カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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5-10 謙遜の徳でイエス様の新しい命に生きる

英神父 福音朗読とおはなし

ヨハネによる福音書 14:1-12(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」+

 今の朗読は、ヨハネの十四章ですが、非常に有名な所だと思います。特に有名なのは、このイエス様の言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である。」それをよく振り返ってみたいと思います。道であるということですが、確かに私たちの人生は一つの道だと言えるでしょう。イエス様の道を忠実に歩いていると言える人もいるし、それを外れた、勝手気ままな道を歩いている人もいるでしょう。そして今、コロナウイルスの関係で自粛生活ということで、私たちが歩んでいる道に、ほぼ全員ストップがかかったと言えるでしょう。もちろん中には今、エッセンシャルワーカーとして働かざるを得ない、極度に緊張を強いられている人々もおられると思いますが、大半の人は今まで歩んでいた道が急にストップがかかって、止められしまったと感じている人が多いのではないかと思います。こういう時にこそ私たちの歩みというか、一人一人の歩み、そして社会の歩み、どのような道を歩んできたのかということを一度振り返るいいチャンスだと思います。そして私たちが今後どのような道を歩めばいいのかという問いを、自分自身に問いかけたらいいと思います。
その時に大切なのは2番目のことですが「道であり、真理であ」るということ。真理というと固いので、真実とかあるいは大切な事とか、それぐらいに捉えたらいいと思っています。つまり今立ち止まって自粛生活が始まった中で、どういう大切なことに気付いたのかということです。気づかされたのか。あるいはそういうものに出会ったのかということです。それは一つの問いかけだと思います。
オンラインである若い人との集まりをやったりしているんですけれども、今回の事の分かち合いみたいなことをしたのですが、なるほどな、ということも多々ありました。気づきというか改めてこのようなような生活になってみて、多くの人が言ったのは、ほとんどの人が働いてる若い世代ですが、生活にゆとりが出たという人が何人も出てきて、わたしにも当てはまるのですが、働いている若者達は忙しすぎる現実があったということでしょう。私もそうですが、お祈りするのと寝る以外はずっと仕事しているみたいな感じで、本を読んだり散歩したり、そういう余裕は全くない生活でしたが、こういう風に自粛になって余裕が出てきて、もう少し人間的な生き方が出来ているということが大きなお恵みだと思います。若者に聞いたら祈り時間が増えたとか、興味があった本をゆっくり読むことができたとか、神様と向き合うことができるようになったとか、逆に言えば今までの生活が忙しすぎるというか、人間性をすり減らすようでした。たっぷり寝ることができるとか、そういうことです。逆に言ったら私たちの生活が、特に東京の中にいるからそうかもしれませんが、忙しすぎて人間性を見失っていたところがあるのかもしれない。でもそれが止まってみて、心の余裕や体の余裕がどれだけ大切かということを改めて確認できたということは本当に良かったと思います。できれば続けられたらいいと思います。
そして何人かの方が言っていたのが、いかに今の文明、文化、人間の力がもろくて弱いものかということです。目に見えないウイルスによって世界中が混乱してしまう。人間は今まで何でもできると威張ってきたところがあったけれども、でもちょっと何かあれば崩れてしまうような。結局は儚くて弱い存在でしかないということ。それをキリスト教的に言うと「謙遜の徳」という。私たちは自分自身を見ても大したものではないということ。あるいは人類という塊を見ても。謙遜になった時に、私たちは初めて神の前で頭を垂れることができるのではないかと思います。結局何でもできると、人間は自分たちこそ神様だと傲慢になって、自然を破壊したり、人間の欲望をただ膨らましたり、ただ金儲けしたり、ただ快適な生活を求めたりとか。それはこういう時になれば違っていたと思う。私たちの生き方の原点は神の前に謙遜になる。人間というのは弱くて儚い存在であるということを認めなければならないということです。その中で二人ぐらいの人が言ってましたけれど、だから今こそ福音を語る時。人間の弱さとか限界が分かった時にこそ、神の言葉が人々の心に届くのではないかというんです。今こそクリスチャンの方々は、福音を語らなければならない。それこそが本当の真実であり真理であり神の言葉である。それをわたしたちが語る時だと言えるでしょう。逆に謙遜な心にこそ、つまり神の前で打ち砕かれた魂にこそ、神様の本当の真実が魂に染み渡るように入るのではないか。私たちは神様の真実に目を向けて、そこに私たちの心を合わせていくということです。
他にもいろんな気づきがあって、皆さん方も自粛の生活を振り返っていただければ色々気づくこともあるでしょう。家族との関係とか仕事のやり方とか、人間関係の在り方とか、ちょっとストップする中で私たちが気づくことがあります。その気づきを大切にしながら、私たちは道であり、真実であり、命である。つまりイエス様の命をどのように生きていくのかということを振り返り、新たに実践しようとする機会が与えられているかと思います。一人の人が言ってましたが、私たちは今計画は立てられないわけです。1ヶ月先がどうなるかわからない。そういうのが神様に委ねて生きる、つまり私達は勝手に計画を立てていますが、私たちは明日のことさえ分からないですが、だから今こそ神様に信頼して、この一日一日を今のひと時ひと時を大切に生きる。それがイエス様の命を生きていくということに繋がるかもしれない。今イエス様の命を生きるために、この経験を通して何ができるのか、どう生きていくのかということです。少し心に余裕があったりする中で、祈りの時間とか体のケアとか、心のケアをしながら生きていく、その命の生き方が本来的な人間の生き方だと思います。忙しすぎるとか無理をして夜遅くまで働くとか、もちろん今でもそうせざるを得ない方もおられますが、エッセンシャルワーカーの人々もまさしく命のために働いているという、そこに尊いものがあります。
一人の人が言っていたのは、今の社会に日本でも世界でも隠れたヒーローがいて、命を救うために懸命に自分を捧げている人たちがいるということに気づけるということも大きなお恵みの一つでしょう。コロナの圧迫の中で、医療従事者とか、スーパーで働いている人もそうですが、命のために自分の命をある意味投げうちながら生きるということ。何か命のパラドックスみたいなものを感じられます。結局イエス様がおっしゃっている、私が命であるという命は、どう考えても単に私たちの心身の健康だけを指しているとは思えません。イエス様のおっしゃっている命は、十字架と復活を超えた、永遠の命への招きだろうと思います。だからこそ私たちは、まずイエス様の十字架と共に古い自分に死ぬというか、古い生き方に死ぬということがあって、イエス様の復活と共にわたしたちは新しい命、永遠の命に向かって歩めるのではないかと思います。
十字架と復活を生きる長いスパンにはなっていますが、どこか古いものに死んで、新しいものに生まれ変わっていく。しかも生まれ変わるときに、永遠の命に繋がる本当に真実の生き方を大切にするような、そのような生き方は私たち一人一人にとってどういうことなのか、改めて問いかけながら、私自身も日々問いかけながらということです。
今までと同じようにただ自粛が解除されて、元に戻って、ただ再開すればいいという命ではないような。もっとイエス様が望んでいる命は永遠の命に繋がる、十字架と復活を超えた命に招かれていると思います。私たちの生き方を新しく変えるチャンスだと言えるし、私たちの社会が新しい仕組みで生きていくという一つのチャンスを迎えていると思います。
永遠の命、新しい命をどう生きていくのか、なかなかはっきり分かることではないし、簡単なことではないと思いますが、イエス様が与えてくださる本当の命をわたしたちが精一杯生きていける、そのような生き方に向かっていけるように、今日の毎日毎日を過ごしていきたいと思います+

 

 第一朗読  使徒言行録 6:1-7
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

答唱詩編33:4.5.6.11.20.21
神の注がれる目は、神をおそれる者に、神の愛に希望をおく者の上に。

神のことばはただしく、
そのわざにはいつわりがない。
神は正義と公平を愛し、
いつくしみは地に満ちている。

天は神のことばによってつくられ、
星座はそのいぶきによってすえられた。
神のはからいはとこしえに、
み心の思いは世々に及ぶ。

神はたて、神はすくい、
わたしたちは神を待ち望む。
心は神のうちにあってよろこび、
とうといその名により頼む。

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:4-9
(愛する皆さん、)主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。
彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。