カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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5-17 御言葉 御聖体 イエス様の生き方が内にある

英神父 福音朗読とおはなし

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ヨハネによる福音書 14:15-21(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 今日の福音書はヨハネの十四章で、ここのところずっと読んでいるイエス様が十字架にかかられる前の、弟子たちに対する長い告別説教の一部分のところになります。今日の朗読を読んでいると、神様とわたしたち自身がどれだけ密接な関係にあるかということを繰り返し語っています。イエス様がいなくなっても別の弁護者、つまり聖霊です。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」「永遠にあなたがたと一緒にいる」というかなり密接です。あとには「わたしが父の内におり」イエス様が御父の内におり、あなた方がイエスの内にいてイエスもあなたがたの内にいるということです。

今のコロナ騒動の中で言えば、しきりにテレビで言っているのは、三密を避けなさい言っている。密閉、密集、密接を避けなさいと言っていますが、今日の福音書は逆にイエス様と御父がお互い一つだ。わたしたちもイエス様と一つという、聖霊も共にいるということです。神様とわたしたちの三密を今日の福音書では強調されているわけです。こういうところを見ると、キリスト教の三位一体というのは三密一体だなという気もします。でもわたしたちは逆に三密を避けなさいというわけです。

東京も多分その内、来月くらいからは緊急事態宣言がとかれるでしょうけど、それでも ソーシャルディスタンス を保ちなさいというわけです。人間と人間との間の距離を1.5 メートル ぐらいはあけなさいと言っているわけです。その事についてカトリックの経済学者の浜矩子という人がいて、なかなか辛口の人なんですが、個人的に同じカトリック精神なので、言っていることが共感できることが多い学者です。彼女は ソーシャルディスタンス というのがおかしいという。なぜソーシャルというのか。彼女が言うには、ソーシャルではなくてフィジカルの問題で、物理的に1.5 メートルとか2 メートル離れるというのはフィジカルディスタンスで、なんでソーシャルと言わなければならないのか 。彼女が言うにはフィジカルディスタンス はいいけれども、問題なのはソーシャル コンタクト。人と人との距離はあったとしても、人と人との間柄、関わりというのをどうもっていくかというのが大きなテーマだということです。それは本当にそうだと思います。わたしたちは都会に住んでいると人が密集して、心理的な ディスタンス、距離はかなりあるわけで、物理的な接触を減らさなければならないけれども、わたしたちは距離感をどう埋めていくかということも大きな問いかけでしょう。こうやってミサに預かれないというのも一つのフィジカルディスタンス ではありますが、本当の意味でソーシャルコネクト、神様とわたしたちの関わりを三密までいかなくても、近しい関係にどうやってわたしたちは持っていくのかという大きな問いかけを与えられているのは確かだろうと思います。

だいぶ前になりますけれども、青年会の分かち合いの時に、イエス様か神様はどういう人に例えるかという話で、ある一人の普通のタイプの人が、イエス様とは自分にとっては時々訪ねてくる親戚のおじさんみたいだというわけです。それを聞いてなるほどと思いました。イエス様が非常に遠いわけじゃないけども、非常に近いわけでもない。時々訪ねてくるぐらいの親戚のおじさんレベルの関わりだと言うんです。だからその人にとって近いわけではないけれども、遠いわけでもない。親しみがあるけれども、ものすごく親しみがあるわけではないような。多くの人にとってそうかもしれない。こういいう機会だからこそわたしたちはイエス様とわたしたちの距離感というのを、どれだけ縮めることができるかということです。 フィジカルディスタンス があるからこそ心理的な、あるいは霊的な神との近さをわたしたちが見出していける。そういうことはどういうことかとかということです。あるいはそのような親しさで個人的な祈りを深められるて素晴らしいと思います。

話が飛ぶようですけれども、カトリックの教会法というのがあります。教会法というのはバチカンが決めた教会の法律で、1970年代ぐらいに決められたものです。そこで司祭の義務とか、信徒の結婚のこととか色々書いてあります。その中で神父の義務というところが不思議な書き方で、司祭としてミサをささげなさいと書いてありますが、義務としては書いていないのです。義務として書いてあるのは教会の祈りです。教会の祈りといって、司祭が唱えなければならない、修道者が唱えなければならない教会のお祈りがあって、それは唱えなければならない義務で書いてあります。ミサの方は義務として書いていないのです。やはりわたしの気持ちとしてはミサこそ義務にして、教会の祈りというのは絶対でなくてもいいのではないかという気がします。一度教会の専門家の神父様に聞いてみたら、1970年代の世界の状況が反映されているというのです。どういうことかというと、その頃はいわば東西の冷戦の激しかった時期で、共産圏の国がいっぱいあって、そこでは多くの神父様が投獄されていたんです。中国もそうで東ヨーロッパでもそういう国が多かったので、投獄されていた神父様が多かった時代で、牢屋にいる時にミサがたてられなかったのです。そのような事情があったから教会法でミサをたてることを義務にしなかったそうです。つまり義務にしてしまったら牢獄にいた神父様が義務を果たせなくなるからです。逆に牢獄にいても教会の祈りという本は差し入れで牢屋の中にいても手に入れることができたので、教会の祈りの方だけが義務として教会法で定められたということです。まさしく1970年代の社会情勢の影響が、そういう法律に色濃く入っていることがあるんです。ちょっと前の時代でも、神父様自身でミサを捧げられなかった人がいっぱいいたわけです。当時の政治状況とか難しい問題の中で。それで彼らの信仰が弱くなったかというと全くないわけです。解放されて社会に戻って彼らは何年、何十年ぶりのミサを捧げて平常の司祭生活に戻ったわけです。中国でもたくさんのカトリック司祭が投獄されていたということがあるわけです。でもミサができるかできないか関係なしに、神父様達は神様との深い交わり近さをずっと生きていたわけです。そういうことを思い起こしてみたいなと思いました。

イエス様がおっしゃるんです。「わたしもあなたがたの内にいる」イエス様がわたしたちの内にいるということはどういうことか。でも聖体拝領は確かにそうです。ご聖体をいただければイエス様がわたしたちの物理的な体の中に入ってこられるわけです。本当に大きな神秘で大きなお恵みですけれども、でもこういうのは聖体拝領だけやってるわけではなくて、御言葉をわたしたちの心の中に入れる。あるいはイエス様の生き方そのものをわたし達の中に受肉させる。そのような形でわたしたちは神様との近さを生きていくことがいくらでもできると思います。

そして人間関係もそうだと思います。こうやってフィジカルディスタンスをとらなければならないほど、わたしたちは周りの人に対して、もっと思いやりの心を持っていけるように今は呼びかけられているでしょう。日頃接することが減ってしまうからこそ、人と人との関わり心理的な距離を短くする。人と人との繋がりをさらに深める工夫をするようにわたしたちは呼びかけられている。互いに愛し合うようにわたしたちは呼びかけられていますから、たとえ牢獄の中にいようとミサに出れない状況であろうと、教会に来れなくても、あるいは職場がリモートワークになったとしても、やはりどのような状況でも、わたしたちは互いに愛し合うように呼ばれているということです。

単なる言葉遊びですけれども、わたしたちは三密一体になって生きていくという、心理的に霊的に一体となっていけるように、特に神様と一体感を持って生きていけるように、日々の祈り、わたしたちの日々の心がけ、心の置き所とわたしたちの振る舞い方というものが距離を縮めていくような、そのような毎日を過ごせるように、共に祈っていきたいと思います+

第一朗読  使徒言行録 8:5-8、14-17
(そのころ、)フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

答唱詩編詩編66:1.2.4.5.9.16.17
主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。

すべての人よ、神に向かって喜びの声をあげよ。
神の栄えをほめ歌い、その栄光を賛美せよ。
「すべての人はあなたを伏し拝み、
み名をたたえて喜び歌う。」

神のわざを仰ぎ見よ、
人々に行われたおそるべきわざを。
神はわたしたちにいのちをあたえ、
足をゆるぎなく支えられる。

神をおそれる者は耳を傾けよ。
神のわざを語ろう、わたしの上に行われたことを。
わたしは神の名を呼び求め、
賛美の歌が口にあふれる。

第二朗読  ペトロの手紙 一 3:15-18
(愛する皆さん、)心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。十

 

 

2020年 5 月 17日(日)
 復活節第6主日〈白〉A 年 
  カトリック麹町教会 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 福音朗読とおはなし