言うと、わたしたちの生き方は本当の命である、救い主であるイエス様に羊のように素直に従っていたのかどうなのかということも問いかけてみたらいいのではないかと思います。いろんなものが自粛されている時だからこそですけれども、イエス様が羊の門であるということです。私たちはイエス様の門をしっかりくぐって、門をくぐるともう別の世界で、門とか戸というのはシンボル的で別の世界へ行く入り口みたいなものです。わたしたちは本当に羊の門であるイエス様の門を見出して、その門をちゃんとくぐって、ちゃんと別の世界へ別の次元へ行くことができるかどうかという問いが今、自粛している時にあるのではないかと思います。
多くの人にとってわたしもそうですが残念なことは、非常事態宣言が延長され、多分1ヶ月ぐらい延長されるだろうということで、がっかりされている方も多いと思います。ただ今、突然緊急事態宣言が解除されて、あるいは何も問題がなくなって、すべての活動を前と同じように再開するというのが、果たしてイエス様の門をくぐるということに直結するかどうかということは、怪しいのではないかという気がします。つまり元通りの生活に戻って、売ったり買ったり商売したり仕事したり、おしゃべりしたりあっちこっち行ったりするというのは、ただ元に戻るということだけを、主が今わたしたちに望んでいるのかどうなのかは疑問に思っています。何かこのコロナウィルスで人類が危機に直面しているということは、何かイエス様が私たちに新たな気づき、新たな生き方をするようにきっかけを与えてくださっているという気が、はっきりとは言えませんがそういう気がします。3月4月の2ヶ月も自粛生活をしているわけですが、でもイエス様がこの門をくぐりなさいと言っている新たな門を果たして見出しているかどうかということは、やはりはっきりしません。わたしはこの緊急事態宣言が1か月伸びたということは、クリスチャンにしか当てはまらないかもしれないけれども、わたしたちの生き方を見つめ直して、わたしたちが本当に出て行く時にくぐる門は一体何なのかということをじっくり考えてみる必要性が、黙想して、祈ってみて、イエス様がこっちだよと呼びかけられている方向性は何なのかということを見いだしてみたいという気持ちが強くします。
自粛生活が始まったので、イタリアのベネチアで運河が綺麗になったり、中国にしろインドにしろ、フィリピンのマニラにしろ、スモッグというか空気の汚染がなくなって大都会はどこでもきれいになったとか、野生動物が現れたとか、いろんなことを聞いていると全てが止まっている中で、今まで痛めつけていた大自然や地球がやっと一息ついている気がします。わたしたちがコロナは狼だと怯えているところもあるけれども、でも本当の狼は今の人間かもしれない。人間が今の地球を滅ぼしている、それこそがわたしたちが一番心配すべき危機なのではないかと思います。一番最近でしたら、若い女性のグレタさんが今のエコロジーを多くの人に訴えかけているわけで、人類に消費主義を続けていったら、地球温暖化とか気候変動とか様々な危機が来ることを多くの様々な専門家が警告しているわけです。そういう時こそイエス様が羊に対する呼びかけという気はどうもします。でも結局私たちは答えられないから、物を捨てたり、エネルギーをどんどん消費したり、地球をどんどん破壊していくライフスタイルをちっとも変えられていないわけです。でもコロナウィルスのおかげで初めて破壊に向かう力がストップされているのは、かなり大きなことではないかと思います。だから何が本当の狼なのかということを、実はよくわからない。コロナウィルスが狼かということすらも、そんなに軽々には言えないのではないかと思います。もっと恐ろしい狼にわたしたちはやられようとしている。そういう危機意識を持つ必要性があるし、またイエス様の呼びかけとイエス様が今こっちの門をくぐりなさいと言っている門は一体なんなのか。その門をくぐって、わたしたち羊は本当にイキイキできる青草を食べられるわけです。それは単に今の大量生産、大量消費エネルギーをどんどん使ってという、全くエコロジーを考えない生活に単純に戻った方がいいとは思えないです。ただまだこうしたほうがいいというほど、はっきりした具体的な生き方というのが自分の中に見えてるいわけではありません。わたしは大都会のど真ん中に住んでいますから、大自然を大切にすると言ったってできることは限られているわけです。それでもやはりわたしたち一人一人が今、イエス様の声を聞いて、コロナの後にどのような生き方をするか主の今、かすかな呼びかけを聞こうとするかどうか。そしてイエス様が門をくぐりなさいというこの門を一人一人が、今の人類が見つけられるかどうか大きな問いが問いかけられていると思います。東京に住んでる人も間違いなくこのような自粛生活を1ヶ月は続かなければならないですけれど、ただ単に仕方がないとか、どうしようもないとか言っているだけではなしに、このあとどのような生き方をわたしたちはしたらいいのか、一人一人自分の家族、教会として、自分のグループとして、日本の社会全体とかは大きくなりすぎるとなかなか考えにくいですけれども、わたしたちが本当の新たな門をみい出してくぐって、イエス様の望む永遠の命に繋がる、本当の命を生きる生き方をわたしたちは探す、それを一番願いたいと思います。
これからの1ヶ月を無駄にしないで、前向きに新たな恵みを、新たな生き方を、新たな道を見いだすことが出来るように、お互いのために祈り合いながら、各自がしっかり黙想しながら、それを分かち合いながら歩んで行けるようにしていきたいと思います+

第一朗読  使徒言行録 2:14a、36-41
(五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

答唱詩編23:2.3.4.5.6
主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。


神はわたしを緑のまきばに伏させ、
いこいの水辺に伴われる。
神はわたしを生き返らせ、
いつくしみによって正しい道にみちびかれる。

たとえ死の陰の谷を歩んでも、
わたしはわざわいを恐れない。
あなたがわたしとともにおられ、
そのむちとつえはわたしをまもる。

あなたははむかう者の前で、わたしのために会食をととのえ、
わたしの頭に油を注ぎ、わたしの杯を満たされる。
神の恵みといつくしみに生涯伴われ、
わたしはとこしえに神の家に生きる。

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:20b-25
(愛する皆さん、)善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです+