カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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7-13 謙遜 素直さで魂を豊かに育て 神の恵みを得る

英神父 ミサ説教 洗礼式

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マタイによる福音書 13:1-23 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》 

 今年はコロナウイルスのことで教会の活動も様々な制限を受けることになって、本当は復活の主日と共に多くの人と共に洗礼式を行う予定だったんです。それが出来なくなったので、この講座ごとの洗礼式という形で、しかもだいぶ時期を遅くして行うことになりました。待ちくたびれた方もおられるかもしれないですけれども、こうやってしんみりした形で洗礼式ができるというのも例年には無いことなので、一つのお恵みと言えるのかもしれない。わたしは講座ごとに洗礼を順番にやっているわけですけれども、洗礼式というのは何回やってもすがすがしい、喜びの気持ちが湧いてくるように思います。
今日の福音は種蒔きのたとえなんです。有名なたとえ話で、農夫が色んなところに種を蒔いて、でも当たり前ですけれど、道端とか石だらけの所とか茨の間とか、育たないのは明らかですけれども、良い土地に落ちたらそれが多くの実を結んだというお話です。ある意味洗礼を受けられるみなさんも、神様から与えられた種を受け止めて、このようにクリスチャンとして歩もうという気持ちで出発されようとすること自身が、みなさん自身が良い土地というか、神様の言葉というのは、何らかのかたちで世間のみなさんに多く語られているんですけれども、現代のほとんどの人がそうですが、皆さんも何らかの理由で神様の恵みの種を受け止められたという、それは本当に素晴らしいなと思います。でも大切なのはいただいた種をどう育てていくかという事です。洗礼を受けるというのはいわば出発点なので、時々洗礼式が卒業式だと思っている人がいて、むしろこれからがスタートだということですね。
植物のことは、わたしはアウトドアな人間じゃないので不得意な方なんですけれど、農業で何が一番大事なのか、決定的なのは土です。土地の問題が一番大きい。特に有機農法とか、無農薬野菜を作ってる人たちに聞くと、どれだけ良い土地が作れるかどうか。今の農業は化学肥料とか、虫がいれば薬をまいたりとか、本来の野菜にしろ何にしろ、良い物を考えるとしたら、どれだけ良い土地を作れるかっていうことが、無農薬野菜でもなんでも、何年も土づくりにすごい時間がかかる。土が栄養価になるまですごい時間がかかるということです。
わたしの父が若い頃は園芸が好きだったんです。父は割とそういう所があって、子供心になんで花を育てないんだろうと思って、野菜ばかり作っていましたから。父は鶏糞とか買ってきて土に入れたり、まず土を育てないと植物が育たないんです。だから皆さんも、良い土になる。比喩的にはおかしいかもしれないけれども、良い土をつくらない限り、根付かないし伸びない。わたしたちはすぐ結果がでないといけないし、目に見える成果とか、でもそれ以前の事が一番大事で、どれだけ良い土を、自分の魂をそのようなものに整えていくかということです。それをみなさんに考えてくださったらいいのではないかと思います。
虫がなんでついて野菜とか食べちゃうのかと言ったら、本格的にやっている人から言わせると土地の栄養不足。土地に栄養があって、そこから育った豊作なお米にしろ野菜は虫がつかないというわけです。なんで虫がつくかといったら、栄養が足りないのだけ虫がついて食べちゃう。自然の法則ってよくできてる。だから人間が食べて害がある物にだけ虫がつくんです。人間が本当に食べていいものには虫がつかない。よくできていると思いますが、どれだけ元々の条件を良く作るかということです。わたしたちの魂も同じでしょう。良い土にまずはなる。そこからスタートだという事です。
謙遜という言葉は英語でhumilityとかいうんですが、ラテン語はフムスという言葉で、フムスは土という意味なんです。だから良い土になるという事は謙遜に生きていくという事です。謙遜と素直な心ですね。そういうところから自分の心がまず耕されて、自分の心が魂が豊かになるところに神様の恵みというのは30倍50倍100倍の恵みになるということです。それを今心に刻んで神の子としていきるスタート。出発していただきたいと思います。
神様は皆さんの魂、存在を通して多くの実りを結びたいと思っておられるのは間違いないと思います。神の恵みは現代はおろそかにされすぎていますから、ほとんど芽が出ないんです。神の恵みから考えたら不毛の時代だと思います。だからこそ皆さん一人一人が良い土となって、多くの実りを実らせて、多くの実りは何かと言ったら、やっぱり周りの人々の幸せ、あるいは神様の恵みを分かち合うことだと思います。そのような存在として、スタートできるようにお祈りしましょう。
水をあげたり日が差さないととか大変ですけれども、気温とかちょっと雨が多すぎて発育ができないでしょうが、様々な条件が揃わないと豊作というのはなかなか出ないんですけれど、わたしたちの少なくとも出発点です。
謙遜な心で神の恵みを受けて、それを生活の中で活かしていこうとする。その素直な気持ち、信仰をもって歩んでいく、それを大切にされて、信仰者としてのスタートが切れるように、心を合わせて祈りをささげましょう十

 

 

第一朗読  イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:18-23
(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます十

 

2020年 7 月 13日(日)
 洗礼式〈緑〉A 年 
  カトリック麹町教会 主聖堂 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記