カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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6-28 自分の十字架を担って主に従う

英神父 ミサ説教 イグナチオ教会於

マタイによる福音書 10:37-42
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
 今日の福音書はマタイの十章、福音宣教の心構えが書いてある章なんですが、最後がなかなか厳しいところです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」というところです。さらに「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」 ということをいっています。家族のことと命のことを問うているわけです。これは本当にこのような厳しい箇所は考えさせられるところです。多くの人未信者、信者の方は、ほぼ誰でもそうですが、人生において何を一番大事にしているかということを聞いたら、ほとんどは自分にとって一番大切なのは家族か自分の命、家族の命となるかもしれません。でもイエス様はそれを否定している言い方をされるわけです。非常にチャレンジである気もします。コロナのこととか、あるいは東日本大震災の直後のこととか、ある意味危機が迫れば迫るほど、家族との繋がり、家族の命のことに気持ちが集中していくということが事実なわけです。でもイエス様はそれを超える世界をわたしたちに与えようとされているといえるかもしれません。星野富弘というプロテスタントの信者さんで車椅子で生活されている、元々体育の先生だったんですけれども、事故で脊髄の怪我をされた方で、それから車椅子の生活になって、腕をあげることもできない。結局彼が有名になったのは絵筆を口に持って、口で花の絵を書いて、花の絵に詩をちょっと書くようなことをされるようになって、皆さんもその星野富弘の詩集がわりと評判だったので、見られた方もおられると思います。彼の詩の中でこういうのがあるんですが、「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。命より大切なものがあることを知った日、生きるのが嬉しくなった。」これは今日の福音書に当てはまることかもしれない。彼は体力自慢の体育の先生だったけれど、寝たきりで腕も足も動かせない、口だけ動かせる。そういう時に命を一番大切だと思っていても、やはり苦しいだけ。彼が洗礼を受けてクリスチャンになった時に、命よりも大切なものがあることを知って、生きるのが嬉しくなったと彼は言っているわけです。やはりわたしたちクリスチャンの命は、この世の命を越える、今日の第二朗読ですけれども、復活の命を生きていると、それを忘れてはならないし、そこに向かっているということです。だからわたしたちも家族のつながり、人間の命は尊いものであるし、大切にしなければならないのは変わらないですけれども、それを総体化する、それを超える神の恵みと神の命にわたしたちが支えられているということです。それを思うときにわたしたちは病いの苦しみや死の苦しみ、あるいは家族のトラブルの苦しみ、わたしたちにはまだまだ苦しみがありますけれども、その苦しみを総体化することができるでしょう。それにとらわれない神の恵みの世界に生きているという。わたしたちをもっと支えている大きなものがあるということです。それをわたしたちは心に刻みたいと思います。

 聖歌隊の皆さんも全く歌が歌えず、どれだけ心苦しいことかと思います。この世の命はどこかで制限されているし、苦しみを避けられないし、ある時は困難を強いられるわけですけれども、だから今日のイエス様は十字架を担いなさいということですが、十字架を担って生きるのは、十字架を越える復活の恵みに支えられているからこそ、わたしたちはこの苦しみを受け取りながら苦しみを乗り越えていく、苦しみの向こうにあるものを生きていけるのだと思います。それは信仰ということだし、愛するということだと思います。

そのような神の命を生きていく、その恵みをしっかりと受け止めながら、この日々の苦労をのり越えて行けるように、心を合わせてお祈りしたいと思います十

第一朗読  列王記 下 4:8-11、14-16a
ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横にな(った。)エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、(従者)ゲハジは、「彼女には子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 6:3-4、8-11
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。